論点 · 応用編Ⅰ

薄いリバタリアニズムか、厚いリバタリアニズムか ― 自由と文化の関係

他人を殴らない。盗まない。脅迫しない。本人の同意なしに、その身体や正当に所有する財産を侵害しない。リバタリアニズムの核心をここまで絞れば、かなり明快です。では、その先はどうでしょうか。ある人は伝統的な家族観を持ち、別の人は自由な生き方を好む。ある人は宗教を社会に不可欠だと考え、別の人は宗教的権威を嫌う。暴力も強制も使わず、当事者が自発的に選んでいるとき、リバタリアニズムはそこで何かを言うべきなのでしょうか。

Draft · 編集中

内容は概ね固まっていますが、最終確認中です。

In Short

3つの要点

  • 「厚い」は、政府の役割を増やすことではありません。ジョンソンは論考の冒頭で、政府の介入によって社会的な帰結を設計しようとする試みを、リバタリアンの原理に反するものとして最初に除外しています。争われているのは、法律で強制しない領域の話です。
  • 「厚い=左派」でもありません。文化的に保守的でありながら理論的には「薄い」立場も、文化的に自由奔放でありながら理論的には「厚い」立場も成り立ちます。厚い/薄いと、文化の左右は別の軸です。
  • ただし、単純な対応づけは事実の側から裏切られます。「パレオ=右方向の厚さ」と整理したくなりますが、ロックウェル自身は2014年にこの語彙を使い、「薄い」側に立って「厚い」を批判しました。
目次
01

「厚い」と「薄い」は何を争っているのか

この論争は、何を法律で禁止すべきかという問題ではありません。

そうではなく——

法律で禁止しないものについて、リバタリアンはリバタリアンとして何を支持し、何を批判すべきなのか。

——という、自由と文化の関係をめぐる論争です。

⚠ まず、二つの誤解をつぶします

誤解1 ― 「厚い」は、政府に多くの仕事をさせることではありません。

チャールズ・ジョンソンは2008年の論考の第2段落で、こう書いています。

明らかに、一貫した原理的なリバタリアンは、リバタリアンの原理に反する試みや信念を支持することはできない——たとえば、政府の介入によって社会的な帰結を設計しようとする試みのように。しかし、強制的な法律がテーブルから取り除かれたうえで、リバタリアンは……他の宗教的・哲学的・社会的・文化的なコミットメントについて何を言うべきなのか。

つまり議論の対象は、教育、慈善、相互扶助、ボイコット、社会的な評価、道徳的な議論といった、法律による強制を使わない方法によって、社会がどう形づくられるか、です。

「厚いリバタリアニズム=自由主義に福祉国家を足したもの」ではありません。

誤解2 ― 「薄い」は、道徳を持たないことではありません。

薄いリバタリアンが「暴力さえ使わなければ何をしても道徳的に正しい」と考える必要はありません。薄い立場のリバタリアンが、キリスト教徒であっても、伝統的な家族を大切にしても、薬物使用を道徳的に批判しても、フェミニストであっても、まったく矛盾しません。

薄い立場が言うのは、こういうことです。

それは私の宗教観・道徳観・人生観であって、リバタリアニズムそのものが要求する価値ではない。

この区別が、論争を理解する鍵になります。

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02

薄いリバタリアニズム ― 不侵略原則の外は自由

薄いリバタリアニズムの魅力は、その明快さと多様性にあります。

リバタリアニズムが答えるのは「誰が誰に強制してよいのか」という政治的な問いだけである。その答えを不侵略原則に限定し、それ以外は各人に委ねる。

この立場から見れば、自由社会には宗教的な共同体も世俗的な共同体も、伝統的な家族も非伝統的な家族も、厳格な企業も水平的な企業も、同時に存在できます。大切なのは参加するかどうかを本人が選べることです。

