お金と中央銀行を、リバタリアンの視点で考える
物価が上がると、私たちは「値上げした企業」「産油国」「円安」などに目を向けがちです。しかし、そもそも通貨がどのように供給され、信用がどのように膨張するのかに目を向ける機会は、それほど多くありません。
このページでは、はじめての方に向けて、古典的自由主義やリバタリアニズム、そしてオーストリア学派経済学が、お金と中央銀行をどのように捉えるのかを整理します。
物価が上がると、私たちは「値上げした企業」「産油国」「円安」などに目を向けがちです。しかし、そもそも通貨がどのように供給され、信用がどのように膨張するのかに目を向ける機会は、それほど多くありません。
このページでは、はじめての方に向けて、古典的自由主義やリバタリアニズム、そしてオーストリア学派経済学が、お金と中央銀行をどのように捉えるのかを整理します。
ニュースや一般的な経済学で「インフレ」と言えば、物価全体の持続的な上昇を指します。消費者物価指数(CPI)などは、その動きを測る代表的な指標です。IMFなども、インフレを広範な物価の上昇として説明しています。
一方、オーストリア学派には、この言葉を原因の側で使う伝統があります。
この伝統では、物価上昇そのものではなく、その背後にある貨幣・信用の膨張を「インフレーション」と呼ぶことがあります。
ただし、学派の内部でも定義は一つではありません。ミーゼスは、この言葉を理論的に用いるなら、貨幣需要の増加によって相殺されない貨幣量の増加として捉えました。ロスバードは、正貨そのものの増加と区別して、銀行信用などによる貨幣供給の増加をインフレーションと呼びました。
このページでは混乱を避けるため、物価全体の持続的な上昇を「物価インフレ」、貨幣や信用の膨張を「貨幣・信用の膨張」と、できるだけ書き分けます。
このように、同じ「インフレ」という言葉が違うものを指すことがあります。この違いを先に押さえておかないと、議論はかみ合いません。
なぜ原因の側に注目するのか。私たちは、原因の側から考えるほうが、物価上昇の仕組みを捉えるうえで説明力が高いと考えるからです。
「物価が上がった」という結果だけから出発すると、原因探しは企業の値上げ、賃上げ、原油高、円安……と広がっていきます。しかし、ある商品の値段が上がったことと、物価全体が持続的に上昇することは同じではありません。あるものが他のものに比べて高くなっただけなら、まず起きているのは相対価格の変化です。
ただし、貨幣量が変わらなくても、物価水準は動きます。供給が落ち込んで財の量が減ったり、人々の貨幣需要が変化したりすれば、一般物価は上下しえます。したがって、「貨幣が増えなければ物価全体は絶対に上がらない」と言い切ることはできません。
それでも、一度きりの物価上昇で終わるのか、持続的な物価上昇につながるのかを考えるうえで、貨幣と信用の動きは重要な要因です。ただし、その過程は、人々の需要や予想、賃金や価格の調整、生産量などにも左右されます。
この立場に立つと、視点はこう定まります。
物価上昇の原因を、企業や消費者だけに求めない。貨幣と信用を動かす制度そのものを問う。——これが、自由主義研究所がオーストリア学派から受け継ぐ視点です。この見方は経済学界全体の合意ではありません。私たちは、その点を明示したうえで、この立場を主張します。
↑ 目次へ戻る政府の財源は税だけではありません。手数料や財産収入などもあります。ただし、政府支出をまかなう代表的な方法として、次の3つを考えることができます。
| 方法 | 誰が負担するか | 気づかれやすさ |
|---|---|---|
| 税 | 納税者 | 明細に載る。議会の議決も要る |
| 借入(国債) | 将来の納税者 | いまの世代には痛みが見えにくい |
| 通貨の増発 | お金を持っているすべての人 | ほとんど気づかれない |
3つ目の「通貨の増発」は、政治的にきわめて都合のよい性質があります。誰の手元からも直接取り立てない一方で、物価上昇につながれば、通貨の購買力が低下するという形で負担が生じます。しかも、「増税」という言葉を一度も使わずに済みます。
明示的な増税を経ないまま、貨幣の購買力の低下を通じて実質的な負担が生じる——これが「インフレ税」です。
「インフレ税」は経済学でも使われる用語です。ただし、法律にもとづいて課される通常の税と同じ制度ではありません。また、通貨発行によって政府や中央銀行が得る収益である通貨発行益(シニョレッジ)とも、完全に同じ概念ではありません。
それでも私たちがこの言葉を使うのは、明示的な増税を経ないまま、人々が保有する貨幣の実質的な購買力が低下するという点を捉えるためです。
