自由主義とは
自由主義研究所が紹介する「自由主義」とは何か。はじめて学ぶ方に向けて、全体像を整理しました。
自由主義研究所が紹介する「自由主義」とは何か。はじめて学ぶ方に向けて、全体像を整理しました。
自由主義とは、一人ひとりの人間を尊重し、「個人の自由」を政治や社会の重要な原則として守ろうとする思想です。
人はそれぞれ、異なる考え方、価値観、人生の目的を持っています。
自由主義は、政府や多数派が「社会全体のため」という理由で1つの生き方を押しつけるのではなく、他人の権利を侵害しない限り、それぞれの人が自分の人生について自分で考え、選べる社会を目指します。
自由主義がいう「自由」は、何をしてもよいという意味ではありません。
他人の生命、自由、財産を侵害しない限り、自分の人生は自分で決められる。
これが自由主義の基本的な考え方です。
自由主義研究所では、政治思想として主に古典的自由主義(クラシカルリベラリズム)とリバタリアニズムを、経済学としてオーストリア学派を紹介しています。
自由主義は、個人を出発点に社会と政治を考えます。国家、社会、民族、階級などの「全体の目的」を理由に、個人を当然のように犠牲にすることを警戒します。
そのうち古典的自由主義とリバタリアニズムが政治の領域で特に注目するのは、他人からの強制や干渉です。政府は合法的に強制力を行使できる組織だからこそ、その強制に正当性があるかどうかを問うことが、政治の重要な課題になります。
自由主義の自由には、他人の同様の自由を侵害してはならないという制限があります。この制限があるからこそ、すべての人が等しく自由でいられます。
このページでは、自由主義をはじめて学ぶ方に向けて、次の内容を順に解説します。
関心のある項目から読んでいただいてかまいません。
「自由」という言葉は、日常生活の中でさまざまな意味で使われます。欲しいものを購入できる。政治に参加できる。体調に左右されずに行動できる。自分の感情をコントロールできる。他人に命令されずに生きられる。いずれも「自由」と表現されます。
言葉の意味があいまいなままでは、議論はかみ合いません。そこでまず、自由主義がどの意味の「自由」を問題にしているのかを確認します。
古典的自由主義やリバタリアニズムが政治的な意味で特に重視するのは、他人や政府から強制や干渉を受けずに行動できる領域を守ることです。
このような自由は、一般に「消極的自由」と呼ばれます。何でも望みどおりにできる能力ではなく、他人や政府によって行動を妨げられていない状態や、そのように行動できる領域を意味します。
ここで、2つの問いを分けておく必要があります。「自由が制約されているか」と、「その制約が正当化されるか」です。例えば、犯罪を防ぎ、他人の権利を守るための法執行も、人の行動を制限します。しかし、その制限が正当かどうかは、別に判断されます。
例えば、次のような状態は、古典的自由主義やリバタリアニズムが典型的に問題とする自由の制約です。
一方、お金が足りず欲しい商品を買えない。能力が足りず希望する職業に就けない。こうした状態も、日常語では「不自由」と表現されます。しかし古典的自由主義やリバタリアニズムは、「望みを実現する能力が足りない」ことと、「他者に行動を強制・禁止されている」ことを区別します。
古典的自由主義とリバタリアニズムが強制を特別に扱うのは、貧困や病気を軽く見ているからではありません。強制には、次の3つの特徴があるからです。
第一に、強制は人や組織によって行われます。台風や病気のような自然的・偶発的な制約とは異なり、強制には、その行為に責任を負う主体がいます。だからこそ、その強制が正当化できるかどうかを問うことが、政治の重要な課題になります。
第二に、強制は、その人自身の判断で行動する余地を奪います。強制を受けた人は、自分の目的にしたがって選ぶのではなく、他人の意思によって行動を変えたり、選択肢を狭められたりします。場合によっては、他人の目的を実現するための手段として扱われます。