「合法化」と「称賛」は別

薄い立場が特に重視する区別があります。

禁止すべきではない、ということと、よいことだから称賛すべきだ、ということは同じではない。

薬物を犯罪にすべきではないと考えながら、薬物使用を愚かな行為だと批判することはできます。ある職業を刑罰で禁止すべきではないと考えながら、自分の家族には勧めないこともできます。宗教を政府が強制してはならないと考えながら、宗教が人生で最も大切だと考えることもできます。

その意味で薄いリバタリアニズムは、法的な寛容と道徳的な承認を分離する思想でもあります。

なぜ薄く保つのか

  • 思想の意味が明確になる。「リバタリアン」という言葉だけで、税や戦争や家族や宗教や性や企業文化や芸術まで一つの正解を持つ必要がなくなります
  • 幅広い人が共存できる。保守的なリバタリアンも進歩的なリバタリアンも、同じ政治原則を共有できます
  • 道徳的な不同意と、政治的な権利侵害を混同しにくい。誰かが不快な価値観を持っていることと、その人が権利を侵害していることを区別できます
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03

ジョンソンの分類 ― 「厚さ」には種類がある

2008年、チャールズ・ジョンソンは『The Freeman: Ideas on Liberty』(第58巻第6号、7・8月合併号)に「Libertarianism Through Thick and Thin」を発表しました。

この論考の重要な点は、「厚いか薄いか」という単純な二択を示したことではありません。リバタリアニズムと他の価値とのつながりには、いくつもの種類があると整理したことです。

(なお、この対比自体はジョンソンの造語ではありません。2005年12月にはモリナリ協会が同じ表題のシンポジウムを開いており——米国哲学会東部部会の併催セッションで、司会はロデリック・ロング、報告はヤン・ナーヴソン、コメントがジョンソンでした——ジョンソンはそれを体系化し、広く知らしめたと言うのが正確です。)

まず、両端に置かれた2つ

ジョンソンは最初に、他の「厚さ」と混同すべきでない2つを挙げます。一方はリバタリアニズムと密接に結びつき、他方はほとんど結びついていないものです。

論理的に含まれるもの(thickness in entailment)——リバタリアニズムの原理そのものから直接導かれるものです。たとえば、国家による暴力だけでなく私人による暴力も認めない。「家庭内のことだから」という理由で私的な権利侵害を見逃さない。これは文化的な価値を追加しているのではなく、原理を一貫して適用した結果です。

ただ一緒に持っているだけ(thickness in conjunction)——「リバタリアンであり、かつ愛情深い親である」といった場合です。二つの価値のあいだに、リバタリアンとしての特別な結びつきはありません。一人の人が複数の価値を持っているだけです。

そして、その間にある4つ

ジョンソンが本当に問題にするのは、この両端のあいだにある関係です。彼は「最も密接な結びつきと最も緩い結びつきのあいだに、少なくとも4つの別の種類の結びつきがありうる」と書いています。

原語内容
Thickness for Application
(適用のための厚さ)
不侵略原則を現実に正しく当てはめるために、原則以外の知識や視点が必要になる場合
Thickness from Grounds
(根拠からの厚さ)
リバタリアニズムを支持する、より深い哲学的な理由が、別の価値も支持させる場合
Strategic Thickness
(戦略的な厚さ)
自由社会を実現・維持するために、特定の文化や制度が因果的な前提条件になる場合
Thickness from Consequences
(帰結からの厚さ)
国家の強制が生み出した社会的な帰結について、リバタリアンにも批判する理由がある場合

「戦略的な厚さ」は、日本語の「戦略=作戦」より広い意味です。原文の定義は「実現のための因果的な前提条件」であり、「そういう文化がなければ自由社会が成り立ちにくい」という主張を指します。