また、この負担はすべての人に等しく及ぶわけではありません。現金を多く保有する人や、賃金・年金などの名目所得の調整が遅い人は、影響を受けやすい場合があります。一方、予想外のインフレによって、固定金利の借金の実質的な負担が軽くなる人もいます。
減税を論じるとき、「見えない税金」の問題を避けて通れないのは、このためです(→ 減税を、リバタリアンの視点で考える)。
↑ 目次へ戻る新しく作られたお金は、ヘリコプターから全国民に同時にばらまかれるわけではありません。必ずどこかの入口から経済に入り、そこから順に広がっていきます。
先にお金を受け取る側は、そのお金の影響が価格全体に行き渡る前に支出することができます。どこが入口になるかは政策や金融制度によって異なりますが、金融機関、大口の借り手、政府支出の受け手など、資金の入口に近い人や組織ほど、新しいお金の影響を早く受けます。
一方、所得の増加や調整が遅れる人ほど、所得が増える前にすでに一部の価格が上昇した状況に直面しやすくなります。賃金や年金の改定が遅い人、現金や預金を多く持つ人などは、その影響を受けやすいと考えられます。
ただし、誰が得をして誰が損をするかは、お金がどの経路から入るか、どの価格が先に動くか、どのような資産を持ち、どのような契約を結んでいるかによって変わります。「この職業は必ず得をする」と、あらかじめ決まっているわけではありません。
貨幣を増やしても、住宅、食料、機械、労働力といった実物資源そのものが、それによって増えるわけではありません。しかも、新しい貨幣が経済に入る影響は、すべての人に均等に及ぶわけでもありません。
18世紀の経済学者リシャール・カンティロンにちなんでカンティロン効果と呼ばれるこの現象は、金融緩和を「みんなのための景気対策」として考える際に、重要な留保を加えます。金融緩和は完全に中立ではなく、所得や資産価格などを通じて、分配上の効果を持ちえます。しかも、その具体的な分配を、議会が一つひとつ決めているわけではありません。
私たちが金融政策を単なる「経済の技術的な調整」ではなく、政治や分配にも関わる問題として扱うのは、こうした分配上の効果があるためです。
↑ 目次へ戻る金利が上がると、住宅ローンや企業の借入などの負担が増えます。だから、「利上げのせいで生活が苦しくなった」という語り方が生まれます。
その前に、事実を一つ確認しておきます。日本銀行が、住宅ローンや企業向け融資の金利を直接決めているわけではありません。中央銀行が政策的に誘導するのは短期の市場金利であり、その影響が市場を通じて長期金利や貸出金利へ波及します。実際の貸出金利には、信用リスク、期間、資金調達コストなど、さまざまな要因が反映されます。
自由主義研究所は、個々の利上げ・利下げだけを切り取って善悪を判断しません。いまの金利上昇による負担だけを見ていると、なぜ超低金利がこれほど長く政策的に維持されてきたのか、という前段を見落としてしまうからです。
長期にわたる超低金利環境は、純粋に市場で形成されたものではなく、日本銀行が政策的に維持してきたものです。私たちは、その長期の超低金利と金融緩和が、貨幣と信用、資産価格、貯蓄と借入の選択、政府財政にどのような影響を与えてきたのかまで含めて評価すべきだと考えます。
問題は、利上げではない。市場の基準となる短期金利に、一つの中央銀行が政策的に大きな影響を与える仕組みそのものである。
金利とは、市場では、「いま使うこと」と「あとで使うこと」を人々がどう評価するかに加え、信用リスクや期間など、さまざまな要因を反映して形成される価格です。
中央銀行がそのすべてを決めているわけではありません。しかし、市場の基準となる短期金利を政策的に誘導し、そこを通じて幅広い金融条件に影響を与えています。
ハイエクの言葉を借りれば、経済に必要な知識は社会に分散していて、中央には集まりません(→ ハイエク)。だとすれば、中央銀行が政策的に誘導する金利が、常に市場の状況に適した水準になるとは限りません。問題は、中央銀行の担当者が優秀か無能かということだけではありません。経済全体に分散している知識を中央に集約し、そこから「正しい金利」を導き出すこと自体ができない、という知識の問題があります。
ですから私たちの批判は、利上げか利下げかという個別の判断だけに向けられているのではありません。市場の基準となる短期金利に、中央銀行が大きな影響を与える現在の制度そのものも検討の対象にしています。
↑ 目次へ戻る景気の波は、資本主義に本来そなわった欠陥だと説明されることがあります。しかし、オーストリア学派の見方は違います。
