論点 · 応用編Ⅰ

最小国家か、無政府資本主義か ― 政府の縮小はどこで止まるのか

リバタリアンの多くは、現在の政府の権限を大幅に縮小すべきだという点で一致します。分かれるのは、その縮小がどこで終わるのかです。警察・司法・国防などは国家が担うべきなのか、それともそれらも市場で供給できるのか。ノージックとロスバードの応酬を軸に、この半世紀の論争を整理します。

In Short

3つの要点

  • 争点は「秩序か無秩序か」ではない。強制力の独占を国家が道徳的に持ちうるのか(正当性)と、警察・司法・国防を競争的な仕組みで安定して供給できるのか(実行可能性)——この2つである。
  • ノージックは、誰の権利も侵害することなく最小国家が成立しうると論じ、ロスバードは、ノージック自身の議論に従っても、現存する国家は正当化できないと反論した。どちらも強い個人の権利を出発点に置くが、そこから導かれる国家の正当性について、結論は大きく分かれる。
  • 国防は、無政府資本主義にとって最も難しい問題の一つであり、デイヴィド・フリードマン自身も「難問」として論じている。一方、最小国家論にも、権利保護を独占する国家自身を何が拘束するのかという難問がある。どちらの側にも、なお検討すべき問いが残っている。
目次
01

何が争われているのか

リバタリアンの多くは、政府の役割を大幅に縮小すべきだという点で一致しています。減税、規制の撤廃、政府支出の削減、貨幣制度の改革など、政府の権限や介入を縮小する方向では、多くの主張が重なります。

しかし、縮小をどこまで続けるのかと問われたところで、道が2つに分かれます。

  • 最小国家論(ミナキズム)——政府の役割を、警察・司法・国防などの「権利を守る機能」に限定する。そこが終点であり、その最小限の国家は必要である、という立場。
  • 無政府資本主義(アナルコキャピタリズム)——警察・司法・国防も、自発的な契約と市場によって供給できる。したがって、国家そのものは必要ない、という立場。

注意が必要なのは、この対立が「秩序を求めるか、無秩序を求めるか」ではないという点です。無政府資本主義も、ルールや紛争解決、権利を守る仕組みそのものが不要だと考えているわけではありません。

争点は、次の2つです。この2つは関係していますが、別の問いです。

  • 正当性の問い——一定の領域で強制力を独占し、必要に応じて徴税する権限を、国家は道徳的に持ちうるのか。
  • 実行可能性の問い——警察・司法・国防を、競争的で契約にもとづく仕組みによって安定して供給できるのか。

第一の問いに「持ちえない」と答えながら、第二の問いには「できない」と答えることもありえます。逆もありえます。議論が噛み合わないときは、この2つの問いが混同されていることが少なくありません。

なぜ「最小国家」が終点になるのか

この分岐の背景には、個人の権利を守るという原則を、国家そのものにもどこまで一貫して適用するのかという問題があります。

個人に許されない強制は、多数決で決めたり、国家が行ったりすれば正当化されるのか。この原則を政府にも適用していくと、次の問いに突き当たります。

警察・司法・国防を国家が独占することは、権利を守るために本当に必要なのか。さらに、その費用を本人の同意なく徴収することは正当化できるのか。

最小国家論は、個人の権利を安定して守るためには、少なくともこれらの機能を担う国家が必要だと考えます。一方、無政府資本主義は、保護や紛争解決も自発的な契約と競争によって供給でき、国家による独占は必要ないと考えます。

この違いをめぐって、半世紀以上にわたって議論が続いてきました。

この対立の実践的な意味

先に結論めいたことを述べておきます。現在の日本で争われている政策上の論点の多くは、最小国家か無政府資本主義かという最終的な分岐より、かなり手前にあります。

税負担をどこまで下げるか、政府支出をどこまで削減するか、規制をどこまで撤廃するか——こうした問題では、最小国家論者と無政府資本主義者が同じ方向を支持することも少なくありません。ただし、具体的な制度や最終的な到達点まで一致するとは限りません。

