論点 · 応用編Ⅰ

大恐慌は市場の失敗だったのか ― FRB、銀行恐慌、フーヴァー、ニューディール

1929年10月、ニューヨーク株式市場が暴落した。銀行が次々に破綻した。そして何もしなかったフーヴァーに代わり、ルーズベルトがニューディールを実施して、アメリカを自由放任の失敗から救った——この物語は、いくつもの点で事実と食い違います。景気後退は暴落より前、1929年8月に始まっていました。1920年代のアメリカには、すでに中央銀行がありました。そしてフーヴァーは、何もしなかったわけではありません。

Draft · 編集中

内容は概ね固まっていますが、最終確認中です。

In Short

3つの要点

  • 株価暴落は、大恐慌そのものではありません。景気後退は1929年8月に始まり、1930年秋からの銀行恐慌が、普通の不況を歴史的な大恐慌へ変えました。原因・深刻化・回復・長期化の4段階を分けないかぎり、議論はかみ合いません。
  • 同じFRB批判でも、向きが正反対です。オーストリア学派は「1920年代に信用を膨張させすぎた」ことを、フリードマン=シュワルツは「1930〜33年に貨幣量の崩壊を止めなかった」ことを重視します。どちらも中央銀行を批判しているのに、処方箋は逆になります。
  • 「実際にこうなった」と「それが最善だった」は、別の主張です。金本位制を早く離脱した国ほど早く回復した——これは1930年代について歴史が示している経過です。ただしそれは、1920年代に信用膨張を避けていた場合との比較ではありません。さらにオーストリア学派の方法論では、こうしたデータが理論を検証するわけでもありません。ここでは事実の評価だけでなく、方法論そのものが分かれています。
目次
01

まず、4つの段階に分ける

大恐慌の議論が噛み合わない最大の理由は、違う段階の話を、一つの「原因論」として戦わせていることにあります。

次の4つに分けて考えます。

段階問い時期のめやす
① 発端なぜ景気後退が始まったのか1929年8月〜
② 深刻化なぜ普通の不況で終わらなかったのか1930年秋〜1933年
③ 回復1933年以降、何が回復を助けたのか1933年〜
④ 長期化なぜ完全な回復までこれほど長くかかったのか1933年〜1940年代

この4つを分けると、主要な学説が互いに排他的な「一つの原因論」ではないことが見えてきます。多くは、それぞれ違う段階を説明しようとしています。

立場主に説明しようとしている段階
オーストリア学派①発端(1920年代の信用膨張と誤投資)+④長期化(調整の妨害)
フリードマン=シュワルツ②深刻化(銀行恐慌と貨幣量の崩壊)
アイケングリーンら②深刻化(戦間期金本位制によるデフレの国際伝播)+③回復
ローマー①発端(暴落と耐久財消費の先送り)+③回復(金流入によるマネーサプライの急増)
コール=オハニアン④長期化(ニューディールの競争制限と高賃金政策)

したがって「どの説が正しいか」ではなく、どの段階について何を主張しているのかを確認するのが、この論争の読み方になります。

時系列を、先に置いておきます

  • 1929年8月 ― 景気の拡大が終わり、経済の収縮が始まる
  • 1929年10月 ― 株価暴落(10月28日と29日に、それぞれ二桁の下落)
  • 1930年秋〜 ― 銀行恐慌が始まる
  • 1931年9月 ― イギリスが金本位制を離脱
  • 1931年10月 ― FRBが、深刻な不況のさなかに利上げ
  • 1933年3月 ― 全国銀行休業、緊急銀行法
  • 1933年4月 ― アメリカが金の輸出を禁止(国内の金兌換は3月〜4月上旬の措置ですでに停止)
  • 1937〜38年 ― 再び深刻な景気後退
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02

1920年代 ― 「規制なき市場の実験」ではなかった

「狂騒の20年代」は、アメリカの自由市場資本主義が暴走した時代として語られることがあります。

しかし金融制度について言えば、これは正確ではありません。

FRB(連邦準備制度)は、1913年にすでに創設されていました。

1920年代のFRBは、公開市場操作と公定歩合を使って、金利と信用の条件を意識的に調整するようになっていました。

  • 1924年と1927年 ― 景気後退に対応して、大規模な国債買入れを実施
  • 1928年 ― 急騰する株式市場を問題視し、国債売却・公定歩合引き上げ・投機向け融資への牽制へ転換
  • 1929年8月 ― ニューヨーク連銀の公定歩合が6%に達する

国債を買えば銀行の準備が増え、短期金利を押し下げ、信用が拡大しやすくなります。売れば逆です。1920年代のアメリカは、中央銀行が金融市場に関与していなかった時代ではありません。

この事実は、大恐慌を「規制なき市場の実験」として理解することを難しくします。

⚠ ただし、ここから先は理論的な評価です

FRBが1924年・1927年に緩和し、1928〜29年に引き締めたこと自体は、記録として確認できる史実です。

しかし、

その信用緩和が、1929年の崩壊を必然的に生んだ。

という因果の評価までが、現在の経済史学で合意されているわけではありません。1928〜29年の引き締めが1920年代の拡大を終わらせ、大恐慌へどの程度導いたのかについては、いまも議論があります。

史実と、その史実についての理論的解釈を、分けて読む必要があります。これは本ページ全体を通じての作法です。

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03

オーストリア学派 ― 信用膨張と誤投資

オーストリア学派は、大恐慌の説明を1929年10月からは始めません。1920年代の信用環境から始めます。

景気循環論の骨格

ミーゼスとハイエクの景気循環論では、銀行信用の拡張によって、市場の金利が貯蓄と時間選好によって形成されるはずの水準より人為的に低くなると、企業は本来なら採算の合わない長期投資まで始めます。

