ところが、同じ私有財産の原理から、自由移民とは反対方向の結論も導かれます。中心にあるのは、次の問いです。
「自由に移動する権利」は、本当にそれ自体として存在する権利なのでしょうか。
移動できるのは、どこか
自宅に誰を入れるかは、その家の所有者が決めます。会社の敷地、私道、私有地の上に契約によって作られた共同体についても、基本的な考え方は同じです。したがって、「私には移動の自由があるから、あなたの家の中を通らせてもらう」とは言えません。
財産権を出発点にするなら、人が自由に移動できるのは、自分が所有する場所、所有者から利用を認められた場所、あるいは契約などによって通行・利用する権利を持つ場所です。
この考え方を移民問題へ徹底して適用した代表的な論者が、ハンス=ヘルマン・ホッペです。
ホッペは「Natural Order, the State, and the Immigration Problem」(『Journal of Libertarian Studies』16巻1号、2002年冬、pp.75–97)で、まず一つの思考実験を行います。
地球上のすべての土地が私有されている社会を考えるのです。家や建物だけではありません。道路、鉄道、港、空港、森林、河川、湖、海岸まで、すべてが私人や企業によって所有されており、「公有地」も、誰のものでもない「開かれた土地」も存在しないと仮定します。ホッペは、このような社会を「自然秩序(natural order)」と呼びます。
その社会では、抽象的な意味での「移動の自由」は存在しない、と彼は論じます。なぜなら、人がどこかへ移動するときには、必ず誰かの所有する土地を通ることになるからです。私有財産には、所有者が他人を「入れる権利」と「入れない権利」の両方が含まれます。
したがってホッペによれば、この完全私有社会では、人は原則として受け入れ側の財産所有者から招かれた場合に移動することができることになります。所有者は、自分の財産について定めた利用・滞在条件に従って、招待した人の滞在を認めたり、条件に反する場合には退去を求めたりすることができます。
つまり、ここで基本となるのは、「人にはどこへでも行く権利がある」ではなく、「財産所有者には、誰を自分の財産へ招き入れるかを決める権利がある」という原則です。
だからといって、人の移動がほとんどなくなるわけではない
ただし、ホッペの想定する完全私有社会は、人々が自分の土地に閉じこもり、ほとんど移動できない社会ではありません。むしろ彼は、道路、鉄道駅、港、空港などの所有者には、できるだけ多くの利用者を受け入れる強い経済的なインセンティブがあると考えます。人の移動そのものが彼らのビジネスだからです。
そのため、こうした所有者の利用条件は比較的緩く、通常は料金を支払うことなどが主な条件になるだろう、とホッペは予想しています。一方で、住宅地や私的な共同体などでは、所有者がより厳しい入居・利用条件を設定することもありえます。
つまり、ホッペの「自然秩序」では、「国境を国家が一律に開くか閉じるか」という一つの決定はありません。代わりに、無数の財産所有者が、それぞれ自分の財産について誰を受け入れるかを決めることになります。
国家が入ると、問題が変わる
ここからホッペは、現実の国家へ議論を移します。完全私有社会では、移動の可否は個々の所有者が決めます。しかし国家が成立すると、国境を越える人について、誰を入れ、誰を排除するかを、個々の財産所有者ではなく中央政府が決めるようになります。
ホッペは、ここから二つの問題が生じると考えます。
一つは「強制的排除(forced exclusion)」です。国内の家主や雇用主が外国人Aを、「私の家に住んでよい」「私の会社で働いてよい」と招いているにもかかわらず、国家が国境でAを排除する場合です。これは、本来ならAを受け入れたい国内所有者の財産権を、国家が妨げていることになります。
もう一つは「強制的統合(forced integration)」です。国内にAを受け入れたい財産所有者がいないにもかかわらず、国家がAを入国させ、公道・公有施設などを利用できるようにする場合です。
ホッペによれば、完全私有社会なら、前者も後者も起こりません。招待された人を国家が排除することもなければ、誰にも招待されていない人を国家が他人の財産へ押し込むこともないからです。
したがって、ホッペの問いは単純な「移民を増やすべきか、減らすべきか」ではありません。より根本にあるのは、次の問いです。
移動について決定する権利は、国家にあるのか。それとも個々の財産所有者にあるのか。
ホッペの議論の射程を、取り違えないこと
ここは慎重に読む必要があります。ホッペは、現在の国民国家や中央政府による国境管理を、それ自体として正当な制度だと考えているわけではありません。
彼の出発点は、あくまで私有財産です。理想的な「自然秩序」では、国家が国境で人を一律に入れたり排除したりするのではなく、それぞれの財産所有者が、自分の財産について誰を招き入れ、誰を排除するかを決めると考えます。
そのためホッペは、国家による強制を両方向から批判します。
国内の財産所有者が外国人を自分の土地へ招き、その人がそこへ移動する手配をしているにもかかわらず、政府がその人を国家領域から排除すれば、ホッペはこれを「強制的排除(forced exclusion)」と呼びます。逆に、国内の財産所有者から招待されていない人を政府が受け入れ、公道や公有施設などを利用できるようにすれば、それを「強制的統合(forced integration)」と呼びます。