では、この論争を知る意味はどこにあるのか。国家の機能を一つずつ取り上げ、「なぜこれは国家が独占しなければならないのか」「自発的な契約や競争では代替できないのか」と問い直すための視点を与えてくれる、という点です。

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02

最小国家論 ― 権利を侵さずに国家は生まれうるか

最小国家論の現代における代表的な論者の一人が、ロバート・ノージックです。

ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)の特徴の一つは、個人主義的無政府主義からの批判に正面から答えようとしている点です。「国家は当然あるべきものだ」と前提するのではなく、国家がまったく存在しない状態から出発して、誰の権利も侵さずに最小国家が成立しうるかを検討します。

見えざる手による国家の発生

ノージックが描く筋道は、おおよそ次のようなものです。

  • 国家のない状態でも、人々は自分の権利を守る必要がある。しかし、一人ひとりが自分で権利を守り、紛争を裁くのは負担が大きく、判断も偏りやすい。
  • そこで人々は、互いに助け合う保護協会をつくり、やがて専門的な保護機関に権利の保護を委ねるようになる。これは自発的な協力や契約から生まれる。
  • 保護機関どうしの顧客が紛争を起こせば、そのたびに争うのは高くつく。そこで紛争処理のルールを取り決めたり、より有力な保護機関に顧客が集まったりすることで、ある地域に支配的な保護協会が現れる。
  • 支配的協会は、自分の顧客に対して、信頼性や公正さが十分に確認されていない手続きによって処罰や権利行使がなされることを禁じる。
  • しかし、その禁止によって不利益を受ける独立人や他の保護機関には、補償が必要になる。その補償は、無償または割安な保護サービスという形で提供されることがある。

こうして支配的な保護協会が強制力について最終的な判断権を持ち、さらに禁止によって不利益を受ける人々に補償を提供することで、ノージックのいう最小国家へと移行します。

重要なのは、ノージックがこれを「見えざる手による説明」として描いたことです。誰も最初から国家をつくろうと計画していないのに、各人が自分の権利や利益を守ろうと行動した結果として、国家に相当する仕組みが生まれる。市場秩序と同じように、意図されない制度の成立として国家を説明しようとしたわけです。

そして、それ以上は正当化できない

『アナーキー・国家・ユートピア』の次の大きな論点は、逆向きの議論です。最小国家を超えて、再分配などを行う、より広範な国家は正当化できないとノージックは論じます。

有名なのが、バスケットボール選手ウィルト・チェンバレンを例にした議論です。ある分配状態を、人々が正しいと認めたとします。そこから大勢の観客が、自分の意思でチェンバレンの試合を見るために少額を支払う。その結果、彼には巨額の富が集まり、当初の分配状態は崩れます。

しかし、それを崩したのは誰かの権利侵害ではありません。各人の自由な選択と取引です。

それでも分配の「あるべき形」を維持し続けようとすれば、人々が正当に持つものを自由に使ったり、譲ったり、交換したりすることに、繰り返し介入しなければならない。

ノージックはこの例を、特定の分配状態や分配パターンそのものを「正しい」とする考え方への批判として提示しました。これに対して彼自身は、財産がどのように取得され、移転されたかという過程を重視する「権原理論」を提示します。

最小国家論を支える、もう1つの論拠

ここまでのノージックは、主として権利から最小国家を擁護しています。しかし、最小国家を支持する議論には、制度が実際に機能するかという観点からの論拠もあります。以下はノージック固有の議論というより、最小国家を擁護する際に用いられる一般的な論拠です。

  • 国防の特殊性——外国からの侵略に対する防衛では、費用を負担しない人だけを防衛の利益から排除することが難しい。そのため、市場だけでは十分に供給されないのではないか、という問題がある。
  • 最終的な紛争解決の必要性——複数の司法機関が異なる判断を下したとき、最終的な決着の仕組みがなければ、法の予測可能性や安定性が損なわれるのではないか、という問題がある。
  • 保護機関の統合圧力——競合する保護機関どうしにも、顧客間の紛争を平和的に解決するための仲裁や共通の手続きが必要になる。ノージックは、こうした過程で顧客が有力な機関やその連合に集まり、最終的に支配的な保護協会が生まれると考えました。