低金利は、こういうシグナルに見えます。

人々が消費を減らし、将来のために多く貯蓄している。

しかし実際には、貯蓄が増えたのではなく信用供給が増えただけかもしれません。その場合、資源は株式・不動産・資本財・長期投資へ移動し、経済の構造が、実際の消費者の選好とずれていきます。

これをオーストリア学派では、一般に誤投資(malinvestment)と呼びます。(ただしこの英語はミーゼス以降に定着したもので、1930年代のハイエク自身は「生産の誤った方向づけ」「不適合」といった別の語を使っています。)

信用拡大が止まり、金利が上がると、それまで採算が合って見えた投資が維持できなくなります。景気後退は、この誤った投資構造を修正する過程だと考えます。

ロスバードの大恐慌論

マレー・ロスバードは『America's Great Depression』で、この枠組みを1920年代のアメリカへ適用しました。中心的な主張は、こうです。

1929年の恐慌は突然の市場の失敗ではなく、それ以前の信用膨張によって準備されていた。

したがって彼の分析では、問題が二つに分かれます。第一に、1920年代に信用が膨張したこと。第二に、1929年以降、その調整を政府が妨害したことです。

⚠ 第一の処方箋は、恐慌後の対応ではありません

ここは、この学派を要約するときに最も落としやすい点です。

オーストリア学派の議論は、「恐慌が起きてしまった後にどうするか」より一段前から始まります。ミーゼスは『貨幣及び流通手段の理論』で、はっきりこう書いています。

経済危機の再発を避けたいのなら、ブームを作り出し、必然的にスランプへ導く信用の拡張を避けなければならない。

そして『ヒューマン・アクション』では、こうも書いています。

信用拡張によってもたらされたブームの、最終的な崩壊を避ける手段は存在しない。選択肢としてあるのは、危機がより早く来るか、より遅く来るかだけである。

つまり第一の処方箋は、事後の刺激策ではありません。

そもそも、ブームを生む信用膨張を行わないこと。

——です。(なおミーゼスが信用膨張を防ぐ手段として挙げているのは、法律による100%準備の強制ではなく自由銀行制度です。この点はオーストリア学派内部でも分かれます。→ 部分準備銀行を認めるか

この立場から見れば、1920年代に大規模な誤投資が蓄積していなければ、1930年代に「金本位制を離脱してリフレーションすべきか」という問題そのものが、少なくとも同じ規模では生じなかったことになります。

事後対応の議論としてだけ要約すると、この学派の第一命題が消えます。

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04

1930〜33年 ― 銀行恐慌が、普通の不況を変えた

1929年の株価暴落は、資産を失わせ、将来不安を広げ、消費と企業投資を冷やしました。それは確かです。

しかし暴落の直後、ニューヨーク連銀は流動性を供給し、当初の銀行システムへの波及はある程度抑えられました。1930年秋の時点では、景気が回復へ向かう可能性も見込まれていました。

そこへ、別の危機が始まります。

当時の銀行制度は、いまと違いました

多くの銀行が小規模で、地域分散が弱く、FRBに加盟していない銀行が多数ありました。危機の始まった1930年時点で、FRB加盟の商業銀行が約8,000、非加盟が約16,000です。

この構造は、取り付けに対して非常に脆弱でした。

銀行が潰れると、預金だけが消えるのではありません

破綻すると、預金者が資金を失うだけでなく、銀行融資が途絶え、地域企業についての信用情報が失われます。

さらに、破綻を見た人々は「次は自分の銀行かもしれない」と考え、預金を現金で引き出します。銀行側も取り付けに備えて現金を多く手元に置き、貸出を減らします。

この現金退蔵と準備の積み増しによって、銀行システムを通じて創出されていた預金通貨が縮小します。

1930年秋から1933年冬にかけて、貨幣量は約30%減少しました。

そして、債務デフレ

貨幣量が減り、物価が下落する。しかし借金の額面は下がりません。

そのため債務の実質負担が増え、企業倒産、農家の破綻、銀行の不良債権、失業がさらに増えます。それが、また次の銀行破綻を生みます。

恐慌が自己増幅する仕組みが、ここにありました。

1930年から1933年の4年間に、アメリカでは9,096行の商業銀行が経営難で営業停止に追い込まれました。1929年時点の商業銀行24,970行の36%——3行に1行を超えます。預金者の損失は約13億ドルと推計されています。うち4,000行は1933年の1年に集中しており、その大半は同年3月の銀行休業のあと営業免許を得られなかった銀行です。同じ時期、中央銀行を持たず全国に支店網を張っていたカナダでは、銀行の破綻が一件も起きていません(→ 部分準備銀行を認めるか)。カナダ銀行が業務を開始するのは1935年3月です。

なお、この9,096という数字は連邦準備制度の統計でいう「営業停止(suspension)」です。管財人の下で清算された狭義の「破綻(failure)」とは区別され、いったん閉鎖して後に再開した銀行も含みます。逆に、銀行休業の期間だけ閉じて再開した銀行は含みません。

⚠ ただし、この対比を「中央銀行がなければ安定していた」の証拠として使うには、二つの留保が要ります。

第一に、カナダも不況そのものは免れていません。1933年の実質産出は1929年比で約28%減で、これはアメリカに劣らない落ち込みです。銀行が潰れなかったことと、経済が沈まなかったことは別です。

第二に、破綻ゼロの理由は学界で争われています。時価で評価し直せば大恐慌期に経済的に支払能力があった銀行は一行だけで、破綻がなかったのは政府の暗黙の預金保証と当局の猶予によるものだ、という研究があります(クリザノフスキー=ロバーツ、1993年)。これに対し、新しい文書資料からこの説を反駁する研究もあります(カー=マシューソン=クイグリー、1995年)。破綻ゼロという事実自体は争われていませんが、その解釈は決着していません。

