自由市場寄りの大恐慌論のなかで、もっとも興味深い対立がここです。
両者ともFRBを強く批判します。しかし批判の向きが逆です。
フリードマン=シュワルツ ― 「緩和しなかった」ことの罪
1963年、ミルトン・フリードマンとアンナ・シュワルツは『A Monetary History of the United States, 1867–1960』で、大恐慌研究を大きく変えました。
彼らがとくに重視したのが、1930〜33年の「大収縮(Great Contraction)」です。中心的な批判は、こうです。
FRBはこの貨幣収縮を防ぐ力を持っていたのに、十分に行動しなかった。
中央銀行が存在する理由の一つは、金融恐慌時に健全な銀行へ流動性を供給し、取り付けの連鎖を止めることです。ところがFRBは、銀行恐慌を十分に止めず、大規模な買入れを継続せず、1931年10月には、金流出を止めるために深刻な不況下で利上げまで行いました。
FRBがまったく何もしなかったわけではありません。1932年4月から8月にかけて、約10億ドルの国債を買い入れています。景気には改善の兆しも見えました。しかしこの政策は数か月で終了し、その後ふたたび収縮が進んで、1933年初めの全国的な銀行危機に至ります。
ロスバード ― 「膨張させた」ことの罪
オーストリア学派から見れば、批判の焦点は1920年代にあります。
1920年代——FRBが信用を膨張させすぎた。人為的な低金利と信用拡大が、誤投資を生んだ。
1929年以降——政府と中央銀行は、必要な価格・賃金・資本構造の調整を妨げるべきではなかった。
この立場からすると、恐慌下での再度の信用拡張は「治療」ではなく、本来なされるべき調整を先送りし、新たな歪みを作る行為に見えます。
⚠ ただし、ロスバードの主張は「何もするな」ではありません
ここは正確に読む必要があります。『America's Great Depression』で彼が挙げるのは、政府が調整を妨げる6つの手口——清算の阻止、さらなるインフレ、賃金率の維持、価格の維持、消費の刺激と貯蓄の抑制、失業への補助——です。そのうえで、彼はこう書いています。
デフレもまた回復を速めるのだから、政府は信用収縮を妨げるのではなく、むしろ奨励すべきである。
そして節の結論は、こうです。
要するに、恐慌における適切な政府の政策は厳格なレッセフェールであり、それには容赦ない予算の削減が含まれ、おそらくは信用収縮への積極的な奨励が組み合わされる。
つまり彼の立場は不作為ではありません。貨幣の面では収縮を促し、財政の面では縮小せよ、という能動的な政策提言です。同じ箇所で彼は、デフレには、そして銀行の取り付けにさえ、見落とすべきでない価値がある、とも書いています。
つまり争点は「FRBを批判するかどうか」ではありません。
中央銀行が存在する制度のもとで、恐慌時に何をすべきなのか。
⚠ 「オーストリア学派=不況では何もするな」は、一枚岩ではありません
ここは、この論争で最も見落とされる部分です。
初期のハイエクは、ロスバードと近い立場でした。『価格と生産』では、こう述べています。
われわれはおそらく、拡張を時宜を得て抑えることによって危機を防ぐことはできる。しかしいったん危機が来てしまえば、その自然な終わりが来る前に、そこから抜け出すために何かをすることはできない。
1932年6月に署名された『貨幣理論と景気循環』英語版の序文では、さらに直接的です。
強制的な信用拡張によって不況と戦うことは、その悪をもたらしたまさにその手段によって、悪を治そうとすることである。
同じ序文で彼は、この実験と、危機が来た後に清算を妨げようとした試みこそが、この不況の異例な激しさと長さの原因だろうとも書いています。
しかしハイエクは、後年になって自分の立場を明示的に変えています。
鍵になるのが「二次的デフレ(secondary deflation)」という区別です。
誤投資を修正するために必要な一次的な調整と、
それを超えて所得の流れが累積的に収縮していく過程は、同じではない。