こうした観点から、最小国家論者の中には、国家をなくしても、権利保護や紛争解決を担う機関は再び集中していくのではないか。それならば、強制力を憲法や法の支配によって制約された国家に委ねるほうが安定するのではないかと考える立場があります。

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03

ロスバードの批判 ― 汚れなく生まれた国家はない

ノージックの議論に対する、リバタリアン内部からの代表的な批判を書いたのがマレー・ロスバードです。1977年の論文「ロバート・ノージックと国家の無原罪懐胎」がそれにあたります。

皮肉を込めたタイトルです。誰の権利も侵害することなく「汚れなく生まれた国家」など、現実には存在しない、という批判を表しています。

批判①:現実の国家は、そのように生まれていない

ロスバードの第一の批判は、歴史に関するものです。現実の国家は、ノージックが描いたような権利を侵害しない自発的な過程で成立したのではなく、確認できるかぎり、暴力・征服・搾取によって生まれてきたとロスバードは論じます。

これに対して、「国家が実際にどのように生まれたかと、最小国家を理論上正当化できるかは別問題だ」と応じることはできます。

しかしロスバードは、ノージックの国家正当化そのものが、誰の権利も侵害しない過程を経て最小国家が成立する、という筋道に依存していると指摘します。だとすれば、そのような過程を経て成立した国家が現実に存在しない以上、ノージックの議論によって現存する国家を正当化することはできない、というのです。

ロスバードによれば、ノージックの議論がせいぜい正当化できるのは、将来の無政府資本主義社会から、ノージックのいう「見えざる手」の過程によって実際に成立した最小国家だけです。したがって、現存する国家についてはいったん廃止したうえで、その後に本当にそのような国家が自発的に生まれるかを待つべきだ、と皮肉を込めて論じています。

つまりロスバードは、ノージックが示したのは「ある条件を満たした最小国家が正当に成立しうる」という仮想的な筋道であって、それによって現実に存在する国家が正当化されたわけではないと批判したのです。

批判②:補償によって、権利侵害を正当化できるのか

第二の批判は、理論の内部に向けられます。

ノージックの筋道の要は、独立人による危険な権利行使の手続きを禁じ、その禁止によって不利益を受ける人を補償するという段階でした。

しかしロスバードは、ここに矛盾があると批判します。補償は、すでに起きた権利侵害の被害を償うためには使えても、そもそもの権利侵害を正当化する根拠にはならないというのです。

権利を「越えてはならない制約」として捉える立場——それはノージック自身の立場でもあります——からすれば、独立人の正当な権利行使を禁止し、その不利益を補償することで禁止そのものを正当化できるのか、という問題が残ります。

ロスバードはさらに、ノージックの「危険な行為なら禁止できる」という原理を広げていけば、国家による予防的な強制に歯止めがなくなり、最小国家から最大国家へ進む道を開いてしまうと批判しました。

ロスバードの積極的な主張

批判だけでなく、ロスバードは自分の立場も明確にしています。彼は国家の特徴として、次の2つを挙げます。

  • 課税という強制によって収入を得ること
  • 一定の領域で、強制力と最終的な決定権を独占すること

ロスバードによれば、国家はこのいずれか、実際にはほとんどの場合その両方を備えています。そして、この2つはいずれも個人の権利を侵害します。

したがって、国家がどれだけ小さくなっても、課税や権利保護の強制的な独占を維持するかぎり、問題は残ることになります。最小国家は「小さくなった国家」であって、ロスバードのいう国家の本質から外れたものではありません。

さらにロスバードは、強制的な独占それ自体が国家権力を抑制しにくくすると論じます。競争する保護機関があれば、一つの機関が権利を侵害したときに他の機関が対抗できます。しかし国家が強制力を独占すれば、その国家自身の行為を誰が裁くのか、という問題が生じます。

