保守と組むべきか ― パレオリバタリアニズムとは何だったのか
1990年前後のアメリカで、ロスバードとロックウェルはリバタリアンと保守層の連携を掲げました。組織的な連携は約5年で大きく後退しましたが、この時期の議論は30年後の現在もリバタリアニズムの評価に影響しています。何が主張され、実際に何が起き、どう批判されたのかを、一次資料に即して整理します。
内容は概ね固まっていますが、最終確認中です。
1990年前後のアメリカで、ロスバードとロックウェルはリバタリアンと保守層の連携を掲げました。組織的な連携は約5年で大きく後退しましたが、この時期の議論は30年後の現在もリバタリアニズムの評価に影響しています。何が主張され、実際に何が起き、どう批判されたのかを、一次資料に即して整理します。
内容は概ね固まっていますが、最終確認中です。
思想には、二つの別々の問いがあります。何が正しいかと、それをどう広めるかです。
前者は原理の問題、後者は戦略の問題です。通常は分けて考えられますが、この二つが正面から絡み合い、リバタリアニズム内部に深い論争を残した時期がありました。
1990年前後にアメリカで起きたパレオリバタリアニズムをめぐる論争です。
問いはこうでした。
リバタリアンは、誰と組むべきなのか。
自由市場と小さな政府を求めるなら、同じく政府の肥大に反対する保守層と組めばよいのか。それとも、個人の自由という点で共通する文化的リベラル層と組むのか。あるいは、どちらとも組まずに独立を保つのか。
この論争は30年以上前のアメリカの出来事です。それでも、独立した項目として扱うだけの理由があります。
以下では、何が主張され、実際に何が起き、どう批判されたのかを、できるかぎり一次資料に即して整理します。
↑ 目次へ戻る「パレオ」はギリシャ語で「古い」を意味します。ニューディール以前の、古いアメリカの右派——反ニューディール、非介入主義、地方分権——の伝統に立ち返るという含意です。
この路線を打ち出したのは、リュー・ロックウェルが1990年1月に雑誌『Liberty』に寄せた論考「パレオ・リバタリアニズムの主張」でした。マレー・ロスバードがこれに合流し、二人は同年に機関誌『ロスバード=ロックウェル・レポート』を創刊、パレオ保守派との共同の場としてジョン・ランドルフ・クラブを立ち上げます。
彼らの批判の矛先は、外部ではなく当時のリバタリアン運動そのものに向いていました。
ロスバードは、当時の典型的なリバタリアンを揶揄的に「標準型リバタリアン」と呼びました。その特徴として彼が挙げたのは、およそ次のようなものです。国家への反対を、あらゆる伝統的な権威や慣習への反対と混同している。家族、宗教、地域社会といった、国家ではない秩序の担い手にまで敵意を向ける。結果として、都市部の高学歴層のサブカルチャーに閉じてしまい、一般の中間層や労働者層からまったく支持されない。
この診断のうち、選挙における支持の乏しさは記録から確認できます。当時のリバタリアン党の得票率は小さく、思想としての知名度と政治的な影響力には大きな隔たりがありました。
パレオの処方箋は、二つの要素からできています。
この組み合わせ自体は、論理的には矛盾しません。「法として強制してはならないこと」と「文化として望ましいこと」は別の次元だという主張は、成り立ちます。実際、これに近い立場をとるリバタリアンは今も多くいます。
問題は、この原則がどう具体化されたかにありました。
↑ 目次へ戻るパレオ路線が何を目指したのかは、ロスバード自身が書いた綱領を読むのが早道です。
1992年1月の『ロスバード=ロックウェル・レポート』に掲載された「右翼ポピュリズム——パレオ運動のための戦略」で、彼は「右翼ポピュリスト綱領」として8つの項目を挙げました。以下は原文からの要約です。
| 項目 | 内容 | リバタリアン原理との関係 |
|---|---|---|
| 1. 減税 | あらゆる税、とくに所得税。所得税の廃止と内国歳入庁の廃止へ | 整合的 |
| 2. 福祉の削減 | 福祉制度の廃止、少なくとも大幅な削減と制限 | 整合的 |
| 3. 集団的特権の廃止 | 積極的差別是正措置と人種割当の廃止 | おおむね整合的 |
