自由主義をめぐる4つの系譜・用語
「自由主義」と呼ばれる思想には、いくつもの系譜があります。ここでは、今日しばしば混同される4つを整理します。
「自由主義」と呼ばれる思想には、いくつもの系譜があります。ここでは、今日しばしば混同される4つを整理します。
このページは、自由主義とはの第4章を独立させ、詳しく解説したものです。入門ページを先に読んでいなくても、このページだけで読めます。
古典的自由主義、リバタリアニズム、ニュー・リベラリズム、ネオ・リベラリズム。いずれも「自由主義」に関わる言葉ですが、重視する自由も、政府に求める役割も同じではありません。
最後に、「リベラル」という言葉が国と時代によってどう食い違ってきたかも整理します。
古典的自由主義、またはクラシカルリベラリズムとは、個人の権利、私有財産、契約の自由、法の支配、信教・言論の自由、自由貿易、制限された政府などを重視する自由主義の伝統です。
歴史的には、絶対王政、身分的な特権、国教、重商主義的な統制などに対し、個人の権利と政府権力の制限を求める思想として発展しました。
古典的自由主義は、政府が一切存在してはならないと必ず主張するわけではありません。
多くの古典的自由主義者は、治安、司法、防衛などを政府の役割として認めます。一方で、政府が経済、教育、福祉、文化、個人の生活に広く介入することには慎重です。
古典的自由主義を代表する思想家として、ジョン・ロック、アダム・スミス、フレデリック・バスティア、ジョン・スチュアート・ミル、ハーバート・スペンサー、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、フリードリヒ・ハイエクなどが挙げられます。
ただし、これらの思想家の主張がすべて同じというわけではありません。
↑ 目次へ戻るリバタリアニズムは、個人の自由と権利を政治の中心に置き、政府や他者による強制を厳しく制限しようとする思想です。
日本語では「自由至上主義」と訳されることがあります。しかし、「自分の自由だけを至上のものとする思想」という誤解を招きやすいため、自由主義研究所では原則として「リバタリアニズム」と表記します。
リバタリアニズムでは、一般に次の原則が重視されます。
リバタリアニズムの議論の中心には、2つの考え方があります。
自己所有権とは、自分の身体と人生について最終的に決める権利は、自分自身にあるという考え方です。
もし自分が自分の身体の主人でないなら、他の誰かが主人であることになります。それは、程度の差はあれ、奴隷制と同じ構造です。
不侵略原則(Non-Aggression Principle)とは、暴力、脅迫、詐欺などによって、他人の身体や正当に取得した財産を先に侵害してはならない、という原則です。
「先に」という点が重要です。この原則は、自衛や、侵害に対する救済を否定するものではありません。
そして多くのリバタリアンは、この原則を政府にも同じように適用します。
個人がしてはいけないことは、大勢で決めても、制服を着ても、してはいけない。
この一貫性の要求が、リバタリアニズムの特徴です。
最小国家論者は、政府の役割を、警察、司法、防衛など、個人の権利を守るために必要な最小限の機能に限定しようとします。
ロバート・ノージックなどが代表的な思想家として挙げられます。
無政府資本主義は、治安、裁判、防衛を含むサービスも、自発的な契約や市場によって提供できると考え、国家そのものを不要とする立場です。
マレー・ロスバードなどが代表的な思想家として挙げられます。
無政府資本主義は、無秩序を望む思想ではありません。ルールや裁定は必要だが、それらは強制的な独占組織でなくても提供できる、という主張です。
この2つの立場が実際にどこで対立しているのか——ノージックとロスバードの応酬、国防をはじめとする4つの難所、中世アイスランドなどの歴史事例については、応用編の 最小国家か、無政府資本主義か ― 縮小は、どこで止まるのか で詳しく扱っています。
古典的自由主義とリバタリアニズムの境界は明確ではありません。
一般には、リバタリアニズムのほうが、政府の役割をより厳しく制限し、身体、財産、契約に関する個人の権利をより一貫して適用しようとする傾向があります。
↑ 目次へ戻る19世紀後半のイギリスでは、産業化によって社会が豊かになる一方、都市の貧困、劣悪な労働環境、病気、失業、教育機会の不足などが大きな政治問題となりました。
それまでの古典的自由主義は、国家による干渉や特権を取り除き、契約、交易、職業選択の自由を広げることを重視していました。
しかし一部の自由主義者は、法律上の制約を取り除くだけでは、すべての人が現実に自分の人生を選べるようになるとは限らない、と考えるようになりました。