ここで押さえておきたいのは、この論争が、強い個人の権利を重視する立場どうしの内部で起きていることです。ノージックもロスバードも、個人の権利を国家の目的のために簡単に犠牲にしてよいとは考えません。ただし、権利をどのように基礎づけ、そこから何を導くかは同じではありません。ロスバードは自然法、自己所有権、財産権からリバタリアンの権利論を体系化します。一方、ノージックは個人の権利を、他者や国家が行為するときに越えてはならない「制約」として捉えます。ロスバード自身は、ノージックには自然法に根ざした権利の基礎づけがない、と批判しています。根拠についての詳細は 自然権論と帰結主義 をご覧ください。
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04

もう1つのルート ― 経済学から国家の必要性を問う

無政府資本主義には、別のルートからも到達できます。自然権を出発点とするのではなく、経済学と結果の比較から考えるルートです。

その代表が、デイヴィド・フリードマンの『自由のためのメカニズム ― アナルコ・キャピタリズムへの道案内』(The Machinery of Freedom、1973年。邦訳は森村進ほか 訳、勁草書房、2003年)です。ミルトン・フリードマンの息子であり、経済学者・法学研究者として、法と経済学の分野でも研究してきました。

自然権を出発点にしない

デイヴィド・フリードマンは、自然権から無政府資本主義を導きません。彼の議論の中心にあるのは、次のような問いです。

この制度と、あの制度では、どちらがより良い結果を生むのか。

国家の必要性を否定する議論でも中心になるのは、国家にしか供給できないとされてきたサービスを、市場や自発的な仕組みでも供給できるのではないか、そしてそのほうがより良い結果を生むのではないかという比較です。『自由のためのメカニズム』では、法や警察、裁判を含むサービスを市場によって供給する可能性が検討されています。

第1章で見た構図を思い出してください。「自然権論だから国家を否定する」「帰結主義だから国家を認める」という対応関係は成り立ちません。デイヴィド・フリードマンは、そのわかりやすい反例です。

法が市場で生産されるとはどういうことか

フリードマンが描く仕組みは、おおよそ次のようなものです。

  • 各人は、自分を犯罪などから守る保護機関と契約する。保険サービスと組み合わされることも想定されています。
  • 異なる保護機関の顧客どうしが紛争を起こしたとき、機関どうしが武力で争えば双方に大きな費用がかかる。合理的な機関には、それを避ける誘因がある。
  • そこで保護機関どうしはあらかじめ、紛争が起きた場合にどの仲裁機関・裁判所を利用するかを取り決めておく。フリードマンは、各保護機関の組み合わせごとに、紛争時に利用する裁判所を事前に合意しておく仕組みを想定しています。
  • こうして、法や紛争解決のルールそのものも市場で供給されるようになる。フリードマンの後の説明では、仲裁機関が法を「生産」し、それを保護・執行機関がサービスの一部として顧客に提供する、と整理されています。

ノージックが、保護機関の競争から最終的に支配的な保護協会が生まれると考えたのに対し、フリードマンのモデルでは、「争うより仲裁するほうが安い」という経済的な誘因によって、複数の保護機関が共存しながら紛争を処理する可能性が描かれています。

彼自身が認める弱点

この立場を紹介するとき、公平のために添えておきたい点が2つあります。いずれもフリードマン自身が認識している問題です。

第一に、市場で生産される法が、必ずリバタリアン的な法になる保証はありません。フリードマン自身、無政府資本主義社会が定義上必ずリバタリアンになるわけではなく、たとえば薬物使用を禁止する法が生まれる可能性も認めています。重要なのは、どのような法が市場で需要され、その費用を誰がどれだけ負担する意思があるかです。

第二に、国防はとりわけ難しい問題です。外国からの攻撃に対する防衛には公共財の問題があり、費用を負担しない人を防衛の利益から排除することが難しいためです。フリードマン自身、『自由のためのメカニズム』で国防を「難問」と位置づけ、後の版でもなお難しい問題だと述べています。

彼はいくつかの解決の可能性を検討していますが、国防について確実な解決策を示せているとはしていません。その意味で、無政府資本主義の主要な理論家自身が、この制度にはなお難しい問いが残っていることを認めているわけです。