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05

ロスバード対フリードマン ― そのあいだにいるハイエク

自由市場寄りの大恐慌論のなかで、もっとも興味深い対立がここです。

両者ともFRBを強く批判します。しかし批判の向きが逆です。

フリードマン=シュワルツ ― 「緩和しなかった」ことの罪

1963年、ミルトン・フリードマンとアンナ・シュワルツは『A Monetary History of the United States, 1867–1960』で、大恐慌研究を大きく変えました。

彼らがとくに重視したのが、1930〜33年の「大収縮(Great Contraction)」です。中心的な批判は、こうです。

FRBはこの貨幣収縮を防ぐ力を持っていたのに、十分に行動しなかった。

中央銀行が存在する理由の一つは、金融恐慌時に健全な銀行へ流動性を供給し、取り付けの連鎖を止めることです。ところがFRBは、銀行恐慌を十分に止めず、大規模な買入れを継続せず、1931年10月には、金流出を止めるために深刻な不況下で利上げまで行いました。

FRBがまったく何もしなかったわけではありません。1932年4月から8月にかけて、約10億ドルの国債を買い入れています。景気には改善の兆しも見えました。しかしこの政策は数か月で終了し、その後ふたたび収縮が進んで、1933年初めの全国的な銀行危機に至ります。

ロスバード ― 「膨張させた」ことの罪

オーストリア学派から見れば、批判の焦点は1920年代にあります。

1920年代——FRBが信用を膨張させすぎた。人為的な低金利と信用拡大が、誤投資を生んだ。

1929年以降——政府と中央銀行は、必要な価格・賃金・資本構造の調整を妨げるべきではなかった。

この立場からすると、恐慌下での再度の信用拡張は「治療」ではなく、本来なされるべき調整を先送りし、新たな歪みを作る行為に見えます。

⚠ ただし、ロスバードの主張は「何もするな」ではありません

ここは正確に読む必要があります。『America's Great Depression』で彼が挙げるのは、政府が調整を妨げる6つの手口——清算の阻止、さらなるインフレ、賃金率の維持、価格の維持、消費の刺激と貯蓄の抑制、失業への補助——です。そのうえで、彼はこう書いています。

デフレもまた回復を速めるのだから、政府は信用収縮を妨げるのではなく、むしろ奨励すべきである。

そして節の結論は、こうです。

要するに、恐慌における適切な政府の政策は厳格なレッセフェールであり、それには容赦ない予算の削減が含まれ、おそらくは信用収縮への積極的な奨励が組み合わされる。

つまり彼の立場は不作為ではありません。貨幣の面では収縮を促し、財政の面では縮小せよ、という能動的な政策提言です。同じ箇所で彼は、デフレには、そして銀行の取り付けにさえ、見落とすべきでない価値がある、とも書いています。

ロスバード(オーストリア学派)フリードマン=シュワルツ
批判の時期1920年代1930〜33年
FRBの罪信用を膨張させた貨幣量の崩壊を止めなかった
貨幣量30%減信用バブルの清算であり、政府はむしろ信用収縮を奨励すべきだった不要な破壊であり、防ぐべきだった
恐慌下の緩和調整の妨害になる。財政も容赦なく削減せよ最後の貸し手として当然の役割

つまり争点は「FRBを批判するかどうか」ではありません。

中央銀行が存在する制度のもとで、恐慌時に何をすべきなのか。

⚠ 「オーストリア学派=不況では何もするな」は、一枚岩ではありません

ここは、この論争で最も見落とされる部分です。

初期のハイエクは、ロスバードと近い立場でした。『価格と生産』では、こう述べています。

われわれはおそらく、拡張を時宜を得て抑えることによって危機を防ぐことはできる。しかしいったん危機が来てしまえば、その自然な終わりが来る前に、そこから抜け出すために何かをすることはできない。

1932年6月に署名された『貨幣理論と景気循環』英語版の序文では、さらに直接的です。

強制的な信用拡張によって不況と戦うことは、その悪をもたらしたまさにその手段によって、悪を治そうとすることである。

同じ序文で彼は、この実験と、危機が来た後に清算を妨げようとした試みこそが、この不況の異例な激しさと長さの原因だろうとも書いています。

しかしハイエクは、後年になって自分の立場を明示的に変えています。

鍵になるのが「二次的デフレ(secondary deflation)」という区別です。

誤投資を修正するために必要な一次的な調整と、
それを超えて所得の流れが累積的に収縮していく過程は、同じではない。

この語を作ったのはドイツの経済学者ヴィルヘルム・レプケとされ、レプケやハーバラーは早くから対抗措置を支持していました。

⚠ ただし、1930年代のハイエクは、これを「防ぐべき余計な収縮」とは見ていません。1933年の論文で彼は、こうした硬直性が調整を遅らせ「二次的な」デフレを引き起こすとしたうえで、それは「当初は不況を深めるが、最終的にはこれらの硬直性を克服する助けになる」と書いています。

変化があったのは、ずっと後です。1978年、彼はこう書きました。

私はデフレを景気活動の低下の本来の原因とは考えないが、そうした反応がデフレの過程を誘発する傾向を持つことは疑いない——40年以上前に私が「二次的デフレ」と呼んだものを引き起こす傾向である。その効果は、反応の本来の原因が必要としたものよりも悪くなりうるし、1930年代には確かに悪かった。そしてそれは、何の舵取りの機能も果たさない。白状しなければならないが、40年前の私は違う議論をしていた。私はその後、意見を変えた——出来事の理論的説明についてではなく、この体系の機能を妨げるものを特定の仕方で取り除ける実際上の可能性について、である。

この限定は落とせません。1975年の討論でも、二次的デフレと戦うことについて意見を変えたのかと問われて、彼は「理論的見解を変える必要はない」と答えています。同じ場で彼は、こうも述べました。