この問題意識から生まれたのが、19世紀末から20世紀初頭の英国におけるニュー・リベラリズム(New Liberalism)です。
トーマス・ヒル・グリーンはその哲学的な先駆者であり、L・T・ホブハウスはニュー・リベラリズムを代表する理論家の一人です。
New Liberalismが「新自由主義」と訳されることがあります。
しかし、後に登場するNeoliberalismも「新自由主義」と訳されるため、両者が混同されやすくなっています。
本ページでは区別を明確にするため、英国のNew Liberalismを「ニュー・リベラリズム」、Neoliberalismを「ネオ・リベラリズム」と表記します。
ニュー・リベラリズムは、古典的自由主義が守ってきた個人の自由を否定したのではありません。
自由が実際に行使できるためには、法律上の自由だけでなく、教育、健康、生活の安定などの社会的条件にも目を向ける必要があると考えました。
古典的自由主義では、自由は主に、他者や政府によって妨害・強制されていない状態として理解されます。
しかしグリーンは、単に強制が取り除かれただけでは、人間の自由が十分に実現したとはいえないと考えました。
形式上は行動を禁止されていなくても、依存症、無教育、極度の貧困などによって、自分の能力を発展させ、理性的に人生を形成することが困難な場合があるからです。
グリーンにとって、他人から干渉されない法的自由は重要でしたが、それだけで自由のすべてが尽くされるわけではありません。自由には、理性的な自己決定や自己実現という側面もあると考えたのです。
ニュー・リベラリズムでは、政府は自由への脅威であるだけでなく、場合によっては、自由を行使するための条件を整える役割も持つと考えます。
教育を受けられない人、病気で働けない人、極度の貧困に置かれた人は、法律上は自由であっても、現実に選べる選択肢がほとんどないかもしれません。
そこで政府が、
などを提供することは、自由を制限するのではなく、人々が自由を行使できる条件をつくることだと考えます。
ニュー・リベラリズムは、その後の英国における社会改革や福祉国家形成の思想的背景の1つとなりました。
L・T・ホブハウスは、個人の自由と社会的な協力を結びつけました。
個人は、社会から完全に独立して富を生み出しているわけではありません。
財産や所得の形成には、法制度、交通、教育、知識、過去の世代の蓄積、他者との協力など、社会全体がつくり上げた条件が関わっています。
そのため、ホブハウスは私有財産を認めながらも、財産には社会的な側面があると考え、社会保障や累進課税など、一定の再分配を支持しました。
ただし、ニュー・リベラリズムは、国家が経済全体を所有し、計画する社会主義と同じではありません。
私有財産、市場、議会政治、市民的自由を維持しながら、個人が自由を実際に行使できる社会的条件を政府が補うことを目指しました。
ニュー・リベラリズムとリバタリアニズムは、ともに個人の自由を重視します。
しかし、自由の意味と政府の役割について大きな違いがあります。
ニュー・リベラリズムは、
自由に生きるための能力や機会が不足している状態も、自由の問題である。
と考えます。
これに対し、リバタリアニズムは一般に、
貧困や能力の不足と、他者から強制されている状態は区別すべきである。
と考えます。
例えば、お金がないために商品を購入できないことと、政府によって商品の購入を禁止されていることは、どちらも希望を実現できない点では同じです。
しかし、他人によって自由を侵害されているかどうかという点では異なります。
また、政府が積極的自由を保障するためには、税や規制によって、別の人の財産や選択を制限する必要があります。
リバタリアンは、
一部の人の自由を実質化するという目的で、別の人に強制を加えることを、どこまで認めてよいのか。
と問いかけます。
ニュー・リベラリズムは、現代の社会自由主義や福祉国家型リベラリズムにつながる重要な思想です。
一方、古典的自由主義やリバタリアニズムからは、自由の意味を能力、福祉、自己実現まで広げると、政府権力を際限なく拡大する根拠になりうる、という批判があります。
↑ 目次へ戻るネオ・リベラリズムという言葉には、現在も広く共有された単一の定義がありません。
日常的・政治的な用法では、一般に次のような政策を指します。
実際には、市場を重視する政策全般や、好ましくない経済改革を批判する言葉として、明確に定義されないまま使われることもあります。
自らをネオ・リベラルと名乗る人は多くありません。多くの場合、他者から付けられる呼び名です。
そのため、「ネオ・リベラリズム」という名称だけでは、その人物や政策が具体的に何を主張しているのかを正確に判断できません。
歴史的なネオ・リベラリズムは、19世紀型の自由放任をそのまま復活させようとした1つの統一思想ではありません。