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05

実際に供給できるのか ― 4つの難所

抽象論から降りて、具体的にどのような問題があるのかを見ておきます。無政府資本主義が答えなければならない難問は、大きく4つあります。

難所①:国防

最も難しい問題の一つです。デイヴィド・フリードマン自身も、国防を「難問」と位置づけています。

フリードマンのモデルでは、警察的な保護や仲裁は、契約相手を特定して料金を徴収するサービスとして供給できます。これに対して外国からの攻撃に対する防衛は、費用を負担していない人も利益を受けやすく、特定の人だけを防衛の対象から排除することが難しい。典型的な公共財の問題が生じます。

この問題に対しては、さまざまな民間供給の方法が提案されてきました。しかし、大規模な外敵に対して、必要な防衛力を自発的な負担だけで安定して確保できるのかという問題は残ります。少なくともフリードマン自身は、国防について私的な解決が十分に機能することを確実なものとはしていません。

最小国家論者から見れば、ここは「だから少なくとも国防を担う国家は必要だ」という有力な論拠になります。

難所②:最終的な紛争解決

フリードマンのモデルでは、異なる保護機関の顧客どうしが紛争を起こした場合、保護機関どうしがあらかじめ合意した仲裁機関・裁判所に判断を委ねます。武力で争うより仲裁に従うほうが安い、という経済的な誘因が、この仕組みを支えます。

しかし、ここから別の問いが生じます。国家の最高裁判所のような単一の最終審級がなくても、複数の保護機関と仲裁機関からなる制度全体で、安定した法と予測可能な紛争解決を維持できるのか。

異なる仲裁機関が異なるルールを採用した場合、その違いをどのように調整するのか。保護機関どうしが、どの法体系や仲裁機関を採用するかについて合意できなかった場合はどうするのか。フリードマン自身の分析でも、保護機関どうしの交渉には出発点となるルールや交渉力の問題が残り、その結果が一意に決まるわけではありません。

したがって第二の難所は、単に「最高裁判所がない」ことではありません。中央集権的な最終審級なしに、法の一貫性・予測可能性・最終的な執行をどこまで確保できるのかという問題です。

難所③:抗争のリスク

武装した私的な保護機関が複数並び立つ以上、機関どうしの対立が大規模な暴力に発展する可能性はあります。

フリードマンの基本的な答えは経済的なものです。武力で争えば双方に大きな費用がかかるため、合理的な保護機関には、戦争よりも仲裁や事前の取り決めを選ぶ誘因がある、と考えます。実際、彼のモデルでは、保護機関どうしがあらかじめ仲裁機関を決め、その判断に従うことで武力衝突を避けます。

しかし、この仕組みがどのような場合にも安定するとは限りません。武力衝突の費用の一部を顧客や第三者に転嫁できる場合や、一つの機関が他を圧倒するほど強くなった場合にも、「争うより仲裁するほうが得だ」という誘因が十分に働くのかという問題は残ります。

ここでノージックの議論との違いが現れます。ノージックは、保護機関の競争から、ある地域で支配的な保護協会が生まれうると考えました。そして、その支配的協会が一定の条件を満たすことで、最小国家へと移行すると論じます。

したがって問題は、競争する保護機関の秩序が長期的に安定するのか、それとも最終的には一つの支配的な機関へと収斂していくのか、ということです。

難所④:法の内容

批判の側は、こう問います。市場で法が供給されるなら、その内容は、法に対してより多くの費用を負担できる人々の選好を強く反映するのではないか。

フリードマンのモデルでは、どのような法が成立するかは、単純な多数決では決まりません。ある法を望む側がその実現のためにどれだけ負担する意思があるか、反対する側がその法を避けるためにどれだけ負担する意思があるか、といった双方の選好と費用が、保護機関どうしの交渉を通じて法の内容に反映されます。

だからこそ、新たな問いも生じます。所得や資産の違いが、法に対する影響力の違いにつながらないのか。また、十分な保護サービスを購入できない人の権利はどのように守られるのか。少数派に不利な法を多数の人々が強く望んだ場合、それを防ぐ仕組みは十分に働くのか。