この語を作ったのはドイツの経済学者ヴィルヘルム・レプケとされ、レプケやハーバラーは早くから対抗措置を支持していました。
⚠ ただし、1930年代のハイエクは、これを「防ぐべき余計な収縮」とは見ていません。1933年の論文で彼は、こうした硬直性が調整を遅らせ「二次的な」デフレを引き起こすとしたうえで、それは「当初は不況を深めるが、最終的にはこれらの硬直性を克服する助けになる」と書いています。
変化があったのは、ずっと後です。1978年、彼はこう書きました。
私はデフレを景気活動の低下の本来の原因とは考えないが、そうした反応がデフレの過程を誘発する傾向を持つことは疑いない——40年以上前に私が「二次的デフレ」と呼んだものを引き起こす傾向である。その効果は、反応の本来の原因が必要としたものよりも悪くなりうるし、1930年代には確かに悪かった。そしてそれは、何の舵取りの機能も果たさない。白状しなければならないが、40年前の私は違う議論をしていた。私はその後、意見を変えた——出来事の理論的説明についてではなく、この体系の機能を妨げるものを特定の仕方で取り除ける実際上の可能性について、である。
この限定は落とせません。1975年の討論でも、二次的デフレと戦うことについて意見を変えたのかと問われて、彼は「理論的見解を変える必要はない」と答えています。同じ場で彼は、こうも述べました。
今日の私は、デフレにはいかなる認識可能な機能もなく、デフレの過程を支持したり容認したりする正当化は存在しないと信じている。
1979年のインタビューでは、さらに端的です。
大暴落が起きてしまった後に連邦準備制度が愚かなデフレ政策を採ったことに疑いはなく、この点で私はミルトン・フリードマンに同意する。私はインフレに反対であるだけでなく、デフレにも反対なのだ。
したがって、大まかにはこう整理できます。
- ロスバード ― 信用収縮はむしろ奨励されるべきで、リフレーションには強く反対する
- 1930年代前半のハイエク ― ロスバードに近い。信用拡張による不況対策は調整を遅らせる
- 後年のハイエク ― 一次的な調整と二次的デフレは別であり、後者を放置したのは誤りだった
⚠ 時期を必ず限定してください。「ハイエクは一貫してデフレ阻止派だった」は誤りです。1931年の彼は「信用拡張によって危機と戦おうとする試みは、症状を原因として扱うだけでなく、不可避の実物的調整を遅らせることで不況を長引かせるかもしれない」と書いています。本人が変えたと明言しているのは実務上の判断であって、理論ではない——というのが正確な記述です。
⚠ そして、彼が本当に考えを変えたのかどうか自体が、いまも論争されています。ローレンス・ホワイトは2008年の論文で、ハイエクとロビンズの理論はそもそも「デフレへの受動的な無関心」という意味での清算主義を処方してはいなかったと論じ、アントニオ・マリウロは2016年に「彼は本当に考えを変えたのか」を正面から問うています。
また「オーストリア学派=不況では何もするな」という一括りも不正確ですが、その否定を強くしすぎるのも不正確です。ロスバードの上記の記述は、むしろ清算主義に近いものです。
同時代の証言
ルートヴィヒ・ラッハマンは、1930年代にロンドンでハイエクの研究助手を務めていました。彼は後年のインタビューで、当時「二次的不況」を自分の研究テーマにしていたと述べ、こう証言しています。
1933年までには、この種の不況が起こりうることは認められていたし、1933年には世界が現に二次的不況の過程にあることを、誰もが認めていたと私は思う。
(ラッハマンの原文の主語は「誰もが(everybody)」であって、オーストリア学派に限定されていません。ただし彼は同じインタビューで、ハイエクとロビンズが1932年10月の書簡での立場から、翌年には二次的不況がありうると認めるようになったとも述べています。)
これは学派の外との論争ではなく、内部の論争です。
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