| 4. 街を取り戻す:犯罪者を叩く | 「警察を解き放ち、即座の処罰を行わせよ」(誤りの場合の賠償責任は課す) | 矛盾する |
| 5. 街を取り戻す:浮浪者を追い出す | 「警察を解き放って浮浪者を街から一掃せよ。彼らはどこへ行くのか。知ったことか」 | 矛盾する |
| 6. 連邦準備制度の廃止 | 中央銀行はインフレを生み、国民の貯蓄を破壊するカルテルである | 整合的 |
| 7. アメリカ第一 | 対外援助の停止、海外への介入をやめて国内問題に取り組む | 整合的(非介入主義) |
| 8. 家族的価値の擁護 | 家族から国家を追い出し、公立学校を私立学校に置き換える | 整合的 |
原文にこの記述があること自体は、テキストを読めば確認できます。そして少なくとも、法の支配と適正手続を重んじる立場からは、「警察を解き放ち即座の処罰を行わせよ」という要求は自らの原理と整合しない、という批判が成り立ちます。
争点として残るのは、これを一時的な逸脱と見るか、戦略そのものに内在する帰結と見るかです。ここは評価が分かれます。
同じ論考には、もう一つ重い論点があります。
ロスバードはこの文章を、1991年ルイジアナ州知事選に出馬したデイヴィッド・デューク——クー・クラックス・クランの元幹部——の敗北から説き起こしています。彼はデュークを支持したと明言してはいません。しかし文章の基調は、デュークを攻撃した側を「支配エリートが仕組んだ恐怖と憎悪の大々的なキャンペーン」として批判するものです。デュークの信仰の誠実さを疑う報道を、彼は名指しで擁護しています。
併載された別の論考では、パット・ブキャナン支持を訴える文脈で「お前たちには選択肢がある。パット・ブキャナンか、デイヴィッド・デュークかだ」という言い回しまで使われています。
ここで公平に述べておきます。ロスバードの主張は「デュークの人種主義がよい」ではなく、「デュークが集めた票が示す大衆の不満は本物であり、その不満を減税・反福祉・反官僚の方向へ導ける」というものでした。彼が評価しているのは綱領であって人物ではない、という読み方はできます。
批判する側は、こう指摘します。このような書き方は、人種主義者への肯定と読まれる危険が高かったのではないか、と。事実として、この一連の文章は以後30年にわたり、リバタリアニズム全体への批判材料として繰り返し引用されてきました。
↑ 目次へ戻るでは、この戦略は実際にどうなったのでしょうか。
パレオ保守派との組織的な連携は、次第に後退していきます。
重要な対立点の一つが通商政策でした。ロスバードは徹底した自由貿易論者です。一方、彼が支持したブキャナンは保護主義に傾いていきました。加えて、パレオ保守派の側は産業政策や国家権力の行使に、リバタリアンが受け入れられない期待を寄せていました。
ジョン・ランドルフ・クラブは1989年から1995年まで活動したとされます。ロスバードは1995年1月に亡くなりました。パレオ保守派との組織的な連携は、ここで大きく後退します。
ただし、この路線をめぐる議論そのものが1995年に終わったわけではありません。ロックウェルは2007年のインタビューで、かつて用いた「パレオリバタリアン」という語を振り返り、それが「社会的に保守的なリバタリアン」という意味に誤解されるようになったと述べています。文化と政治戦略をどう関係づけるかという問いは、名称を変えながら現在まで続いています。
しかし、この路線が残したものは終わりませんでした。
1980年代後半から1990年代初頭にかけて、ロン・ポールの名前で発行されていた投資・政治ニュースレターがあります。『ロン・ポール政治レポート』『ロン・ポール・サバイバル・レポート』などです。これらには、人種差別的・同性愛嫌悪的な記述や陰謀論的な主張が含まれていました。
この問題は1996年の下院選で最初に表面化し、2008年および2011〜12年の大統領選予備選で大きく取り上げられました。
事実関係を正確に述べます。
もう一つ、見落とされやすい事実があります。
ロン・ポールの2008年と2012年の選挙運動は、多数の若者をリバタリアニズムに引き込んだ、大規模な政治運動の一つでした。大学生を中心とする組織が各地に生まれ、ミーゼス研究所の読者も大きく増えました。