フリードマン自身も、市場で生産される法が必ずリバタリアン的なものになるとは考えていません。市場による法にも失敗の可能性があることを認めています。

ただし、フリードマン側からは、比較すべきなのは完全な市場と理想的な国家ではなく、欠点を持つ市場制度と、同じく欠点を持つ現実の政治制度である、という反論がなされます。市場に市場の失敗があるのと同じように、政治にも政府の失敗があり、国家が法を供給すれば利益集団や政治的誘因の影響がなくなるわけではない、という比較制度論的な視点です。

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06

歴史に事例はあるのか

この論争には、しばしば歴史上の事例が持ち出されます。ただし、その使い方には注意が必要です。

これらの事例は、「無政府資本主義が実現可能である」ことを証明するものではありません。示せるのは、もっと限定的なことです。すなわち、中央集権的な執行権力を欠く法秩序が、長期間にわたって存続した事例があるということです。これらを「完全な無国家社会」と呼べるかどうか自体にも議論があります。また、人口規模、技術水準、経済構造、対外的な安全保障環境も現代とは大きく異なります。

中世アイスランド(930年〜1262/64年)

よく引かれる事例が中世アイスランドです。デイヴィド・フリードマンは1979年の論文「Private Creation and Enforcement of Law: A Historical Case」で、その法制度を経済学の観点から分析しました。

  • 930年ごろに全島集会アルシング(Alþingi)が成立し、立法や裁判が行われた。法が成文化される以前には、法の朗誦者(lawspeaker)が法を記憶し、毎年3分の1ずつ、3年かけて全体を口頭で伝えた。
  • 首長職(goðorð)は売買・譲渡・相続などが可能な権利であり、首長と自由民の関係は土地に固定された領主制ではなかった。自由民には首長を選び直す権利があった。ただし、選択には原則として同じ四分区内という地理的な制約もあった。
  • 中央集権的な執行機関はなく、判決の執行は基本的に私人に委ねられていた。自力で請求権を執行することが難しい者は、その請求権を他人に譲渡・売却することもできた。
  • アイスランド共和国(コモンウェルス)は約330年にわたって存続した。13世紀には、今日知られるアイスランド・サガの多くが書かれた。

ただし、これを「完全な無国家社会」と呼べるかどうかには議論があります。首長職という政治的地位があり、アルシングには立法機関や裁判所が存在しました。特徴的なのは、王や中央政府のような中央集権的な執行権力が存在しなかったことです。中世アイスランド史の研究でも、この体制は中央の指導者を欠いた多中心的な政治秩序として説明されています。

その結末も見ておく必要があります。13世紀には首長権力が少数の有力者に集中し、スタールング時代と呼ばれる内戦期を経て、1262年から1264年にかけてアイスランド各地がノルウェー王の支配を受け入れ、共和国の体制は終わりました。

したがって、この事例が示しているのは、中央集権的な執行権力を欠く法秩序が長期間存続しえたことと、その秩序が最終的には権力集中と内戦を経て終わったことの両方です。どちらか一方だけを取り出して、無政府資本主義の成功または失敗の決定的な証拠とすることはできません。

アメリカ西部の辺境

アメリカ西部は、しばしば無法地帯として描かれてきました。しかし、政府による法執行が十分に及んでいなかった地域でも、土地クラブ、鉱山キャンプの規約、牧畜業者組合、幌馬車隊の取り決めなどがつくられ、財産権の確立や紛争処理の役割を果たしていたとする研究があります。テリー・アンダーソンとP・J・ヒルは、1979年の論文でこうした事例を分析しています。

この研究が示そうとしたのは、暴力が皆無だったということではありません。西部全体を恒常的な無法状態とみなす通俗的なイメージは、誇張されているということです。

商人法と、現代の国際商事仲裁

中世ヨーロッパの商取引では、商人の慣習や市場・商人による裁判が紛争解決に重要な役割を果たしたとされてきました。こうした仕組みは、一般に商人法(lex mercatoria)と呼ばれます。

ただし、かつて広く語られたように、ヨーロッパ全域の商人が国家権力から独立した統一的な法体系をつくり、評判や取引からの排除だけでそれを執行していたのかについては、現在の法制史研究で議論があります。商人は慣習的な仕組みだけでなく、都市や領主などの裁判制度も利用していました。したがって、中世の商人法をそのまま「国家なしの私法」の実例とみなすことには注意が必要です。