第三に、政府による強制は、私人による強制とは、規模も制度的な力も異なります。私人による暴力は原則として違法ですが、政府は法律、警察、刑罰、徴税などを通じて、社会全体に強制力を行使できます。逃げることも、断ることも簡単ではありません。だからこそ、政府の強制は私人の強制以上に慎重に正当化されなければなりません。
これに対して「積極的自由」という概念があります。これは、古典的自由主義やリバタリアニズムのいう「自由」(消極的自由)とは、まったく異なる考え方です。
「積極的自由」は、自分の望むように人生を統御できることに注目します。消極的自由が主に「他人から妨げられずに行動できる領域」を問題にするのに対し、積極的自由は「自分を実際に動かしているのは誰か」を問題にします。教育、所得、健康など、自由を実際に行使するための条件をどこまで自由の問題に含めるかは、ここから派生する別の議論です(→ ニュー・リベラリズムとは)。
この2つには、歴史的な前後関係があります。18〜19世紀の自由主義が求めたのは、主に消極的自由でした。専制的な王権、身分制、国教会、検閲、貿易規制など、取り除くべき障壁がはっきりしていた時代です。20世紀に入ってこうした法的な障壁が次々に撤廃されると、「法の上では自由なのに、実際には選べない」という問いが前面に出てきます。積極的自由が政治の言葉として力を持ったのは、この局面でした。
この「消極的自由」と「積極的自由」という2つの区別は、20世紀にアイザイア・バーリンの講演「二つの自由概念」(1958年)によって広く知られるようになりました。バーリンは積極的自由という考え方そのものを否定したわけではありません。しかし、「本当の自分」を実現することが自由だと定義されると、「あなたは本当は何を望んでいるかをわかっていない。私たちが強制するのは、あなたを本当の意味で自由にするためだ」という論法が生まれうると警告しました。
自由の名において人を強制する。この逆転が起こりうることが、古典的自由主義者やリバタリアンが積極的自由の政治的な利用に慎重である理由の1つです。
もう1つの理由は、逆向きの論法です。自由を実際に行使するための条件まで「自由」に含めると、「私の自由を守るために、私には◯◯を提供される権利がある」という主張が成り立ちます。教育、医療、住宅、所得。それ自体は望ましく見えます。しかし◯◯は、誰かが提供しなければ存在しません。消極的自由の要求が「放っておいてほしい」で完結するのに対し、積極的自由の要求は、他人の負担なしには満たせないことがあります。一方の「自由への権利」を保障することが、他方への強制を伴うことがある——古典的自由主義とリバタリアニズムは、この転換を見過ごさないために、2つを区別します。
そしてこの違いは、政府の役割をどこまで認めるかという問題に直接つながります。
自由主義には、
「他の人の自由と権利」を侵害してはならない
という重要な制限があります。自分に行動の自由があるのと同じように、他人にも生命、身体、財産、生き方についての自由があるからです。したがって、次のような行為は自由として認められません。
自由主義が擁護するのは、すべての人に等しく認められる自由です。自分だけが特別に何をしてもよいという主張は、自由主義ではありません。それは単なる特権の要求です。
↑ 目次へ戻る古典的自由主義やリバタリアニズムの思想家は、国家の必要性、税、福祉、外交、財産権の範囲などをめぐって、必ずしも同じ意見を持っているわけではありません。しかし、その多くは次の原則を重視しています。
個人の自由を重要な政治的価値と考えます。政府の政策を評価するときにも、
その政策は、個人の自由を広げるのか。それとも狭めるのか。
という視点を重視します。
自由は唯一の価値ではありません。しかし政治権力が強制を用いる場面では、自由が失われることへの特別な注意が必要です。
自由主義における個人主義は、「自分さえよければよい」という利己主義ではありません。一人ひとりの人間は、それぞれ異なる考えや人生を持ち、集団のための単なる部品として扱われてはならない、という考え方です。「国家」「社会」「民族」「階級」といった全体の目的を理由に、個人を簡単に犠牲にしてはならないと考えます。