今日の私は、デフレにはいかなる認識可能な機能もなく、デフレの過程を支持したり容認したりする正当化は存在しないと信じている。

1979年のインタビューでは、さらに端的です。

大暴落が起きてしまった後に連邦準備制度が愚かなデフレ政策を採ったことに疑いはなく、この点で私はミルトン・フリードマンに同意する。私はインフレに反対であるだけでなく、デフレにも反対なのだ。

したがって、大まかにはこう整理できます。

  • ロスバード ― 信用収縮はむしろ奨励されるべきで、リフレーションには強く反対する
  • 1930年代前半のハイエク ― ロスバードに近い。信用拡張による不況対策は調整を遅らせる
  • 後年のハイエク ― 一次的な調整と二次的デフレは別であり、後者を放置したのは誤りだった

⚠ 時期を必ず限定してください。「ハイエクは一貫してデフレ阻止派だった」は誤りです。1931年の彼は「信用拡張によって危機と戦おうとする試みは、症状を原因として扱うだけでなく、不可避の実物的調整を遅らせることで不況を長引かせるかもしれない」と書いています。本人が変えたと明言しているのは実務上の判断であって、理論ではない——というのが正確な記述です。

⚠ そして、彼が本当に考えを変えたのかどうか自体が、いまも論争されています。ローレンス・ホワイトは2008年の論文で、ハイエクとロビンズの理論はそもそも「デフレへの受動的な無関心」という意味での清算主義を処方してはいなかったと論じ、アントニオ・マリウロは2016年に「彼は本当に考えを変えたのか」を正面から問うています。

また「オーストリア学派=不況では何もするな」という一括りも不正確ですが、その否定を強くしすぎるのも不正確です。ロスバードの上記の記述は、むしろ清算主義に近いものです。

同時代の証言

ルートヴィヒ・ラッハマンは、1930年代にロンドンでハイエクの研究助手を務めていました。彼は後年のインタビューで、当時「二次的不況」を自分の研究テーマにしていたと述べ、こう証言しています。

1933年までには、この種の不況が起こりうることは認められていたし、1933年には世界が現に二次的不況の過程にあることを、誰もが認めていたと私は思う。

(ラッハマンの原文の主語は「誰もが(everybody)」であって、オーストリア学派に限定されていません。ただし彼は同じインタビューで、ハイエクとロビンズが1932年10月の書簡での立場から、翌年には二次的不況がありうると認めるようになったとも述べています。)

これは学派の外との論争ではなく、内部の論争です。

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06

金本位制 ― 何が、どう失敗したのか

ここは、この論争でもっとも慎重に扱うべき節です。

実証研究が示していること

バリー・アイケングリーンらの経済史研究では、戦間期の国際金本位制が、大恐慌を世界へ伝え、各国の金融緩和を制約したことが重視されています。

固定平価を守るには、金が流出しているときに金融を引き締めなければなりません。しかし国内経済は緩和を必要としている。この矛盾が、各国を同時にデフレへ縛りました。

1931年9月、イギリスが金本位制を離脱します。すると「次はアメリカではないか」という懸念からドルを金へ換える動きが強まり、FRBは金流出を止めるために、1931年10月に利上げをしました。国内はすでに銀行危機と深刻な不況のさなかでした。

そして国際比較の結果があります。ベン・バーナンキは1995年の論文で、こう書いています。

圧倒的な程度において、証拠が示しているのは、金本位制を離れた国々が、金にとどまった国々よりも速く大恐慌から回復したということである。実際、金本位制にとどまったまま顕著な経済的回復を示した国は、一つもなかった。

アメリカでも、1933年の金本位制離脱とその後のマネーサプライ拡大が回復を促したという評価が有力です。

これは、1930年代について歴史が示している経過です。どの立場も、この経過をどう読むかは述べなければなりません。

⚠ ただし「実証されたのだから理論が決まる」とは、両者ともに考えていません。ここは事実の評価以前に、方法論が分かれるところです。

ミーゼス系のプラクシオロジーでは、経済理論は人間の行為という前提から演繹されるものであって、歴史のデータによって検証されたり反証されたりする種類のものではないとされます。歴史は理論を試す実験ではなく、理論を使って解釈する対象だ、という位置づけです。ミーゼスは、歴史はいかなる一般的な規則も法則も教えてくれない、と論じました。

したがって、この節で並べる国際比較の結果を「オーストリア学派を反証する証拠」として提示することは、この学派が採らない前提を持ち込むことになります。逆に、この経過を無視してよいという意味でもありません。本ページは、経過を経過として示し、その解釈が分かれることを示します。

⚠ ただし、そこから導けないこと

この事実だけからは、次の命題は出てきません。

金本位制を離脱して通貨をリフレートすることが、取りうる選択肢の中で最善だった。

実証研究が比較しているのは、実際に起きた1930年代における国どうしです。「1920年代に信用膨張を避けていた場合」や「1929〜30年に速やかに調整させていた場合」との比較ではありません。

それらは歴史上採用されなかった経路であり、直接観察できません。

ロスバード型の立場からは、すでにバブルが崩壊した後についても、金本位制を離脱して再び信用と貨幣を拡張するより、誤投資、過大な資産価格、維持できない企業、硬直した価格と賃金を速やかに調整させたほうが、短期間で持続可能な回復へ移れた可能性があるという反論が成り立ちます。これも、直接実証することはできません。

したがって、二つを区別する必要があります。

歴史的事実規範的・反実仮想的な評価
金本位制離脱の後に、実際の回復が始まった離脱とリフレーションが、取りうる政策の中で最善だった
観察できる直接には観察できない

⚠ 「金本位制」も一枚岩ではありません

もう一つ、落とせない注意があります。

ロスバードは、1920年代の国際通貨制度を、理想的な自由市場の金本位制とは考えていません。彼は『America's Great Depression』で、こう書いています。