この分類が効くところ

この整理があると、「厚いリバタリアニズムとは、進歩的な価値を政治思想に付け足すことだ」という理解を避けられます。

問われているのは何を付け足すかではありません。

なぜ、それが自由と結びつくのか。

⚠ ジョンソン自身が、中身を決めていない

見落とされやすい点です。論考の末尾で、彼はこう書いています。

「厚い」コミットメントを擁護して私が述べてきた個別の主張について、詳細な正当化を試みたわけではないことを明確にしておきたい。リバタリアンがリバタリアンとして、どの社会的・文化的な企てを理論と実践に組み入れるべきかは、詳細な議論のなかでこれから詰められるべき問題として残っている。

つまりこの論考は、答えではなく、問いの整理です。

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04

「厚い=左派」ではない

ここが、このページで最も伝えたい点です。

ジョンソンの例は、たしかに左に寄っている

まず事実から。誌面版に出てくる具体例は、約12件のうち10件以上が左派リバタリアン寄りです。フェミニズム、文化における権威主義への反対、貧困への関心、相互扶助、労働者の自発的な連帯、国家特権と企業権力の結びつきへの批判。

肯定的な例として非左派の主題が挙がることは、誌面版にはありません。ジョンソン自身も左派リバタリアンを自任しています。

そのため「厚いリバタリアニズム=左派リバタリアニズム」と理解されることがあります。

しかし、枠組み自体は左右を限定していない

ジョンソンの問いの立て方は、追加される価値の中身ではなく、リバタリアニズムとの関係の種類を分類するものです。第2段落で彼が挙げる追加的コミットメントの範囲も、「宗教的・哲学的・社会的・文化的」と広く取られています。

実際、同じ2008年に彼が公開した拡張版には、誌面版にない一節があります。そこで彼は、ゲイリー・ノースやハンス=ヘルマン・ホッペのようなパレオリバタリアン、そしてランド派の客観主義者も、方向は逆でありながら同じ形の主張をしている、と述べています。

⚠ ただし彼は、直後にそれらを退けています。「左派リバタリアンである私は、これらの個別の訴えを見せかけのものだと考える(ホッペの場合には、グロテスクだと)」。この一文を落として引用すると、ジョンソンがパレオ的な厚さを容認したように読めてしまいます。

したがって整理はこうなります。

ジョンソンの具体例が左方向であることと、
「厚い」という概念そのものが左派であることは、別である。

⚠ 「右方向の厚さ」は、学派の名前ではありません

本ページではこのあと「右方向の厚さ」という言い方をします。これはページ独自の分析上の表現であって、確立した学派名でも学術用語でもありません。調べた範囲で、これに対応する定着した呼称は存在しませんでした。

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05

右方向の厚さ ― パレオを当てはめると

右方向の分かりやすい例がパレオリバタリアニズムです。

⚠ ただし時系列に注意が要ります。ジョンソンの分類は2008年、リュー・ロックウェルの「The Case for Paleo-Libertarianism」は1990年(『Liberty』第3巻第3号、pp.34–38)です。1990年の論考に thick / thin / thickness という語は一度も出てきません。以下は後からジョンソンの枠組みを当てはめた分析であり、「パレオは厚いリバタリアニズムの一派だった」という歴史的事実ではありません。

ロックウェルの主張

同論考の第1節の見出しは「The Conservatives Are Right: Freedom Isn't Enough」——保守派は正しい、自由だけでは十分ではない——です。本文にはこうあります。

保守派はつねに、政治的自由はよい社会にとって必要条件ではあるが十分条件ではないと論じてきた。そして彼らは正しい。それは自由な社会にとっても十分ではない。私たちにはまた、公共的な徳を促し、個人を国家から守る社会制度と規範が必要である。