なお、個人主義は、人が孤立して生きるべきだという主張ではありません。家族、友情、地域、企業、信仰といった結びつきを否定するどころか、そうした関係が国家から命令されるのではなく、人々の自発的な選択や協力によって形成・維持される余地を重視します。
政府は、法律、警察、刑罰、徴税などを通して、人々に従うことを強制できる組織です。そのため自由主義者は、政府が「国民のため」「公益のため」と説明しているだけで、その行動が正しいとは考えません。権力者も、知識の限界、誤り、私的利益、政治的圧力の影響を免れません。
検証すべきなのは、政府の目的だけでなく、実際に用いる手段と、その結果です。
法の支配とは、政治家や行政機関も、あらかじめ定められた一般的な法に従わなければならないという原則です。政府がその時々の都合で特定の人を優遇したり不利益を与えたりする、恣意的な統治とは異なります。法の支配のもとでは、法は、
「法律で決まっていれば何でもよい」という考え方(法律による支配)とは異なることに注意が必要です。民主的な手続きを経て成立した法律であっても、個人の基本的な権利を侵害するなら、その正当性は問われなければなりません。
社会は、政府と個人だけで構成されているわけではありません。家族、地域社会、学校、企業、宗教団体、慈善団体、相互扶助組織など、人々が自発的につくるつながりを、一般に「市民社会」と呼びます。
古典的自由主義とリバタリアニズムは、社会の問題をすべて政府が解決するのではなく、当事者に近い人々や自発的な組織が解決する余地を重視します。
「政府がやらないなら、誰もやらない」わけではありません。歴史的には、共済組合、友愛組合、寺社や教会、地域の互助など、多くの支え合いが自発的に営まれてきました。
社会の秩序は、必ずしも政府や専門家が上から設計しなければ生まれないものではありません。言語、慣習、価格、商取引のルールなど、多くの社会制度は、無数の人々がそれぞれの目的に基づいて行動する中から形成されてきました。誰かが全体を計画したわけではないのに、人々の相互作用から生まれる、こうした秩序を「自生的秩序」と呼びます。
日本語も、誰かが会議で設計したものではありません。しかし、一定の文法があり、人々の間で通じます。秩序は、必ずしも設計者を必要としないのです。
自由市場とは、人々が、自分の財産や労働をどのように使うかを自分で決め、相互の同意に基づいて交換する仕組みです。何をつくるか、どこで働くか、何を購入するか、どの事業に挑戦するかを、政府ではなく個人や企業が判断します。そのためには、私有財産、契約の自由、価格の自由、参入と退出の自由が必要です。
取引は双方が同意して初めて成立します。だからこそ、利益を得るには他人が欲しいと思うものを提供する必要があります。
なお、自由市場は、詐欺、脅迫、窃盗が許される仕組みではありません。これらは、そもそも同意にもとづく取引ではないからです。
寛容とは、自分が賛成する行為を認めることではありません。自分が間違っていると思う考えや、好ましくないと思う生き方であっても、他人の権利を侵害していない限り、政府の力によって禁止しようとしないことです。言論、思想、信仰、表現、生活様式の自由は、この原則と深く関係しています。
自分が多数派であるときにも寛容でいられるかどうかが、その社会の自由の程度を示します。
戦争は、人命を奪うだけでなく、言論、財産、移動、経済活動など、多くの自由を制限します。戦時には、徴兵、統制経済、増税、検閲、監視といった、平時なら認められない権力の拡大が正当化されがちです。そして戦争が終わっても、拡大した政府がそのまま残ることは珍しくありません。
自由主義は、国家間の対立を軍事力によって解決するよりも、人、商品、サービス、資本、情報が国境を越えて平和的に交流することを重視します。
ただし、防衛、抑止、同盟、軍事介入をどこまで認めるかについては、自由主義者のなかでも意見の違いがあります。
古典的自由主義とリバタリアニズムは、政府の権力が無制限に拡大することを警戒します。政府を必要と考える論者の多くも、その役割は、個人の生命、自由、財産を守ることを中心とする限定的なものでなければならないと考えます。そのための手段として、憲法、権力分立、連邦制や地方分権、司法審査、財政規律などが重視されてきました。
