減税を、リバタリアンの視点で考える
「減税」は、単なる家計の話でも、選挙のスローガンでもありません。国家と個人の関係をどう考えるかという問題です。はじめての方に向けて、古典的自由主義やリバタリアニズムがこのテーマをどう捉えるのかを整理します。
「減税」は、単なる家計の話でも、選挙のスローガンでもありません。国家と個人の関係をどう考えるかという問題です。はじめての方に向けて、古典的自由主義やリバタリアニズムがこのテーマをどう捉えるのかを整理します。
減税の話になると、必ず「財源はどうするのか」と問われます。まるで、それに答えられなければ減税を語る資格がないかのように。
しかしリバタリアンは、その問いの前に、もう一つの問いを置きます。
「財源はどうする?」と聞かれる前に、まず「取りすぎでは?」と問う。
私たちは、政府がまず「必要な額」を決め、それを国民から取り立てる、という順番を当たり前だと思い込んでいないでしょうか。
順番を逆に考えてみます。リバタリアンは、正当に得た所得は、まずそれを得た本人に帰属すると考えます。政府はそこから、本当に必要な分だけを、理由を示して受け取る。減税を考えるとは、この順番を取り戻すことです。
↑ 目次へ戻る税はしばしば「社会をみんなで支える会費」と説明されます。しかし会費は、嫌なら退会できます。税は断れば財産を差し押さえられ、最終的には罰せられます。両者は同じではありません。
古典的自由主義とリバタリアニズムがとりわけ問題にしてきたのは、この「強制」です。問題にするのは、人がどの生き方を選ぶかではなく、他者から強制されることです。税は、その強制がもっとも広く、もっとも日常的に及ぶ場面です。
だからといって、「税は一切不要だ」と言いたいのではありません(この点は第4章で述べます)。ただ、税が強制である以上、その範囲はできるだけ小さいほうがよい——これがリバタリアンの出発点です。
↑ 目次へ戻る政府が使うお金や資源にも、必ず何らかの負担があります。税として現在の国民が負担するのか、借入として将来の財政負担につながるのか、別の形で購買力や資源配分に影響するのか——負担そのものが消えるわけではありません。
そして、取り立てる(徴税)にもコストがかかり、配る(給付や事業)にもコストがかかります。
取って配る前に、そもそも取る必要があるのかを問う。
さらに問題があります。市場では、何がどれだけ求められ、どの資源がどれほど希少かといった情報の一部が、価格に反映されます。こうした社会に分散した知識を、中央にいる誰かが正確に把握することはできません(この「分散した知識」の考え方は、オーストリア学派経済学の核心です)。
集めて配り直す仕組みには、次の負担がついてまわります。
これらがあるからといって、政府の給付がすべて無駄だという結論にはなりません。ただ、集めて配り直す範囲を広げるほど、こうした負担も大きくなるという点には注意が必要です。
ここで、自由主義研究所の立場を明確にしておきます。私たちは「税をすべて、明日にでもゼロにせよ」と主張しているわけではありません。
政府の役割を、安全保障や治安の維持といった中心的なものに絞れば、必要な税負担も小さくできます。生活保護やインフラのように、当面は現実的な妥協として認める領域もあります。大切なのは、その範囲を際限なく広げないことです。
減税は目的ではなく、政府を小さくした「結果」である。
順序はこうです。まず「政府は何をすべきか」を絞る。その分だけ税が要る。そして残りは——取らない。これが減税です。減税とは、行きすぎた政府を、より限定された役割へ戻す作業です。
↑ 目次へ戻る減税と給付は、しばしば同じ「家計支援」として並べられます。しかし、その性質は違います。
| 減税 | 給付 | |
|---|---|---|
| 仕組み | 取る額を減らす | 取ってから配り直す |
| お金の流れ | はじめから本人に残る | いったん国庫を経由する |
| 行政上の手続き | 税率・控除など税制の変更 | 対象・金額・支給方法の設計 |
| 届く相手 | その税を負担している人が中心 | 税負担の少ない人にも、設計次第で届く |
どちらが優れているかは、目的によります。たとえば所得税をほとんど払っていない困窮者に所得税の減税をしても、直接の支援にはなりません。短期間で特定の人に支援を届けたいなら、給付のほうが直接的な場合があります。
そのうえで古典的自由主義とリバタリアニズムが減税を重視するのは、広く集めて政治が配り直す仕組みを恒常的に大きくするより、できるだけ本人の手元に残し、使い道を本人が決められる範囲を広げたいと考えるからです。
減税は、国家に許しを請うことではない。自分のお金を、自分の手元に残すことだ。
↑ 目次へ戻る「今のサービスをすべて維持したまま」を前提にすれば、そうなります。しかしリバタリアンは、そもそも政府がやるべきこと自体を絞ろう、と提案します。いま政府が担っている仕事の多くは、民間や地域社会が担えるものです。「何を減らすか」を避けて「財源はどうするのか」とだけ問うのは、議論の半分にすぎません。
ここでリバタリアンは、「その富は、どのようにして得られたのか」を問います。人々が欲しがるものを提供して得た富と、規制や補助金、参入障壁によって守られた富は、性質が異なります。働いて得た富への課税を軽くすることと、政治的な特権を守ることは別の話です。私たちは、後者の特権こそ強く批判します。
減税と歳出削減は、セットで考えるべきです。「取る」を減らすなら、「使う」も減らす。借金を重ねて穴を埋め続ける発想こそ、私たちが批判するものです。「減税だけして支出はそのまま」は、自由主義研究所が考える小さな政府への道筋ではありません。
政府の支出は、税や国債だけでまかなわれるとはかぎりません。財政と貨幣創造が結びつき、物価の上昇によって貨幣の実質的な購買力が下がる場合、その負担は経済学で「インフレ税」と呼ばれることがあります。法律にもとづく通常の税と同じ制度ではありませんが、明示的な増税を経ないまま実質的な負担が生じるという点で、減税を考えるうえで避けて通れない論点です。くわしくは 金融政策・中央銀行 の論点をご覧ください。
↑ 目次へ戻る減税は、家計を助けるためだけの一時的な景気対策ではありません。「政府は小さいほうがよい」という考えから導かれる政策です。
私たちは、「財源はどうするのか」という問いに答えないのではありません。その前に置くべき問い——「そもそも取りすぎではないか」「政府は何をすべきか」——を、先に取り戻したいのです。
まず政府の役割を絞る。だから、税を減らせる。
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