「よい社会にとっても十分でない」というのは保守派の主張の引用ですが、「自由な社会にとっても十分でない」はロックウェル自身の継ぎ足しです。

そして彼が掲げた10箇条の第VIII項には、こうあります。

社会的権威——家族、教会、共同体、その他の中間的な制度に体現されるもの——は、個人を国家から守る助けとなり、自由で徳のある社会に必要である。

別の節では、リバタリアンが国家の権威と社会的権威の区別を曖昧にするのは誤りだ、自由な社会は社会的権威によって支えられているのだから、とも書いています。

ジョンソンの枠組みを当てはめると

この主張は、「リバタリアニズムから伝統的家族が論理的に導かれる」という形をとっていません。そうではなく——

家族や中間共同体が弱まれば、国家がその役割を奪い、自由社会は維持しにくくなる。

——という因果的な主張です。ジョンソンの分類で言えば、戦略的な厚さにあたる形になります。

興味深いのは、価値の方向は逆でも、論理の形はよく似ていることです。

自由を維持するために必要だとされるもの
左方向権威主義への反対、相互扶助、国家特権に対抗する社会的な連帯
右方向家族、宗教、地域共同体、自制、伝統的な社会規範

⚠ ところが、ロックウェル自身は「薄い」側に立ちました

ここは書かずに済ませられません。「パレオ=右方向の厚さ」という整理は、事実の側から裏切られます。

厚い/薄いの論争は2014年に再燃しました。そのときロックウェルはこの語彙を能動的に使い、自らを「薄い」側に置いて「厚い」リバタリアニズムを批判しています。

つまり——

  • 1990年の主張の構造は、後からジョンソンの枠組みを当てれば「戦略的な厚さ」として分析できる
  • しかし2014年に本人が語彙を手にしたとき、彼は「厚い」を名乗らず、「薄い」側から論じた

この食い違いをどう理解するかは、それ自体が論点です。分析の枠組みと、当人の自己規定は、一致するとはかぎりません。

パレオリバタリアニズムそのものについては 保守と組むべきか で詳しく扱っています。

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06

ライフスタイル・リバタリアニズムとの違い

「厚い/薄い」とライフスタイル・リバタリアニズムは、同じものではありません。

ライフスタイル・リバタリアニズムは、文化的な傾向を表すかなり緩いラベルです。厚い/薄いは、その文化をリバタリアニズムとどこまで結びつけるかという理論上の区別です。

組み合わせは4通りある

文化的に進歩的文化的に伝統的
薄い「私は進歩的だが、リバタリアニズムは不侵略原則まで」「私は保守的だが、リバタリアニズムは不侵略原則まで」
厚い権威主義への反対や相互扶助を自由と結びつける家族・宗教・共同体・伝統を自由社会の条件として結びつける

この4つはすべて論理的に成り立ちます。

たとえば、薬物や性のあり方を本人の自由だと考え、自分自身も非常に自由奔放に暮らしながら、「リバタリアニズムは合法性だけの問題だ」と考える人は、文化的にはライフスタイル寄りで、理論的には薄いということになります。

逆に、伝統的な家族を好みながら「それは私個人の価値観であってリバタリアニズムとは関係ない」と考える人は、文化的には保守で、理論的には薄い

したがって——

ライフスタイル/パレオは、文化の「方向」を表す問題である。
厚い/薄いは、その文化をリバタリアニズムと「どこまで結びつけるか」を表す問題である。

⚠ この2×2の表は、本ページの分析装置です。ジョンソンがこの形で整理したわけではありません。

ライフスタイル・リバタリアニズムについては リバタリアン運動は、どこへ向かうのか の第5節で扱っています。

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07

結論が分かれる5つの難問

1 ― 平和的な独裁者崇拝は、リバタリアンの問題か

自由社会のなかに、指導者への絶対的な服従を美徳とする共同体が生まれました。全員が自発的に加入し、いつでも離脱できます。暴力も脅迫もありません。

薄い立場——本人たちが自由に選んでいる以上、リバタリアンとしては問題ない。好ましいかどうかは別の道徳問題である。

厚い立場——権威への無条件の服従を美徳とする文化が広がれば、政治的な権威主義も生まれやすい。自由社会を維持するという観点から批判する理由がある。

ここでは「権利を侵害していない文化を、自由にとって危険だという理由でリバタリアンが批判できるか」が問われます。

2 ― 伝統的家族は、自由社会に必要か

政府の福祉を大幅に縮小したとします。家族や地域の助け合いが強い社会では、政府の代わりが務まるかもしれません。しかし家族の結びつきが弱い社会では、困窮者の支援を政府へ求める圧力が高まるかもしれません。