政府の存在を認める立場であっても、その権力に厳しい制限と監視を求めます。また、政府そのものを否定する無政府資本主義者は、強制の独占自体を問題にします。いずれも、政府権力が無制限であってよいとは考えません。
↑ 目次へ戻る自由主義は、机上で考え出された理論ではありません。権力による支配、宗教弾圧、身分制、経済統制といった現実の問題に対する、長い抵抗の中から形づくられてきました。
宗教改革の後、ヨーロッパではカトリックとプロテスタントの争いが長く続きました。どちらの側も、自分たちが正しいと確信し、国家権力によって相手を従わせようとしました。しかし、殺し合っても、どちらも相手を屈服させることはできません。そこから、次の発想が生まれます。
信仰が違う人々も、互いに強制しなければ、同じ社会で共存できるのではないか。
「寛容」は、哲学的な議論からだけでなく、強制によって信仰を統一しようとすることの限界を経験する中から発展しました。近代自由主義の重要な出発点の1つです。
ジョン・ロックは『統治二論』(1689年)で、人には政府ができる前から、生命、自由、財産についての権利があると論じました。政府が国民に権利を与えるのではなく、国民が政府に限られた権限を託している。この転換が、その後の自由主義の土台になります。
アダム・スミスは『国富論』(1776年)で、国の豊かさは政府が管理する金銀の量ではなく、人々が生み出す財とサービスにあると論じました。ただしスミスは市場を無条件に賛美したわけではありません。また、政府と結びついて特権を求める商人たちにも厳しい目を向けています。
フレデリック・バスティアは、法が本来の役割を超えて、一部の人が他人の財産を合法的に奪う手段(合法的略奪)になりうることを批判しました。
19世紀は、奴隷制の廃止、身分的特権の解体、信教の自由の拡大、穀物法の撤廃と自由貿易の前進、検閲の縮小など、自由主義の理念と結びつく改革が大きく進んだ時代でもありました。
第一次世界大戦や世界恐慌を経て、社会主義やファシズム、計画経済が広がり、政府の役割を拡大する動きが各国で強まりました。その結果、古典的自由主義は大きく後退します。
その中でミーゼスは「社会主義共同体における経済計算」(1920年)で、生産手段の市場価格を欠く社会主義経済では経済計算ができないと論じ、ハイエクは『隷従への道』(1944年)で、経済の計画が政治的自由の喪失につながる危険を指摘しました。1947年には、ハイエクの呼びかけで、ミーゼス、ミルトン・フリードマン、カール・ポパーらがスイスのモンペルランに集まり、自由社会の思想を再建するための国際的な組織、モンペルラン協会が結成されました。
第二次世界大戦後のアメリカでは、古典的自由主義の伝統を受け継ぎながら、政府権力の制限をさらに徹底しようとする現代のリバタリアニズムが発展しました。国家そのものを不要とする無政府資本主義を唱えたマレー・ロスバード、個人の権利を守る最小国家を擁護したロバート・ノージック、政治家や官僚も自らのインセンティブに反応する存在として分析したジェームズ・ブキャナンらの公共選択論など、多様な思想が展開されます。21世紀には、2023年にアルゼンチン大統領に就任したハビエル・ミレイのように、オーストリア学派経済学とリバタリアニズムを明確に掲げる政治家も登場しました。
ここで名前を挙げた思想家の生涯、主著、主要な議論については、専用のページで詳しく紹介しています。
↑ 目次へ戻る「自由主義」と呼ばれる思想には、いくつもの系譜があります。今日しばしば混同される4つを、まず一覧で整理します。
| 系譜・用語 | 主に重視する自由 | 政府の役割 | 市場への考え方 |
|---|---|---|---|
| 古典的自由主義 | 強制や干渉からの自由 | 治安・司法・防衛などを中心に限定 | 私有財産と自由市場を重視 |
| リバタリアニズム | 個人の身体・財産・選択の自由 | 最小限を志向する立場から国家不要論まである | 自発的交換と市場を強く重視 |