ヨーロッパは、完全な金本位制へついに復帰しなかった。……金地金本位制でも金為替本位制でも、通貨は事実上の不換紙幣である。……そうであれば、1920年代に外国政府が「金本位制」という語を用いたのは、何よりも欺瞞であった。

別の著作でも、当時の各国が世界に負わせたものを「新しい形態の擬似的な金本位制(pseudo gold standard)」と呼び、古典的な金本位制の規律を捨てた帰結をイギリスが被らずに済むよう、アメリカが手を貸す用意があった、と批判しています。

⚠ ただし、ここも一枚岩ではありません。ロスバードは1920年代のアメリカについては、まだ金貨本位制=真の金本位制にあったと書いています。彼の「擬似的な金本位制」という批判が向けられているのは、主にヨーロッパ側の金地金本位制・金為替本位制です。「戦間期の金本位制はすべて偽物だった」と要約すると、本人の記述からずれます。

アイケングリーン自身も、第一次世界大戦前の古典的金本位制と、戦間期の制度との違いを重視しています。彼によれば、戦前の制度を支えていた基盤は二つ——金への公的なコミットメントに対する信認と、国際協調です。信認があるから資本が安定化する方向へ動き、協調があるから危機時の支えが一国の資力を超える。この二つが第一次世界大戦とその政治的・経済的帰結によって侵食され、戦間期に再建された金本位制は脆弱な制度になった、というのが彼の議論です。

したがって彼の主張は「金という制度そのものが恐慌を起こした」ではありません。戦前の制度を機能させていた政治的な基盤が失われたことを問題にしています。

したがって、次の推論は成り立ちません。

1930年代の金本位制がうまく機能しなかった。
→ したがって、オーストリア学派が擁護する金本位制が失敗した。

同じ「金本位制」という語が、違う制度を指しています。

反論もあります

「金本位制があったからFRBには何もできなかった」という説明も、そのままでは通りません。ボルド、チョウドリ、シュワルツらは、アメリカは世界最大の国であり巨額の金準備を保有していたため、銀行パニック・デフレ・経済活動の低下を相殺するために拡張的政策を用いることを制約されてはいなかったと論じています。

彼らのシミュレーションでは、FRBが二つの決定的な局面(1930年10月〜1931年2月、1931年9月〜1932年1月)でそれぞれ約10億ドルの拡張的な公開市場操作を行っていれば、兌換性を危うくすることなく銀行恐慌を回避できたとされます。最も不利な想定を置いた感応度分析でも、金準備比率は最低38.3%で、当時の法定要件(1931年10月時点で加重平均約37%)を下回りません。

争点は、制度的な金本位制の制約と、FRB自身の政策判断を、どこまで区別するかです。

5段構えで整理すると

問いそれぞれの答え
① 予防そもそも何をすべきだったかオーストリア学派: 中央銀行・銀行信用によって人為的なブームを作るな
② 崩壊直後バブルが弾けた直後はロスバード/初期ハイエク: 誤投資を清算し、価格・賃金・資本構造の再調整を妨げるな
③ 銀行恐慌後二次的デフレまで進んだらフリードマン: 貨幣量30%減のような金融崩壊は止めるべき/後年のハイエク: 必要な清算と二次的デフレは別で、後者を放置したのは誤りだった/ロスバード: 信用収縮はむしろ奨励すべき
④ 実際の1933年以降何が起きたか実証研究: 金本位制を早く離脱しリフレーションできた国ほど、実際には早く回復した傾向が強い
⑤ 反実仮想ではそれが最善だったか未確定: 1920年代に信用膨張を避け、あるいは速やかに調整していた場合との比較は、歴史的に直接観察できない
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07

フーヴァーは本当にレッセフェールだったのか

大恐慌をめぐる最も有名な物語の一つが、これです。

フーヴァーは自由放任主義者だったから、何もせず、恐慌を悪化させた。

これは史実と合いません。

1929年11月 ― 企業に賃金維持を求める

株価暴落の直後、フーヴァーは産業界と労働界の代表をホワイトハウスへ招き、企業側には賃金率を維持すること、雇用をできるだけ維持・分散することを求めました。

翌1930年の演説でも、前年の会議で産業界が賃金率の維持を約束したと本人が説明しています。

この賃金政策を、大恐慌そのものの主因として定量化した研究があります。リー・オハニアンは2009年の論文で、フーヴァーが産業界に名目賃金の維持を求め、その見返りに組合の圧力から守ると約束した「産業労働プログラム」を大恐慌の原因として位置づけ、モデル上、このプログラムが1931年末までに総労働時間を約20%、実質GDPを約18%押し下げたと推計しました。

⚠ ただし、これも決着した論点ではありません。ジョナサン・ローズは2010年、会議に出席した企業と業界団体の新しいデータを使って検証し、賃下げを遅らせた効果は少数の大企業に限られ、産業横断的な証拠はないと報告しています。

公共事業の前倒し

1929年11月23日、フーヴァーは各州知事へ電報を送り、道路・公共建築・その他の公共工事を前倒しして雇用を支えるよう要請しました。

1930年の議会向け年次教書では、政府・公益事業・鉄道などによる建設事業が、1929年の約63億ドルから1930年には約70億ドルになる見込みだと述べています。これはフーヴァー本人が当時報告した数字であり、後年に確定した国民経済計算と同一視はできません。