その後の選挙運動でも、20年前のニュースレターは繰り返し批判材料として取り上げられました。過去の戦略をめぐる問題が、後の政治活動にも影響を残したのです。
↑ 目次へ戻るパレオ路線への批判は、大きく二種類に分かれます。原理からの批判と、戦略からの批判です。
第一に、すでに見たとおり、綱領には、不侵略原則・法の支配・適正手続と強く緊張する項目が含まれていました。これは「同盟相手が悪かった」という次元だけの話ではありません。
第二に、より根本的な問いがあります。リバタリアニズムは、政治的な原理だけで完結するのか。
この問いをめぐって、2000年代に「厚い/薄いリバタリアニズム」と呼ばれる論争が起きました。
パレオは、この分類のどちらにも単純には収まりません。「国家が何を強制してよいか」という政治原理と、文化的な価値評価とを形式的には区別しながら、運動の戦略としては特定の文化・伝統を積極的に結びつけた——ここが特徴であり、批判の焦点でもあります。「法と文化は別だ」と言いながら、文化のほうを動員の軸に使った、という批判です。
この問題は過去のものではありません。
ハンス=ヘルマン・ホッペは『民主主義——失敗した神』(2001年)で、私有財産にもとづく契約共同体について論じ、その共同体の目的と両立しない生き方を主張する者は「物理的に排除される」ことになると書きました。
この一節には、二つの読み方が対立しています。
この対立は、いまも決着していません。
原理を離れて、戦略として有効だったのかという評価もあります。
擁護する側は、こう論じます。ロン・ポールの選挙運動は現に若者を大量に動員した。リバタリアニズムが、大学の講義室や専門誌の外で、若者を中心に大きな政治的な可視性を得たのはこの時期である、と。
批判する側の応答はこうです。動員された人々が、思想を共有しているとはかぎらない。「誰の敵か」で人を集めれば、集まるのは思想の支持者ではなく、同じ敵を持つ人々です。彼らが次に何を支持するかは、こちらが決められません。
敵によって人を集めると、集まった人が何者かは、こちらで決められない。
一部の論者は、2010年代半ば以降の右派ポピュリズムや権威主義的な潮流と、リバタリアン運動との人的・言説的な接点を問題にしてきました。ただし、パレオ戦略から権威主義への因果関係が確立しているわけではありません。指摘が繰り返されているという事実と、因果が示されたということは別です。
↑ 目次へ戻るここまでは批判を見てきました。ここでは、パレオ路線が提起した問題のうち、事実や論点として確認できる部分を整理します。
1990年当時のリバタリアン運動が、選挙において一般の有権者からほとんど支持されていなかったことは、得票の記録から確認できます。
もう一つの指摘——国家への反対を、家族・宗教・地域社会といった国家ではない秩序への反対と混同していた——は、当時の運動全体についての一般化であり、そのまま事実とは扱えません。ただし、国家以外の制度がどのような役割を担うのかという問題提起自体は重要です。
ここで重要なのは、国家への反対と、家族・教会・地域社会など非国家の制度への反対は同じではない、という点です。政府がいま担っている機能を縮小するなら、それを家族、教会、地域の相互扶助、保険、職業団体、企業、自発的な結社のうち何が担うのかを、具体的に考える必要があります。この検討を抜きにした縮小論は、説得力を持ちにくくなります。
トクヴィルが19世紀のアメリカに見たのは、まさにこの中間的な結社の厚みでした。それは保守思想の専有物ではなく、自由主義の伝統そのものの一部です。
もう一つ、検討すべき点があります。
思想が政治的な力を持つには、専門家だけでなく一般の人々に届く必要があります。難解な理論をそのまま語っていては、何も動きません。
近年でいえば、アルゼンチンのハビエル・ミレイは、リバタリアニズムとオーストリア学派を明示的に掲げて大統領に就任した、現代政治では例の少ない人物です。経済学の議論を、強い言葉と分かりやすい対比で大衆に語りました。語り口を大衆向けに変えることと、原理を変えることは別の問題です。
区別すべきは、次の二つです。