ホッペ自身はこう整理しています。
国内の財産所有者がある人を招き、その人が所有者の財産へ行く手配をしているのに政府が国家領域から排除するなら、それは強制的排除である。逆に、国内の財産所有者から招待されていない人を政府が受け入れるなら、それは強制的統合である。
つまり、ホッペの理想では、国家が「開く」ことも、国家が「閉じる」ことも、本来の原則ではありません。決定するのは国家ではなく、個々の財産所有者です。
ただし、現実の国家のもとでは「より制限的な政策」も主張する
ここには、もう一段の注意が必要です。ホッペは、「国家は不正な制度なのだから、国家が存在するかぎり国境は無条件に開いておけばよい」とも考えません。
彼によれば、公道・公園・学校など現在の「公有財産」は、本当の意味で国家の所有物ではありません。それらは、税や収用によって国内住民から取り上げられた財産をもとに作られたものであり、ホッペは納税者である国内住民をその正当な所有者、政府をその受託者(trustee)とみなすべきだと論じます。
そして、国家自身が掲げる「国民とその財産を侵入者から守る」という正統性の根拠に従うのであれば、政府は私的なゲーテッド・コミュニティの門番のように、入国者に国内所有者からの招待があるかを確認し、その人が最終目的地へ移動する過程を管理すべきだと主張します。
したがって、ホッペは現実の国家に対して、現在より制限的・選別的な入国政策を採ることも要求しています。
しかし、彼はその直後に、「しかし、これは始まりにすぎない」と明記します。たとえ国家がより適切な入国政策を採ったとしても、国家と私有財産所有者との利益の対立そのものはなくならないからです。
ホッペにとって、国家そのものが問題である
ホッペの国家観は一貫して否定的です。彼は、
国家とは、言葉の上での矛盾である。財産を保護する者でありながら、立法と課税によって、保護する相手の財産を収奪することができる。
という趣旨を述べています。
したがって、移民政策だけを改善しても問題は解決しません。ホッペによれば、移民問題は、国家と「公有財産」が存在することから生じる、より一般的な問題の一部だからです。
さらに彼は、近代の大規模な人口移動についても、国家がその最も重要な原因、あるいは場合によっては唯一の原因であるとまで論じています。戦争、強制移住、追放、課税や介入による経済破壊などによって、一つの国家が大量の人々を外へ押し出し、別の国家が大量移民を受け入れることになる——というのが彼の説明です。
これは非常に強い主張ですが、ホッペの移民論を理解するうえでは重要です。彼にとって、大量移民の問題を作り出した国家に、「もっと上手に国境を管理してもらえば最終的に解決する」というのが答えではありません。
最終的な解決策は、分離独立と私有化
ホッペが最終的に提示するのは、中央国家による国境管理の完成ではありません。まず、中央集権的な国民国家を、州、地域、市、町、村へと分離独立させる。分離が進むごとに中央国家の支配領域は小さくなり、最終的には中央国家が消滅していくと考えます。
しかし、それだけでも十分ではありません。地方政府も、中央政府と同様、公道・公園・学校などを正当に所有しているわけではないからです。そこでさらに、公有財産を本来の私人所有者・所有者団体へ返還し、私有化する。
ここまで進んで初めて、誰を招き入れ、誰を排除するのかという決定権が、国家から個々の財産所有者へ戻るとホッペは考えます。
国家が消滅し、公有財産の私有化が完了すれば、現在の意味での「移民問題」そのものが消えます。国家単位の「移民政策」ではなく、ある所有者の財産から、別の所有者の財産へ移動するという個別の問題になるからです。
それでも、「移民する権利」は認めない
したがって、ホッペを逆に「本当はオープンボーダー論者なのだ」と読むのも正確ではありません。彼は、オープンボーダー論の根底に、「外国人にはその国へ移住する権利がある」という考えがあることを批判し、実際には、彼らにそのような権利は一切ない。と明言しています。
ホッペによれば、外国人がある土地へ入る権利を持つのは、
- その土地がまだ誰にも所有されていない場合
- その土地の所有者から招待された場合
- 売買・賃貸・通行契約などによって利用権を得た場合
です。
外国人であるから入る権利がないのではありません。他人が所有する土地には、外国人であれ国内住民であれ、所有者の同意なしに入る権利がないというのが、彼の財産権論です。
したがってホッペの立場は、国家が国境を無条件に開く「オープンボーダー」でもなく、現在の国民国家が国土の所有者として外国人を排除するという立場でもありません。理想としているのは、国家そのものをなくし、すべての土地を私有化し、その所有者それぞれが誰を招き、誰を排除するかを決める秩序です。
その意味で、ホッペの立場は、単純な「国境開放 vs 国境閉鎖」という二択には収まりません。
「公有地」は誰のものか
この議論が突き当たるのが、公有地の問題です。現在の国家では、道路、公園、港湾、空港、学校その他の公共施設や土地を、政府や地方自治体が広く所有・管理しています。