スムート・ホーリー関税法

1930年6月、フーヴァーはスムート・ホーリー関税法に署名しました。膨大な品目の輸入関税を引き上げる、高い保護関税です。

成立前には、約1,000人の経済学者が拒否権の行使を求める請願を出しています。それでも署名は行われ、各国が報復関税を導入し、世界貿易は大きく縮小しました。

ここで因果関係を正確にしておく必要があります。大恐慌は1929年にすでに始まっているので、「スムート・ホーリーが大恐慌を始めた」とは言えません。しかし国際貿易を縮小させ、輸出産業を圧迫し、各国の保護主義を強めることで、世界恐慌を悪化・長期化させる方向に働いたという評価は強いものです。

自由貿易を重視する古典的自由主義・リバタリアニズムから見れば、これは大恐慌期の政府政策のなかで最もわかりやすい失敗の一つです。

1932年 ― RFC

1932年1月22日、フーヴァーは復興金融公社法に署名し、復興金融公社(RFC)が設立されました。銀行、その他の金融機関、鉄道などへ緊急融資を行う機関で、払込資本は5億ドルです(実際の業務開始は同年2月)。

同年7月21日成立の緊急救済・建設法では、州・準州への救済貸付として3億ドルが条文に明記され、あわせてRFCの起債枠が払込資本の6.6倍(33億ドル)へ拡大されました。

⚠ よく引かれる「公共事業向け15億ドル」は、条文にその金額の文言があるわけではありません。起債枠の拡大分から、料金収入等で費用を回収できる「自償的」な公共事業への融資に充てられる分として算出される数字で、フーヴァー自身も法案評価の声明でこの額を挙げています。なおこれとは別に、連邦直轄の公共事業として約3億2,224万ドルが歳出計上されています。

したがって「フーヴァー=何もしなかった自由放任」は、明らかに単純化です。

⚠ ただし、逆方向の誇張にも注意が必要です

「フーヴァーは実質的にニューディールをやっていた」という要約も、行き過ぎです。

フーヴァーは、連邦政府による大規模な直接失業給付、恒常的な中央集権的福祉制度、ニューディール期ほど広範な産業統制には慎重でした。救済は州・地方政府、民間慈善、地域社会を中心にすべきだという考えを強く持っていました。

正確には、こうなります。

従来型のレッセフェールからは明確に離れた介入を行ったが、
ルーズベルト期の連邦政府の拡大ほどではなかった。

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08

ニューディール ― 一括では評価できない

「ニューディールは成功だったのか、失敗だったのか」という問いは、そのままでは答えられません。性質のまったく違う政策が束ねられているからです。

分野主な内容
金融・銀行銀行休業、緊急銀行法、銀行再建、預金保険、金本位制からの離脱とドル切り下げ
救済・公共事業失業者向け救済、公共事業、雇用プログラム
農業生産制限、農産物価格支持
産業・労働全国産業復興法(NIRA)、産業コード、競争制限、最低賃金・労働時間への介入、労働組合の交渉力強化

回復を助けたと評価されることが多いもの

1 ― 銀行危機の収束。1933年3月の全国銀行休業と、審査を経た健全な銀行の再開は、金融パニックを沈静化させました。預金が銀行へ戻り始め、決済システムが安定します。経済活動の前提が回復したという評価です。

ここで一つ、興味深い事実があります。緊急銀行法の主要部分は、フーヴァー政権下の財務省スタッフが準備していたものを引き継いでいます。「ルーズベルトがゼロから作った政策」ではありません。

2 ― デフレ期待の反転。金本位制からの離脱とドル切り下げによって物価の下落が止まり、リフレーションが進みました。

デフレが続くと「明日はもっと安くなる」という予想から支出が延期され、債務の実質負担も増えます。この反転が、1933年以降の急速な景気回復を説明する重要な要因として研究されています。

ここで、ひとつ意外な点を押さえておく価値があります。クリスティーナ・ローマーは、1942年以前の回復のほぼすべてがマネーサプライの拡大で説明できるとし、財政政策の寄与はほとんどなかったと結論しています。しかもそのマネーサプライ増加の主因は、FRBの能動的な緩和ではなく、1934年の金価格切り上げ以降に流入した巨額の金を、財務省が不胎化しなかったことでした。この結果は、「政府支出が回復させた」という説明にも、「市場が自力で回復した」という説明にも、同時に不利に働きます。

自由市場寄りの側が批判するもの

1 ― NIRAと産業のカルテル化。1933年の全国産業復興法は、産業ごとに「公正競争コード」を定める仕組みを作り、価格、生産、賃金、労働条件へ広範に介入しました。

ハロルド・コールとリー・オハニアンは、競争を制限し労働側の交渉力を高めるよう設計されたニューディールのカルテル化政策が、経済がトレンドへ回復し損ねたことを説明する重要な要因だとする一般均衡分析を発表しています(2004年、Journal of Political Economy 第112巻第4号)。実際の産出とトレンド産出の差の約60%を説明する、というのが彼らの主要な結論です。

彼らが要と見るのは、カルテル化そのものというより「結託の容認と高賃金の支払いを結びつけた」ことです。両者を一体で設計したために、企業内部者と外部者のあいだに非効率な摩擦が生まれ、賃金が押し上げられて雇用が抑えられた、という筋道です。

⚠ これは有力な研究の一つであって、経済史学界の確定した結論ではありません。たとえばガウティ・エガートソンは2012年の論文で、ゼロ金利と価格の硬直性という条件の下では、独占力と組合の強化はむしろ拡張的に働きうるという正反対の結論を示しています。同論文自身が「これは先行する多くの研究と反対の結論だ」と述べています。

2 ― 農業の生産制限。価格を引き上げるために生産を制限すれば、農家所得を支える効果はあります。しかし失業と貧困が深刻な時期に、生産量そのものを政策的に抑えることをどう考えるかという、古典的な問題が生じます。