世界恐慌、社会主義、ファシズム、経済計画の拡大を経験した20世紀の思想家たちが、市場経済と自由社会をどのような制度で維持・再建できるかを考える中から生まれた、複数の思想潮流です。
近年の研究では、フリードリヒ・ハイエク、ミルトン・フリードマン、ジェームズ・ブキャナンなどを中心にネオ・リベラリズムを整理する見解があります。
また、ドイツのオルド自由主義なども、広い意味でその歴史に含められることがあります。
ただし、誰をネオ・リベラルに含めるか、何を共通の原則とみなすかについては、研究者の間でも意見が分かれます。
論者によって強調点は異なりますが、一般に次のような制度が重視されます。
近年の政治哲学では、ネオ・リベラリズムを、自由主義的で資本主義的な制度を基本としながら、立憲民主制と限定的な社会保障を認める思想として捉える見解もあります。
ネオ・リベラルと分類される思想家の多くは、市場が機能するためには、政府が単に何もしなければよいとは考えていません。
財産権、契約、通貨、競争、法の支配など、市場を成り立たせる制度的な枠組みが必要です。
重視されるのは、政府が個別の価格、生産量、企業の成功や失敗を決めるのではなく、すべての人に適用される一般的なルールを整えることに役割を限るべきだ、という点です。
特にハイエクは、政府の裁量的な命令よりも、一般的で予測可能な法を重視しました。
行政機関が個別の事情に応じて裁量的に介入する政治は、法の下の平等や個人の予測可能性を損なうと考えたからです。
ニュー・リベラリズムとネオ・リベラリズムは、どちらも古典的自由主義をそのまま維持するのではなく、近代社会の問題に対応しようとした思想です。
しかし、その対応の方向は大きく異なります。
ニュー・リベラリズムは、貧困、病気、失業、教育不足などが人間の自己実現を妨げると考え、政府による社会政策を通じて、自由を実際に行使できる条件を整えようとしました。
ネオ・リベラリズムは、経済計画、行政裁量、独占、インフレーション、利益団体政治などが自由と繁栄を損なうと考え、市場競争、法の支配、私有財産、制限された政府を再構築しようとしました。
簡潔にいえば、
ニュー・リベラリズムは、政府の積極的な役割によって自由の条件を広げようとしたのに対し、ネオ・リベラリズムは、市場と一般的な法的ルールによって自由を守ろうとした。
と整理できます。
ただし、いずれの思想にも複数の立場があり、両者の境界が常に明確なわけではありません。
ネオ・リベラリズムとリバタリアニズムは、市場や私有財産を重視し、政府権力を警戒する点で重なるため、しばしば同一視されます。
しかし、一般にネオ・リベラルとされる思想は、
を認めることがあります。
これに対してリバタリアニズム、とりわけ最小国家論や無政府資本主義は、政府の役割をさらに厳しく制限します。
また、リバタリアニズムは経済政策だけでなく、言論、身体、プライバシー、戦争、警察、移動など、個人に対する強制力全般を問題にする政治哲学です。
したがって、
規制緩和や民営化を支持しているから、その人物や政府がリバタリアンである。
とは限りません。
一部の産業を民営化しながら補助金や参入規制を残したり、経済的自由を進めながら市民的自由を制限したりする政府は、リバタリアンとはいえません。
↑ 目次へ戻る| 系譜・用語 | 主に重視する自由 | 政府の役割 | 市場への考え方 |
|---|---|---|---|
| 古典的自由主義 | 強制や干渉からの自由 | 治安・司法・防衛などを中心に限定 | 私有財産と自由市場を重視 |
| リバタリアニズム | 個人の身体・財産・選択の自由 | 最小限を志向する立場から国家不要論まである | 自発的交換と市場を強く重視 |
| ニュー・リベラリズム | 自由を実際に行使する能力や条件 | 教育・福祉・労働政策などを認める | 市場を認めつつ社会政策で補う |
| ネオ・リベラリズム | 市場経済のもとでの個人・経済活動の自由 | 市場の制度的枠組みと限定的福祉を認める場合がある | 競争、民営化、規制改革を重視 |
この表は、それぞれの一般的な傾向を整理したものです。
それぞれの内部には多くの異なる立場があり、すべての思想家がこの整理に完全に当てはまるわけではありません。
↑ 目次へ戻る自由主義の議論がかみ合いにくい理由の1つは、「リベラル」という言葉の意味が、国と時代によって大きく異なることです。
同じ「リベラル」という言葉が、ある国では減税を、別の国では増税を意味することがあります。
自由主義研究所が「クラシカルリベラリズム」「リバタリアニズム」という言葉を使うのは、この混乱を避け、私たちが紹介する自由主義の伝統をできるだけ正確に示すためです。
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