| 原理と両立しやすい方法 | 原理と緊張しやすい方法 | |
|---|---|---|
| 語り口 | 専門用語を避け、具体例で語る | — |
| 訴える相手 | 高学歴層に限らず広く訴える | — |
| 共通の敵 | 特定の制度(中央銀行、規制、特権)を批判する | 特定の集団への敵意で人を集める |
| 綱領の内容 | 優先順位を組み替える | 原理と強く緊張する項目を入れる |
| 連携 | 個別の政策で一致する相手と組む | 一致していない部分を曖昧にしたまま組む |
1992年の綱領は、右側の列を二つ踏んでいます。争点は、大衆に届けようとしたこと自体ではありません。支持を広げるために、原理と緊張する手段をどこまで政治綱領に取り込んでよいのか——ここが問われています。
↑ 目次へ戻るこの論争は、日本で活動する者にとって他人事ではありません。
日本において、減税、規制緩和、財政規律、健全な貨幣を主張しようとすれば、これらに近い主張をしている政治勢力と、程度の差はあれ関わることになります。同時に、個人の生き方の自由や表現の自由を主張すれば、また別の層と重なります。
そしてこの二つの層は、日本でも完全には一致していません。「経済的自由には賛成だが、生き方の自由には冷たい」立場も、「生き方の自由には賛成だが、経済的自由には冷たい」立場も、どちらも実在します。
パレオ論争が突きつけたのは、この状況でどう振る舞うかという問いでした。
特定の政治勢力への評価は、その時々の事実にもとづいて個別に行うべきものです。ここでは、この論争から読み取れる実務上の注意点を挙げます。
連携の相手は選べる。しかし、書いたものがどう読まれるかは選べない。
↑ 目次へ戻る最後に、読むうえで知っておくと役に立つことを二つ挙げます。
当サイトは、ミーゼス研究所が公開している文献を出典として頻繁に参照しています。同研究所を設立したのはリュー・ロックウェルであり、本ページで扱った論争の中心人物の一人です。
参照している理由は明確です。オーストリア学派とリバタリアニズムの古典の多くが、そこで全文無料公開されているからです。日本の読者が、ミーゼス、ハイエク、ロスバード、ベーム=バヴェルクの原典に直接触れられる重要な入口になっています。
この経緯に触れずに引用を続けるより、書いておくほうがよいと考えて記しました。
このページで扱った事柄のうち、事実として確定していることと、評価が分かれることを区別しておきます。
| 確定していること | 評価が分かれること |
|---|---|
| 1992年の綱領に、適正手続きを踏まない処罰を求める項目が含まれていたこと(原文で確認できる) | それが一時的な逸脱だったのか、戦略に内在する帰結だったのか |
| パレオ保守派との組織的な同盟が約5年で大きく後退したこと | 崩れた原因が通商政策の対立にあったのか、より根本的な不整合にあったのか |
| ニュースレターの内容と、ロン・ポール本人が執筆を否定していること | 執筆者が誰か(今日まで確定していない) |
| ロン・ポールの選挙運動が多くの若者をリバタリアニズムに引き込んだこと | 戦略全体として、得たものと失ったもののどちらが大きかったか |
| ホッペの記述が契約共同体を論じる文脈に置かれていること | その文脈を踏まえてなお問題があるかどうか |
右の列については、リバタリアンの間でも意見が一致していません。このページは、左の列を正確に示し、右の列については双方の言い分を並べることを目的としています。
この論点を扱った日本語の文献は、残念ながらごく限られています。
この論争の理論的な土台については 薄いリバタリアニズムか、厚いリバタリアニズムか を、ロスバードその人については マレー・ロスバード の解説ページを、リバタリアンが「誰と組むか」をめぐる他の答え(ベルトウェイ、ライフスタイル、リベラルタリアン)との比較は リバタリアン運動は、どこへ向かうのか に、「誰を受け入れるか」をめぐる論争は 国境を開くべきか に、内部の他の分岐については 応用編Ⅰ(リバタリアン内部の論争) をご覧ください。
↑ 目次へ戻る※ リンク先は各公開元のサイトです。所在は掲載時点のものです。