1937〜38年 ― なぜ再び急落したのか

1933年以降、アメリカ経済は回復しました。しかし完全回復より前の1937年、再び急激な景気後退が起きます。

実質GDPは約10%減少し、工業生産は約32%減少し、失業率は再び約20%へ上がりました。

この時期、FRBは銀行の過剰準備を問題視して預金準備率を段階的に約2倍へ引き上げ、連邦財政も引き締め方向へ向かいました。現在の研究では、金融引き締めと財政引き締めの双方が原因候補として挙げられています。

この出来事は、両方向の単純化を否定します。

  • 「1933年以降の経済は、政府支出だけで機械的に回復していた」とは言えない
  • 「市場が順調に完全回復していた」とも言えない

金融制度と政策は、依然として経済へ大きな影響を与えていました。

「戦争が大恐慌を終わらせた」は正しいか

完全な生産・雇用の回復は第二次世界大戦期に達した、と説明されます。ただし「戦争が国を豊かにした」と理解するのは、別の問題です。

戦時には徴兵、配給、民間消費の制限、軍需生産、巨額の政府支出が行われます。GDPと失業率だけを見れば、生産と雇用は増えます。しかし軍艦や砲弾が増えても、一般市民が自由に消費できる財とサービスが増えたとは限りません。

統計上の完全雇用と、生活水準の豊かさは、同じではありません。

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09

結論が分かれる5つの難問

1 ― 1920年代にFRBが信用を緩和しなければ、大恐慌は起きなかったのか

オーストリア学派——信用膨張が投資構造を歪め、後の調整を準備した。1929年だけを見るのは遅すぎる。

主流の経済史——1928〜29年の引き締め、銀行恐慌、貨幣収縮、金本位制など、恐慌を深刻化させた後続要因の証拠が強い。1920年代の信用拡大だけを主因とすることには同意しない。

ここではブームを作った原因と、深刻化させた原因を分けて考えるべきかが問われます。

2 ― 銀行が破綻して貨幣量が30%減るのも、市場の調整なのか

ロスバード型——信用膨張で形成された不健全な銀行・投資は清算される必要がある。中央銀行による再膨張には新たな歪みの危険がある。

フリードマン型——健全な銀行まで取り付けで破綻し、貨幣量が30%縮小することは、必要な清算ではない。中央銀行は最後の貸し手として止めるべきだった。

ハイエク系の一部——誤投資の清算と、それを超える二次的デフレは区別できる。

問題は、「信用バブルの清算」と「貨幣制度そのものの崩壊」を、どこで区別するかです。

3 ― フーヴァーが企業へ「賃金を下げないでほしい」と求めるのは、政府介入か

法的な最低賃金ではありません。企業との協調と要請です。

介入批判の側——大統領が企業を集めて全国的に賃金維持を求めれば、形式的に「自発的」でも、市場賃金の調整へ政治的な圧力を加えたことになる。

反論——法的強制ではなく危機時の協調要請にとどまるなら、ニューディール型の法的統制と同列にはできない。

政府による「自発的協力」の要請は、どこまで自由市場と呼べるのか。

4 ― 金本位制を捨てて景気が回復したなら、金本位制は間違いだったのか

金本位制批判——各国が離脱した後に金融緩和と回復が進んだ国際的証拠は強い。戦間期の金本位制はデフレを伝播させた。

反論——問題は金そのものではなく、第一次世界大戦後に不適切な平価で復帰し、中央銀行が管理し、金と外貨の準備が併存した戦間期の制度だったのではないか。古典的な金本位制と同じではない。

さらに反論——そもそも1920年代に信用膨張がなければ、この選択を迫られる規模の危機自体が生じなかったかもしれない。

ここでは制度の原理と、実際に運営された制度を区別する必要があります。

5 ― ニューディールの一部が回復を助け、一部が妨げたなら、成功か失敗か

銀行恐慌の収束とリフレーションは回復に寄与した可能性が高い。一方、産業のカルテル化と高賃金政策が回復を遅らせたという研究もあります。

すると「ニューディールは正しかった」とも「ニューディールは失敗だった」とも、一言では評価できません。

本当に問うべきなのは、こうです。

どの政策が、どの経路で、何を改善し、何を悪化させたのか。

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10

何が比較的確かで、何が今も論争なのか

比較的確認しやすい事実

  • アメリカの景気後退は1929年8月に始まった
  • 株価大暴落は1929年10月
  • FRBは1924年・1927年に大規模な公開市場買入れを行った
  • 1928〜29年には株式投機の抑制を目的として引き締めへ転じた
  • 1930年秋から銀行恐慌が深刻化した
  • 1930〜33年に貨幣量は大幅に縮小した
  • FRBは1931年、金流出を止めるため不況下で利上げした
  • フーヴァーは賃金維持を企業に要請し、公共事業の前倒しを推進した
  • スムート・ホーリー関税法は1930年に成立
  • RFCは1932年に設立された
  • 全国銀行休業は1933年3月
  • 1933年にアメリカは国内の金兌換を停止し、ドルを切り下げた
  • 1933年以降、経済は明確に回復へ転じた
  • 1937〜38年に再び深刻な景気後退が起きた

有力だが、理論的評価を含むもの

  • FRBの最後の貸し手機能の失敗が、恐慌を深刻化させた
  • 貨幣収縮とデフレが、実体経済を大きく悪化させた
  • 戦間期の金本位制が、国際的なデフレ伝播に重要だった
  • 1933年の金本位制離脱とリフレーションが、回復を促進した
  • スムート・ホーリー関税が、世界貿易と回復を悪化させた

いまも大きく分かれるもの

  • 1920年代のFRBの信用政策が、1929年の崩壊をどの程度生んだか
  • 株式市場のバブルを、FRBが抑えるべきだったのか
  • 恐慌時の金融緩和は、必要な清算を妨げるのか
  • 戦間期金本位制の失敗は、「金本位制一般」の失敗なのか
  • ニューディールの産業・労働政策が、回復をどの程度遅らせたか
  • 財政政策が1930年代の回復へどれだけ寄与したか