一方、現代の国際商取引では、国際商事仲裁が広く利用されています。当事者があらかじめ仲裁を選び、仲裁機関や手続き、場合によっては適用法などを選択できる点で、私的な紛争解決の重要な実例です。国際的な仲裁判断の承認・執行については、1958年のニューヨーク条約が中心的な枠組みを提供しています。

ただし公平のために付け加えておくと、仲裁判断が自発的に履行されない場合、その強制執行には最終的に各国の裁判所と法制度が利用されます。したがって、現代の国際商事仲裁も、国家の法秩序から完全に独立して存在しているわけではありません。

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07

再反論と、決着していない問い

議論は一往復では終わりません。最小国家を擁護する側からの再反論と、それに対する応答を見ておきます。

再反論:国家を制度的に縛るほうが現実的ではないか

最小国家を擁護する立場からは、次のような反論ができます。保護や紛争解決を担う機関には権力が集中する可能性がある。だとすれば、その権力を憲法・権力分立・司法審査・言論の自由などによってあらかじめ制約するほうが、安定した制度をつくれるのではないか。

応答:憲法は本当に国家を縛れるのか

これに対して、無政府資本主義の側からは、その憲法を国家自身に守らせる仕組みは十分なのかという疑問が出されます。

アメリカ合衆国憲法は、連邦政府の権限を列挙し、権力分立や連邦制などによって政府権力を制約する仕組みを備えています。それでも、とりわけ20世紀以降、連邦政府が行使する権限と政策領域は大きく拡大しました。

憲法制定の中心人物の一人だったジェームズ・マディソン自身も、『ザ・フェデラリスト』第48篇で、各権力の境界を憲法上明記するだけでは十分ではないとして、「羊皮紙の障壁(parchment barriers)」だけに頼ることの限界を論じていました。

19世紀アメリカの個人主義的無政府主義者リュサンダー・スプーナーは、さらに根本から憲法の権威を問い直しました。憲法が契約であるなら、本人の同意なしに、その契約が人を拘束することはできないというのです。スプーナーによれば、憲法制定時の人々であっても実際に同意した者だけが拘束されうるのであり、まして後の世代を、先人の同意だけで拘束することはできません。

これは、憲法によって国家権力を制限するという発想そのものに、「そもそも、その憲法は誰の同意によって誰を拘束するのか」という問いを突きつける議論です。

この応酬に、簡単な決着はありません。無政府資本主義の側は「国家を縛る制度そのものを、最終的に誰が執行するのか」と問い、最小国家の側は「競争する私的機関の権力を誰が縛るのか」と問い返します。どちらの制度にも、権力の集中とその抑制をめぐる問題が残ります。

「オーストリア学派=無政府資本主義」ではない

ここで見落としてはならないのが、オーストリア学派の代表的な二人、ミーゼスとハイエクは、どちらも無政府主義の立場を採らなかったという点です。

ミーゼスは、平和的な社会協力を維持するためには、暴力や契約違反などに対して強制力を行使する仕組みが必要だと考え、その装置として国家を認めました。彼は『自由主義』で、国家を社会のルールを守らせるための「強制と威圧の装置」と定義し、自由主義は無政府主義ではないことを明確にしています。

ハイエクも、法の支配のもとで政府権力を制限する立場であり、国家そのものの廃止を主張しませんでした。さらに『自由の条件』では、深刻な困窮を防ぐため、すべての人に一定の最低限の生活保障を確保することにも原理的な余地を認めています。

つまり、オーストリア学派の経済学を受け入れれば、そこから無政府資本主義が自動的に導かれるわけではありません。市場がどのように機能するかという経済学上の議論と、国家にどこまで正当な権限を認めるかという政治哲学上の議論は、区別して考える必要があります。

実践において、2つの立場は何が違うのか

最後に、現実の政策との関係を確認しておきます。

現在の日本で争われている政策上の論点の多くでは、最小国家論者と無政府資本主義者が同じ方向を支持することがあります。減税、政府支出の削減、規制の撤廃、言論の自由など、国家の権限や介入を縮小する改革では、両者の主張はしばしば重なります。