| ニュー・リベラリズム | 自由を実際に行使するための能力や条件 | 教育・福祉・労働政策などを認める | 市場を認めつつ社会政策で補う |
| ネオ・リベラリズム | 市場経済のもとでの個人・経済活動の自由 | 市場の制度的枠組みと限定的福祉を認める場合がある | 競争、民営化、規制改革を重視 |
この表は、それぞれの一般的な傾向を整理したものです。内部には多くの異なる立場があり、すべての思想家がこの整理に完全に当てはまるわけではありません。
とくにネオ・リベラリズムには広く共有された定義がありません。今日では自ら名乗る人は少なく、多くの場合は他人につけられる呼び名です。この名称だけでは、その人物や政策が何を主張しているのかは判断できません。
それぞれの思想の内容や成立の経緯、そして「リベラル」という言葉の意味が国や時代によってどのように変化してきたのかについては、専用のページで詳しく解説しています。
↑ 目次へ戻る自由主義と民主主義は、同じものではありません。
民主主義は、主に、誰が政治を担い、どのような手続きで政治的な決定をするかに関する仕組みです。
自由主義は、政府や多数派であっても侵害してはならない個人の自由と権利を重視する思想です。
大づかみに言えば、民主主義は「誰が決めるか」の問題であり、自由主義は「そもそも何をどこまで決めてよいのか」の問題です。
民主的な選挙によって選ばれた政府であっても、少数者の言論を禁止したり、特定の人々の財産を恣意的に奪ったりすれば、自由主義的な政府とはいえません。
たとえば、51人が49人を殴ってよいと多数決で決めても、それは殴ってよい理由にはなりません。
自由主義の観点から見ても、民主主義には、平和的に政権を選び、交代させられるという重要な価値があります。
流血なしに権力者を交代させられること。これは決して小さな価値ではありません。
しかし、多数決によって決まったことが、常に正しいとは限りません。
そのため、民主的な政府も、
などによって制限される必要があります。
古典的自由主義やリバタリアニズムの観点では、民主主義はそれ自体で個人の自由を保証するものではありません。民主主義は、平和的に政治権力を選び、交代させるための重要な制度の1つです。
↑ 目次へ戻る古典的自由主義者やリバタリアンの多くは、個人の自由、私有財産、自発的な交換、政府権力の制限といった原則を重視しています。
しかし、なぜ自由を守らなければならないのかという根本的な理由については、意見が分かれます。代表的なのが、権利から答える立場(主に自然権論)と、結果から答える立場(帰結主義)です。これは、リバタリアニズム内部における重要な哲学上の違いの1つです。
| 自然権論(権利から答える) | 帰結主義(結果から答える) | |
|---|---|---|
| 自由を守る理由 | 人には政府ができる前から、生命・自由・身体・正当に取得した財産についての権利があるから | 自由な制度のほうが、長期的に繁栄・平和・技術革新・社会的協力をもたらしやすいから |
| 権利の位置づけ | 政府や多数派が越えてはならない境界線 | よい結果をもたらす重要な制度的ルール |
| 代表的な論者 | ジョン・ロック、ロバート・ノージック、マレー・ロスバード | ミーゼス、ハイエク、ミルトン・フリードマン、デイヴィド・フリードマン |
| 指摘される課題 | 自然権はどこから導かれるのか。権利同士が衝突したらどちらを優先するのか | 誰にとっての利益を基準にするのか。多数者のために少数者を犠牲にしてよいのか |
この2つは、現実の多くの論点で同じ方向の結論に達します。私有財産、契約の自由、言論と信教の自由、法の支配、自由市場、政府権力の制限、平和的な国際関係——いずれも、どちらの立場からも支持されます。
帰結主義の立場から自由が支持されるのは、自由市場には、分散した知識を活用し、消費者の選択を通じて企業を評価し、利益と損失によって資源の使い方を調整し、うまくいかない事業の退出を促す働きがあると考えるからです。