右方向の厚い立場——家族は私生活上の好みではなく、小さな政府を可能にする中間制度である。

薄い立場——それが事実だとしても、リバタリアニズムが特定の家族形態を推奨する必要はない。市場や新しい相互扶助制度が別の形で機能する可能性もある。

ここでは制度的な機能と、特定の文化形態をどこまで結びつけられるかが問題になります。

3 ― 差別的だが完全に自発的な共同体を、どう評価するか

私有地だけで構成される共同体が、特定の属性の人は住めないという契約条件を設けています。加入者も土地所有者も全員合意しています。

薄い立場——財産権と結社の自由の範囲であり、政府が介入すべきではない。個人的に批判するかどうかはリバタリアニズムとは別。

左方向の厚い立場——法的禁止には反対しても、排他的な文化は権威主義や政治的差別を再生産しうるので、リバタリアンとして社会的に批判する理由がありうる。

右方向の厚い立場——結社の自由と共同体の自治そのものが、国家による画一化から自由を守る重要な制度である。

同じ不侵略原則から、文化評価が正反対に分かれる例です。

4 ― 自由市場から巨大格差が生まれたら、問題か

完全に政府特権のない市場で、ある起業家が大成功し、社会の非常に大きな富を所有するようになったとします。すべて自発的な取引の結果です。

薄い立場——取得と取引が正当なら、格差そのものはリバタリアンの問題ではない。

戦略的に厚い立場——極端な富の集中が、将来その富を政治権力へ変える危険を持つなら、自由社会の維持という観点から関心を持つ理由がある。

薄い側からの再反論——その危険への対策は国家と企業の癒着を禁じることであって、平和的な富そのものを問題視する必要はない。

5 ― 薬物合法化を主張するとき、「使うな」と言うべきか

リバタリアン団体が薬物の非犯罪化を訴えています。

薄い立場——問題は刑罰の是非だけ。薬物が道徳的か健康的かは別の問題なので、政治運動に混ぜる必要はない。

右方向の厚い立場——合法化を主張するときこそ「合法化=推奨ではない」と明確にし、家族や社会規範による非国家的な抑制も同時に強調すべきである。

ライフスタイル寄りの厚い立場——本人の身体についての自己決定を文化的にも肯定し、社会的なスティグマそのものを批判すべき場合もある。

同じ「政府は罰するべきでない」という結論から、リバタリアン運動が文化的に何を言うべきかは大きく分かれます。

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08

何が共通し、どこで分かれるのか

問い薄いリバタリアニズム厚いリバタリアニズム
リバタリアニズムの中心不侵略、身体・財産・契約の自由同じ
平和的な文化・道徳原則としてリバタリアニズムの外自由との重要な関係がある場合がある
道徳的な批判個人としては可能場合によっては、リバタリアンとしても行う理由がある
政府による強制原則として反対同じ。「厚さ」は政府の強制を増やすことを意味しない
自由社会の文化的条件リバタリアニズムとは別問題になりやすい戦略的に重要な問題
最大の懸念思想が左派・右派の文化論に乗っ取られること法だけ自由でも、自由社会が維持できないこと

確定していることと、評価が分かれること

確定していること評価が分かれること
ジョンソンが冒頭で政府の強制による社会設計を除外していること非強制的な手段による文化形成に、リバタリアンがどこまで関わるべきか
彼の分類が4類型と、その両端に置かれた2つからなること個々の主張がどの類型に当たるか
誌面版の具体例が左派寄りに偏っていることそれが概念自体の性格を示すのかどうか
1990年のロックウェルの論考にこの語彙が出てこないこと彼の文化論を「戦略的な厚さ」として分析してよいかどうか
2014年にロックウェルが「薄い」側に立ったことそれが1990年の立場と整合するのかどうか
ジョンソン自身が中身を未確定として残したことどの社会的・文化的な企てを取り込むべきか