ただし、完全に一致するわけではありません。安全保障、警察・司法の担い手、国家の財源、公的な最低生活保障など、国家が最終的に何を担うべきかという問題では、現在の制度を考えるうえでも違いが表れます。

改革の方向で重なる論点は多い。しかし、国家が担うべき中核的な機能をめぐる違いは、いまも残っています。

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08

この論争から持ち帰れるもの

半世紀以上にわたって多くの論者が議論を重ねてきましたが、この論争にはいまも決着がついていません。

では、この論争から、私たちはどのような視点を得られるのでしょうか。

この論争を知る価値の一つは、どちらかの立場をただ受け入れることではなく、国家の役割について問い直すための視点を手に入れることにあります。

ある政府機能を目の前にしたとき、次のように問うことができます。

  • この機能を国家が強制的に独占することは、そもそも正当化できるのか。
  • この機能は、本当に国家による独占でなければ供給できないのか。市場や自発的な団体によって供給された事例はないか。また、その事例は現在の条件とどこまで比較できるか。
  • 独占によって、どのような費用——質の低下、費用の膨張、選択肢の減少など——が生じうるのか。
  • 逆に、独占をなくした場合には、どのような問題が生じうるのか。その予測にはどのような根拠があるのか。
  • 不完全な国家制度と不完全な市場制度を比べたとき、どちらがより深刻な問題を生むのか。

こうした問いは、無政府資本主義に賛成しなくても使えます。実際、政府が大きな役割を担ってきた分野でも、民間参入や競争が導入されてきた例があります。たとえば通信などでは、技術変化や制度改革によって、かつての独占的な供給体制が見直されてきました。

国家の機能を一つずつ取り上げ、その正当性と実行可能性の両方を検証すること。それが、この論争から得られる実用的な成果の一つです。

日本語で読む

  • 蔵研也『無政府社会と法の進化 ― アナルコキャピタリズムの是非』(木鐸社、2007年)— 法と治安の供給をめぐる本格的な検討。日本語でこの主題を扱った数少ない専門書です。
  • 蔵研也『リバタリアン宣言』(朝日新書、2007年)— 日本社会の具体的な問題を題材に、リバタリアニズムの考え方を紹介する入門書。
  • ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』(嶋津格 訳、木鐸社、1992年)— 現代の最小国家論を代表する政治哲学の古典。
  • マレー・ロスバード『自由の倫理学』(森村進・森村たまき・鳥澤円 訳、勁草書房、2003年)— 自然権論を基礎に、リバタリアニズムを体系的に論じた理論書。
  • 森村進『自由はどこまで可能か ― リバタリアニズム入門』(講談社現代新書、2001年)— この論争を含め、リバタリアニズム全体を日本語で見渡せる入門書。

目的別の一覧は 自由主義の読書案内 にまとめています。

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References

出典・参考リンク

  1. マレー・ロスバード「Robert Nozick and the Immaculate Conception of the State」(1977年、ノージック批判) — Mises Institute(英語全文)
  2. マレー・ロスバード『For a New Liberty: The Libertarian Manifesto』(1973年) — Mises Institute(英語全文)
  3. デイヴィド・フリードマン『The Machinery of Freedom』(帰結主義からの無政府資本主義) — 著者公開版のPDFが著者サイトで無償公開されています(著者サイトはHTTPS未対応のため、安全上リンクを張っていません)
  4. デイヴィド・フリードマン「Private Creation and Enforcement of Law: A Historical Case」(1979年、中世アイスランドの分析。Journal of Legal Studies 掲載) — 著者公開版が著者サイトで無償公開されています(著者サイトはHTTPS未対応のため、安全上リンクを張っていません)
  5. テリー・アンダーソン、P・J・ヒル「An American Experiment in Anarcho-Capitalism: The Not So Wild, Wild West」(1979年) — Mises Institute(英語全文)
  6. 入門としての整理は当サイトの 自由主義をめぐる4つの系譜・用語(リバタリアニズムとは)

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