しかも多くの場合、個別の政策が一時的にどのような結果をもたらすかではなく、社会に一般的に適用されるルールが、長期的にどのような結果をもたらすかが問われます。
たとえば、一度だけ財産権を侵害すれば大きな利益が得られるように見えても、政府にその権限を与える一般的なルールをつくれば、将来の濫用や投資の減少を招くかもしれません。帰結主義では、こうした長期的な制度への影響も含めて考えます。
結論に至る理由が異なるため、例外的な状況では、両者の結論が分かれることがあります。たとえば、少数者の権利を侵害すれば、多数者に大きな利益が生じると仮定してみます。
多数者に利益があるとしても、無実の人の権利を侵害してはならない。
これが自然権論の答えです。一方、純粋な帰結主義を徹底すれば、
権利侵害による不利益よりも社会全体の利益が大きいなら、例外的に認められる可能性がある。
という結論になりえます。ここに両者の大きな緊張があります。
なお、ハイエクの自由論は、しばしばこのような制度的・帰結主義的な性格を持つと評価されます。ただし、彼の思想を、社会全体の効用を単純に計算する功利主義として整理することには注意が必要です。
また、必ずしもどちらか一方だけを選ばなければならないわけではありません。権利を自由社会の道徳的な土台としながら、自由な制度が繁栄や平和をもたらすことを、その制度を支持する追加的な根拠とする立場もあります。さらに、自由を擁護する根拠は、この2つだけではありません。社会契約論、徳倫理、自生的秩序、権力分散、多元主義など、さまざまな立場があります。
この2つの立場が、緊急避難、公共財、徴税、子どもの権利、契約の限界、環境、知的財産、移民といった具体的な論点で、どこで実際に結論が分かれるのかについては、応用編で詳しく扱っています。
↑ 目次へ戻るリバタリアニズムは政治哲学であり、オーストリア学派は経済学の一学派です。両者は同じものではありません。オーストリア学派を研究する人が、必ずしもすべてのリバタリアン的な政策に賛成するとは限りませんし、リバタリアンが必ずオーストリア学派の経済学を支持するわけでもありません。
それでも両者の結びつきが強いのは、オーストリア学派の経済分析が、政府による経済への介入や計画の限界を考えるうえで重要な視点を提供するからです。とくに、次の2つの考え方は、リバタリアニズムとの関係を理解するうえで重要です。
市場に必要な知識は、社会全体に分散しています。ある工場でどの機械が不足しているか。ある町で今週どんな商品が求められているか。こうした知識の多くは統計には表れにくく、しばしば現場にいる人にしかわかりません。
ハイエクは「社会における知識の利用」(1945年)で、価格の仕組みが、社会に分散した情報を人々に伝え、それぞれの行動を調整する働きを持つことを論じました。価格、利益、損失、競争、企業家活動は、誰かが経済全体を把握しなくても、分散した知識を活用し、人々の行動を調整する役割を果たします。
ミーゼスは1920年に、さらに根本的な問題を指摘しました。彼が問題にしたのは、消費財に値段がつかないことではなく、土地、機械、原材料といった生産手段の市場価格が成立しないことです。
生産手段が国有化され、市場で売買されなくなれば、市場価格も成立しません。すると、限られた資源を使って複数の生産方法のうちどれを選ぶべきかを、貨幣という共通のものさしで比較することができなくなります。
つまり、ミーゼスの指摘はこういうことです。社会主義的な計画経済が抱える問題は、計画者が悪意を持っているからでも、単に無能だからでもありません。経済的に比較するための道具そのものが失われるのです。そのため、どの生産方法が希少な資源をより有効に使うのかを、貨幣という共通の尺度で比較・計算できません。
この問題をめぐって展開された議論は「経済計算論争」と呼ばれ、20世紀の経済学における重要な論争の1つとなりました。