このページでは結論を決めません

「大恐慌は市場の失敗だったのか」という問いへの、最も正確な答えはこうなります。

「市場だけの失敗」と呼ぶには、政府と中央銀行の役割が大きすぎる。
しかし「政府だけが原因」と呼ぶには、現実が複雑すぎる。

1920年代には、すでにFRBが信用条件を操作していました。1928〜29年には、株式投機を抑えるために金融を引き締めました。1930〜33年には、銀行恐慌と貨幣収縮を止められませんでした。金本位制維持のため、不況下で利上げまで行いました。フーヴァー政権は賃金・公共事業・信用・関税へ介入しました。ルーズベルト政権は金融制度を安定化させ、金本位制を停止する一方、産業・農業・労働市場への介入をさらに広げました。

したがって大恐慌は、「自由市場を放置するとこうなる」という単純な実験結果ではありません。

しかし同時に、自由市場を擁護する側にも、重い問いが残ります。

  • 中央銀行を批判するなら、銀行恐慌時に貨幣制度が崩壊することを、どう防ぐのか
  • 金本位制を擁護するなら、1930年代の国際デフレと、離脱後の回復を、どう説明するのか
  • 政府介入が調整を遅らせたと考えるなら、1933年の銀行制度安定化が果たした役割を、どう評価するのか

大恐慌は、中央銀行の失敗、銀行制度の設計、政府介入の害、危機時の貨幣収縮、国際通貨制度、価格調整、政策の知識問題を一度に考えなければならない、応用テーマです。

関連する論点として、銀行制度そのものの設計については 部分準備銀行を認めるか、貨幣と中央銀行の基礎については お金と中央銀行を、リバタリアンの視点で考える をご覧ください。

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References

出典・参考リンク

  1. 年表・FRBの政策・銀行恐慌・1937〜38年不況の数値は、Federal Reserve History(連邦準備制度の公式な歴史解説)の各項目によります — Federal Reserve History(英語)
  2. ミルトン・フリードマン/アンナ・シュワルツ『A Monetary History of the United States, 1867–1960』(Princeton University Press for the NBER、1963年)— 第5節。「The Great Contraction, 1929-33」は同書第7章(pp.299–419)です。⚠1965年の分冊版『The Great Contraction, 1929–1933』は独自に全7章へ再区分されており、ページも章番号も本体版と一致しません
  3. マレー・ロスバード『America's Great Depression』および『A History of Money and Banking in the United States』— 第3節・第5節・第6節。第6節の引用は前者の第5章「The Development of the Inflation」の記述、および後者の戦間期金為替本位制を扱う部分によります
  4. ミーゼスの引用(第3節)は『The Theory of Money and Credit』第23章第2節、および『Human Action』第20章第8節。ハイエクの引用(第5節)は『Prices and Production』第2版(1935年)第3講、および『Monetary Theory and the Trade Cycle』英語版序文(1932年6月署名)によります。なお「誤投資(malinvestment)」はこの時期のハイエク本人の語ではありません
  5. バリー・アイケングリーン『Golden Fetters: The Gold Standard and the Great Depression, 1919–1939』(Oxford University Press、1992年)— 第6節。戦前の古典的金本位制と戦間期の制度を区別し、前者を支えた基盤を「金へのコミットメントの信認」と「国際協調」に求めている点が重要です。⚠彼の議論を「金という制度そのものが恐慌の原因」と要約すると、原著の趣旨からずれます
  6. ベン・バーナンキ「The Macroeconomics of the Great Depression: A Comparative Approach」(Journal of Money, Credit and Banking 第27巻第1号、1995年2月、pp.1–28)— 第6節の引用はp.4によります
  7. マイケル・ボルド/エサン・チョウドリ/アンナ・シュワルツ「Was Expansionary Monetary Policy Feasible during the Great Contraction? An Examination of the Gold Standard Constraint」(Explorations in Economic History 第39巻第1号、2002年、pp.1–28。NBER Working Paper No. 7125、1999年)— 第6節の反論。数値はワーキングペーパー版によります
  8. クリスティーナ・ローマー「The Great Crash and the Onset of the Great Depression」(Quarterly Journal of Economics 第105巻第3号、1990年8月、pp.597–624)/「What Ended the Great Depression?」(Journal of Economic History 第52巻第4号、1992年12月、pp.757–784)— 第1節・第8節。後者は、マネーサプライ増加の主因をFRBの政策ではなく無不胎化の金流入に求めています
  9. ハロルド・コール/リー・オハニアン「New Deal Policies and the Persistence of the Great Depression: A General Equilibrium Analysis」(Journal of Political Economy 第112巻第4号、2004年、pp.779–816)— 第8節。有力な研究の一つであって、学界の確定した結論ではありません
  10. その反論として、ガウティ・エガートソン「Was the New Deal Contractionary?」(American Economic Review 第102巻第1号、2012年、pp.524–555)— 第8節
  11. フーヴァーの発言・施策は、American Presidency Project 所収の本人の演説・教書・電報によります — 第7節。復興金融公社法(1932年1月22日、47 Stat. 5)と緊急救済・建設法(1932年7月21日、47 Stat. 709)の内容は合衆国法律集(Statutes at Large)の原文で確認しました
  12. 関連する当サイトのページ — 部分準備銀行を認めるかお金と中央銀行を、リバタリアンの視点で考えるロスバードハイエク

※ 第1節の4段階の区分と第6節の5段構えの整理は、論争の見取り図として本ページで用いたものです。リンク先は各公開元のサイトです。所在は掲載時点のものです。

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