法律上は「国有地」「公有地」であっても、リバタリアンの財産権論から見ると、さらに別の問いが生じます。国家は、それらを本当に正当に所有しているのでしょうか。
国家の徴税や収用そのものを強制と考えるのであれば、税や収用によって取得・整備された財産の正当な所有者は、結局誰なのか。という問題が残ります。
ホッペ型の答え ― 納税者が正当な所有者である
ホッペは、公有財産を「国家が正当に所有している財産」とは考えません。国家は、課税や収用によって私人から資源を取得し、それを使って道路、公園、学校などを建設・維持してきた。したがって、それらの正当な所有者は国家ではなく、その費用を負担させられてきた国内の納税者である、と考えます。
2002年の「Natural Order, the State, and the Immigration Problem」でもホッペは、道路、公園、学校などは納税者によって資金を負担されたのだから、公有財産は最終的に納税者へ返還されるべきだと論じています。
この見方に立つと、現在の政府は公有財産の本当の所有者ではなく、せいぜい納税者の財産を管理している受託者のような存在です。
そこから移民問題について、次の議論が出てきます。公共の道路、港、空港、施設などを、政府が国外から来た人々に無条件で利用させれば、本来その財産について権利を持つ国内の納税者が望んでいない利用者まで、国家がその財産へ入れていることになるのではないか。ホッペは、これを「強制的統合」の問題として捉えます。
したがって、ホッペ型の移民制限論では、「外国人だから排除してよい」というより、「本来は私人に属する財産について、その所有者の意思を無視して国家が第三者へ利用を認めてよいのか」という形で問題が立てられます。
反対側の答え ― なぜ納税者に所有権が移るのか
しかし、この「納税者が公有財産の正当な所有者である」という考え方自体にも、リバタリアン内部から反論があります。国家が税金を不当に徴収したとしても、そこから直ちに、「その税金によって取得・整備された土地や施設を、納税者全体が共同所有している」と結論できるのでしょうか。
たとえば、国家がAさんから100万円を不当に徴収し、そのお金を使って、もともと誰のものでもなかった土地に道路を建設したとします。Aさんが国家に対して100万円の返還請求を持つことは認めるとしても、そこからAさんが、その道路そのものについて所有権を取得したことになるのか。これは別の問題です。
自由移民を擁護する一部のリバタリアンは、国家が正当な所有者ではない以上、公有地を国家の私有地のように扱い、「外国人には使わせない」と政府が決定する権利も当然には生じない、と反論します。
さらに、国内の納税者自身の意思も一つではありません。外国人を排除したい納税者もいれば、
- 外国人を雇いたい人
- 自分の家に招きたい人
- 部屋を貸したい人
- 商品やサービスを売りたい人
もいます。政府が国境を一律に閉じれば、今度はこうした国内所有者の意思を無視することになります。
つまり、「公有地は納税者のものだ」としても、「では、互いに意見の違う何百万人もの納税者の意思を、政府はどうやって一つの入国政策に変換するのか」という新たな問題が生じます。
「国家のもの」でも「納税者のもの」でもない、という考え方
さらに別の立場もあります。国家が不当に支配している財産だからといって、それが当然に納税者全体の共同所有になるわけではなく、正当な私人所有者が特定できない公有地については、未所有の財産として扱うべきだという考え方です。
この立場を代表する論者の一人が、Simon Guenzlです。
Guenzlは、公有地について国家には正当な所有権がないとしても、税を取られたという事実だけから納税者にその土地の権原が生じるわけではないと論じます。税を取られた人が持つのは、本来は奪われた財産についての返還請求であって、国家がその後どこかに作った道路や施設への共同所有権とは限らない、という批判です。
この考え方からは、公有地の少なくとも一部を、国家が違法に支配しているが、正当な私人所有者が確定していない財産として扱う可能性が出てきます。ただし、そこから自動的に、「したがって誰でも無制限に利用できる」という結論になるかについても、さらに論争があります。
つまり、公有地については少なくとも、
- ① 国家が正当な所有者である
- ② 納税者が正当な所有者である
- ③ 本来の私人所有者へ返還すべきである
- ④ 正当な所有者が特定できないものは未所有として扱うべきである
など、複数の考え方がありえます。そして、どの考え方を採るかによって、移民についての結論も変わってきます。
結局、移民問題より深い問いになる
このため、リバタリアンの移民論争は、「外国人を入れるべきか、入れないべきか」だけでは終わりません。その前に、
- 道路は誰のものなのか。
- 港や空港は誰のものなのか。
- 公園や学校は誰のものなのか。
- 国家にはそれらを利用させる人を選ぶ正当な権利があるのか。
- 納税者にはどのような所有権があるのか。
を答えなければなりません。
結局この対立は、「国家が所有・管理している公有財産を、リバタリアンの財産権論では本当は誰のものとして扱うべきなのか」という、移民問題よりさらに根本的な問いへ行き着きます。
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