オーストリア学派とは別の系統ですが、公共選択論も重要な視点を提供します。公共選択論は、政治を分析するときにも、政治家や官僚を公益だけを追求する特別な存在とはみなさず、一般の人々と同じように、さまざまなインセンティブに反応する人間として捉えます。政治家には再選、官僚には予算や権限など、それぞれの行動に影響を与える動機があります。ブキャナンは、このような政治の分析を「ロマンスなき政治(Politics without Romance)」と表現しました。
したがって、市場の失敗を指摘するだけでは十分ではありません。それを是正するとされる政府にも、知識の限界やインセンティブの問題があるからです。
比較すべきなのは、現実の市場と理想化された政府ではなく、現実の市場と現実の政府です。
ミーゼスとハイエクそれぞれの議論、そして貨幣と中央銀行をめぐる論点については、専用のページで詳しく解説しています。
↑ 目次へ戻る自由主義は、すべての答えが最初から決まっている教義ではありません。
同じように個人の自由を重視する人々の間でも、次のような論点について議論が続いています。
これらの論点について、自由主義者の間に1つの統一された答えがあるわけではありません。
異なる立場とその根拠を紹介し、読者が自分で考えるための材料を提供することも、私たちの役割だと考えています。
ここに挙げた10の論点について、何が争われているのか、どのような立場があるのか、さらに詳しく学ぶには何を読めばよいのかを、応用編の 自由主義者の間でも意見が分かれる10の論点 にまとめています。
↑ 目次へ戻る古典的自由主義やリバタリアニズムは、困っている人を助けること自体に反対する思想ではありません。問題にするのは、援助そのものではなく、誰が、どのような方法で、誰の負担によって行うかです。一般に、家族、地域社会、慈善団体、相互扶助、民間保険、企業、宗教団体などによる、自発的な支援や助け合いを重視します。
「政府がやるべきだ」と「誰かがやるべきだ」は、同じ意味ではありません。なお、古典的自由主義者やリバタリアンの中にも、政府による一定の福祉や最低限の生活保障を認める論者がいます。
自由市場は、既存の大企業に特権を与える制度ではありません。政府の補助金、参入規制、特別な免許、救済措置、保護関税などによって、一部の企業を競争から守る仕組みは、自由市場とは異なります。また、複雑な規制や許認可制度は、専任の法務部門や十分な資金を持つ大企業には対応できても、新規参入者や小さな事業者には重い負担となる場合があります。その結果、規制が既存企業を競争から守る壁として働くこともあります。
自由主義が批判するのは、大企業そのものではありません。政治的な特権によって競争から守られていることが問題なのです。
自由主義は、何が善い人生か、何が道徳的かを考えることに反対しません。ある行為を道徳的に批判することと、その行為を政府の力で禁止することは、別の問題だと考えます。「それは間違っている」と言うことと「だから警察に取り締まらせるべきだ」と言うことの間には、大きな飛躍があります。だからこそ自由主義は、道徳、宗教、家族観、生活習慣などを、政治権力によって一律に強制することには慎重です。
同じではありません。政府の肥大化への警戒や、私有財産・市場経済の重視など、共通する点はありますが、伝統、宗教、家族、国家、治安、戦争、移民、生活様式などをめぐっては、異なる結論に達することがあります。自由主義は、伝統的な価値観を持つ自由も、伝統とは異なる生き方を選ぶ自由も、原則として等しく尊重するからです。
両者が実際に組もうとして何が起きたのかは、応用編の 保守と組むべきか ― パレオリバタリアニズム で扱っています。
自由主義は、「左か右か」という区分には完全には収まりません。経済的自由を重視する点では一部の右派と、言論・身体・プライバシー・移動・生活様式の自由を重視し、軍事介入に慎重な点では一部の左派と、それぞれ共通する部分があります。
リバタリアニズムは、経済的自由と市民的自由の両方を一貫して擁護しようとする思想です。
同じではありません。日本の政治言論で「リベラル」は、しばしば護憲や人権を重視し、社会保障や再分配に比較的積極的な中道左派・左派の立場を指します。これに対し古典的自由主義(クラシカルリベラリズム)は、政府権力の制限、私有財産、法の支配、自由市場を重視する伝統です。同じ「リベラル」という言葉でも、国や時代によって意味は大きく異なります。その違いについては、「リベラル」という言葉の混乱で詳しく扱っています。