オーストリア学派の考えはこうです。銀行が信用を膨張させ、金利が市場で形成される水準よりも人為的に低くなると、本来なら採算に合わなかった長期の投資が動き出します。ところが、その投資を支えるだけの貯蓄や実物資源が、実際に増えたわけではありません。人々が消費を減らして、その分の資源を将来の生産のために空けたわけではないからです。
やがて、人々の実際の貯蓄や消費と、信用膨張によって拡大した投資との食い違いが表面化します。始めた事業の一部が、当初の計画どおりには完成できない、あるいは採算が合わないことが分かり、採算が合わない事業の縮小や撤退、資源の再配置が必要になります。ここで、調整が始まります。これが、オーストリア学派が説明する不況の過程です。
不況は、市場の失敗ではない。その前の信用膨張によるブームで生じた歪みを調整する過程である。
この理論では、不況時に再び金利を下げて信用を膨張させることは、問題の根本的な解決にはならず、必要な調整を先送りし、持続できない投資を温存する可能性があると考えます。ミーゼスも、信用膨張によって生じたブームの最終的な崩壊は避けられず、さらなる信用膨張は問題を繰り返すと論じています。
ミーゼスがこの理論の基礎を築き、ハイエクが資本理論と結びつけて発展させました。ハイエクの貨幣・景気循環論は1930年代に大きな論争を呼び、その業績は1974年のノーベル経済学賞でも評価されました(→ ミーゼス)。
この理論を実際の歴史へ当てはめると、どこまで説明でき、どこで他の説明と衝突するのか——1929年からの大恐慌を素材に、大恐慌は市場の失敗だったのか で扱っています。
↑ 目次へ戻る2022年以降の日本でも、繰り返し聞かれた説明です。輸入価格の上昇が主因なのだから、需要を抑える必要はなく、金融緩和を続けるべきだ、という考え方です。
輸入価格の上昇によって、物価水準が上がることは実際にあります。一方、オーストリア学派が重視するのは、個別の相対価格の変化と、貨幣・信用の膨張を区別することです。
そのためオーストリア学派では、インフレを「デマンドプル型」と「コストプッシュ型」に分ける考え方を、根本的な原因の分類としては重視しません。需要が増えたのか、原油や輸入品などのコストが上がったのかは、個々の価格が動く理由として重要です。しかし、それだけで物価全体が持続的に上昇する仕組みを説明したことにはならない、と考えます。
供給ショックによる物価上昇が一度きりの物価水準の変化で終わるのか、それとも持続的な物価上昇につながるのかは、貨幣と信用の状況、人々の予想、賃金や価格の調整などにも左右されます。
したがって、「コストプッシュ型だから金融緩和を続けてよい」とは、単純には言えません。一方で、すべての物価上昇を中央銀行のせいにするのも適切ではありません。
そのうえで自由主義研究所は、長期にわたる金融緩和と信用膨張が、物価だけでなく、資産価格や投資、政府財政などに与えてきた影響も含めて考える必要があると考えます。
「物価が下がると企業収益が悪化し、賃金も下がり、経済が縮小する」という説明はよく聞きます。しかし、物価が下がる理由は一つではありません。
生産性が上がり、同じものをより安く作れるようになった結果としての物価下落と、信用収縮によって需要や取引が縮小するなかで起きる物価下落では、性質が異なります。
前者は、技術の進歩や生産性向上の恩恵が、より安い価格という形で消費者に還元された結果でもあります。テレビやパソコン、通信サービスなど、価格が下がる一方で普及し、発展してきた分野は少なくありません。
そのため私たちは、「物価が下がること自体が悪い」と一括りにするべきではないと考えます。物価下落を常に避けるべきものと捉えることが、長期にわたる金融緩和を正当化する根拠の一つになってきたからです。
中央銀行は「最後の貸し手」として、金融危機時の流動性不足や銀行取り付けを抑える役割を持つと説明されます。
一方、オーストリア学派や自由銀行論の一部からは、逆の問題も指摘されてきました。中央銀行による救済が期待されれば、銀行が「いざとなれば助けてもらえる」と考え、より大きなリスクを取る可能性があります。いわゆるモラルハザードの問題です。
また歴史を振り返ると、中央銀行は、市場の中から自然に生まれた制度ではなく、国家の財政や通貨・金融政策上の目的と深く結びついて、政治的に設立・制度化されてきた側面が強くあります。