このページでは結論を決めません

薄いリバタリアニズムには大きな強みがあります。ルールが明確です。誰がどんな宗教を信じても、どんな家族をつくっても、どんな道徳観を持っても、他人を侵害しないかぎりその人の自由である。薄く保つからこそ、異なる文化を持つ人が同じ政治原則のもとで共存できます。

しかし厚い立場は問い返します。

その自由社会は、何が支えるのか。

自由を嫌う文化が広がっても、家族や地域共同体が国家に置き換えられても、権威への服従が社会全体の美徳になっても、「まだ誰も侵略していないからリバタリアンには関係ない」と言い続けてよいのでしょうか。

反対に、厚い価値を自由主義に次々と結びつければ、「自由社会とは、私の好きな文化を持つ社会である」という思想へ変わる危険があります。

そこで本当の問いは、こうなります。

リバタリアニズムは、自由に共存するための最小限のルールなのか。
それとも、自由な社会を生み、支え、守る文化まで含めた社会哲学なのか。

この問題を理解すると、パレオリバタリアニズム、ライフスタイル・リバタリアニズム、左派リバタリアニズム、保守との連携、リベラルとの連携——これらが互いにどう違うのかが、単なる「右か左か」では捉えられなくなります。

何を自由と結びつけるのか。なぜ、それが自由と結びつくのか。そして、どこまでを「リバタリアニズム」と呼ぶのか。

厚い/薄いの論争は、リバタリアン運動の文化的な分岐を理解するための、最も重要な理論的な足場の一つです。

関連する分岐については 保守と組むべきかリバタリアン運動は、どこへ向かうのか、そして自由を何によって正当化するかという問い自体については 自然権論と帰結主義 をご覧ください。

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References

出典・参考リンク

  1. チャールズ・ジョンソン「Libertarianism Through Thick and Thin」(『The Freeman: Ideas on Liberty』第58巻第6号、2008年7・8月合併号、pp.35–39、FEE発行)— 第1節・第3節・第4節の引用はこの誌面版によります — FEE(英語全文)
  2. ⚠ 同論考には版が2つあります。著者が同年に公開した拡張版には、誌面版にない記述があります。第4節で触れたパレオリバタリアンやランド派への言及は拡張版にのみあり、ジョンソンは直後にそれらを退けています — Rad Geek People's Daily(英語・拡張版)
  3. モリナリ協会シンポジウム「Libertarianism through Thick and Thin」(2005年12月28日、米国哲学会東部部会の併催セッション。司会ロデリック・ロング、報告ヤン・ナーヴソン、コメント チャールズ・ジョンソン)— この対比が2008年より前からあったことの根拠です
  4. リュー・ロックウェル「The Case for Paleo-Libertarianism」(『Liberty』第3巻第3号、1990年1月、pp.34–38、欄名「Manifesto」)— 第5節の引用はこの論考によります。同論考に thick / thin / thickness という語は出てきません
  5. リュー・ロックウェル「The Paleo Question」(LewRockwell.com、2000年12月2日)— パレオについての回顧。彼が死んだと述べているのはブキャナン主義であって、パレオの精神ではありません
  6. 厚い/薄いの論争は2014年にも再燃しています。そのときロックウェルはこの語彙を用い、「薄い」側に立って論じました(第5節)
  7. 関連する当サイトのページ — 保守と組むべきかリバタリアン運動は、どこへ向かうのか自然権論と帰結主義

※ 本ページの「右方向の厚さ」および進歩的/伝統的 × 薄い/厚いの2×2の整理は、本ページ独自の分析上の表現です。確立した学派名でも、ジョンソン自身の図式でもありません。リンク先は各公開元のサイトです。所在は掲載時点のものです。

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