無政府資本主義が否定するのは秩序ではなく、強制的な独占としての国家です。ルール、裁定、警備、紛争解決などは必要だと考えます。問題は、それらを、領域内で唯一の強制的な組織である国家が独占して提供しなければならないのか、という点です。この立場には多くの批判があり、自由主義者の間でも意見は一致していません(→ 応用編 最小国家か、無政府資本主義か)。
古典的自由主義者やリバタリアンがまず問うのは、格差の大きさそのものよりも、その差がどのようにして生じたかです。
自発的な取引や正当に取得した財産の運用によって生じた格差と、政府の規制、補助金、参入障壁、救済措置などの政治的な特権によって生じた格差は、同じ「格差」であっても性質が異なると考えます。特に強く批判するのは後者、つまり政治的な特権によって生じる格差です。
また、格差と貧困も区別して考えます。人々の所得に差があることと、貧しい人々の生活水準が低いことは、同じ問題ではありません。古典的自由主義者やリバタリアンは、絶対的な貧困を減らすうえで、自由な市場、交易、技術革新、経済成長が重要な役割を果たしてきたと考えます。
↑ 目次へ戻る自由主義には、古典的自由主義、社会自由主義、リバタリアニズム、ニュー・リベラリズム、ネオ・リベラリズムなど、さまざまな思想的系譜や関連する用語があります。
自由主義研究所では、その中でも主に、
を紹介しています。
私たちは、個人の生命、自由、財産を尊重し、政府を含む他者からの強制をできる限り少なくする社会を目指します。
同時に、自由主義の内部に異なる立場や議論が存在することも紹介します。
私たちは、特定の思想家の権威だけを理由に、自由主義をそのまま受け入れるべきだとは考えていません。異なる議論を比較し、原理と現実の両面から検討することが大切だと考えています。
自由主義を単なるスローガンではなく、自由な社会をどのように築き、維持していくのかを考えるための思想として、日本の人々に分かりやすく伝えていきます。
↑ 目次へ戻る| 用語 | 意味 |
|---|---|
| クラシカルリベラリズム | 古典的自由主義。個人の権利、私有財産、法の支配、制限された政府を重視する自由主義の伝統 |
| リバタリアニズム | 個人の自由と権利を重視し、政府や他者による強制を厳しく制限しようとする政治哲学 |
| 消極的自由 | 他人や政府による強制や干渉を受けないことを重視する自由概念 |
| 積極的自由 | 自分の望むように人生を統御できることを重視する自由概念。消極的自由とはまったく異なる考え方 |
| 自己所有権 | 自分の身体と人生について最終的に決める権利は自分自身にあるという考え |
| 不侵略原則 | 暴力・脅迫・詐欺などによって、他人の身体や正当な財産を先に侵害してはならないという原則 |
| 自生的秩序 | 誰も全体を設計していないのに、人々の相互作用から生まれる秩序 |
| 法の支配 | 政府自身も、あらかじめ定められた一般的な法に拘束されるという原則 |
| 最小国家論 | 政府の役割を警察・司法・防衛などに限定する立場 |
| 無政府資本主義 | 治安や裁判を含むサービスも市場と契約で提供できると考え、国家を不要とする立場 |
| オーストリア学派 | 個人の行為と主観的価値を出発点に経済を分析する経済学の一学派 |
| 経済計算論争 | 私有財産と生産手段の市場価格を欠く社会主義経済で、合理的な経済計算が可能かをめぐる論争 |
| 公共選択論 | 政治家や官僚もインセンティブに反応する存在として捉え、政治や政府の意思決定を分析する研究分野 |
※本ページは、自由主義についての代表的な考え方を、はじめて学ぶ方にもわかりやすいように整理したものです。各思想家の立場には、さらに細かな違いがあります。
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