代表的な例がイングランド銀行です。1694年、政府の銀行として設立され、その主要な目的の一つはフランスとの戦争の資金を調達することでした。世界最古の中央銀行とされるスウェーデン・リクスバンクも、議会の決定によって設立されています。もちろん、すべての中央銀行が戦費調達を目的として生まれたわけではありません。たとえば米連邦準備制度は、銀行恐慌への対応と金融システムの安定化を主な目的として1913年に設立されました。
つまり、主要な中央銀行の成立史を見ると、それらは市場の自発的な発展から自然に生まれたのではなく、国家が通貨と銀行制度をどのように管理するかという政治的な選択の中で形成されてきたことがわかります。
中央銀行制度が本当に必要なのか、競争的な銀行制度では金融の安定を維持できないのか。この問題を歴史的に検討した古典的研究が、ヴェラ・スミスの1936年の『中央銀行制度の合理性(The Rationale of Central Banking and the Free Banking Alternative)』です。
したがって、問うべきなのは「中央銀行がなければ危機になるか」だけではなく、どのような銀行制度が、危機を抑えながら、救済期待によるモラルハザードも最小限にできるのか、という比較の問題です。
ここでは、学派内部の違いを明確にしておく必要があります。この点について、リバタリアンの内部は一枚岩ではありません。
部分準備銀行を認めたうえで、中央銀行なしに銀行同士を競争させるべきだとする自由銀行派(ジョージ・セルギン、ローレンス・H・ホワイトら)。一方、要求払い預金には100%の準備を求めるべきだとする100%準備派(マレー・ロスバード、ヘスース・ウエルタ・デ・ソト、ヨルグ・グイド・ヒュルスマンら)。そしてハイエクは晩年、政府による通貨発行の独占を廃し、通貨そのものを競争に委ねる構想を提示しました。
これらの立場は、重要な点で互いに対立しています。そのため、どれか一つを「オーストリア学派の答え」として示すことはできません。ただし、貨幣や銀行制度を中央集権的な裁量に委ねるのではなく、どのような制度によってその権力を制限するかという問題意識は、それぞれの立場に共通しています。
この対立について、双方の論拠、1848年の判例、スコットランドとカナダの歴史、日本の現行制度までさかのぼって詳しく扱ったページを用意しました。応用編の 部分準備銀行を認めるか ― 自由銀行派 vs 100%準備派 をご覧ください。
↑ 目次へ戻る私たちは、日本で行われてきたリフレ政策に明確に反対します。理由は、景気の見通しが違うからだけではありません。物価上昇を政策目標とすることは、貨幣の実質的な購買力が継続的に低下する状態を目指すことでもあるからです。私たちは、こうした購買力の低下を、明示的な増税を経ずに人々に負担を課す「インフレ税」として重く見ています。日本銀行は2013年から、消費者物価の前年比2%上昇を「物価安定の目標」としています。
この批判は、特定の政策判断だけではなく、仕組みそのものに向けられています。誰が総裁であっても、金利を上げても下げても、一つの中央銀行が、市場の基準となる短期金利を政策的に誘導し、経済全体の金融条件に大きな影響を与えるという構造は変わりません。日銀自身も、金融市場調節を通じて金利形成に影響を及ぼすことを金融政策の仕組みとして説明しています。
ここは正確に区別する必要があります。日本銀行が直接供給するマネタリーベースと、預金などを含むマネーストックは別のものです。マネーストックは、銀行の与信行動、企業や家計の資金需要など、民間経済のさまざまな行動を通じて形成されます。中央銀行がその量を直接決めているわけではありません。
だからこそ私たちが問うのは、「中央銀行が全部を直接決めているから悪い」ということではありません。経済全体に大きな影響を与える基準的な金融条件を、一つの中央機関が政策的に誘導する制度そのものを問題にしています。
財政についても、同じ順序で考えます。私たちが財政規律を重視するのは、増税してでも収支を合わせるという意味ではありません。歳出の総額そのものを抑え、その範囲で財政を均衡させる。手段は増税ではなく、歳出削減です。一方で、財政破綻の危険を過度にあおる立場もとりません。
お金の価値を守ることは、財産権を守ることである。
通貨は、私たちが働いて得た価値を蓄え、将来へ持ち越すための手段です。その通貨の購買力に大きな影響を与える権限を、選挙で直接選ばれていない中央銀行の政策決定者が持っている。この状態を当然のものとせず、制度そのものを問い直すことが、このテーマを考える出発点です。
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