論点 · 応用編Ⅰ

国境を開くべきか ― 移動の自由、財産権、福祉国家

外国から日本へ移り住みたい人がいる。その人を雇いたい会社があり、部屋を貸したい家主がいる。本人も、雇用主も、家主も合意しているとき、政府にはその契約を国境で止める権限があるのでしょうか。これは、移民の自由を擁護するリバタリアンが提起する重要な問いです。しかし、私有財産の考え方をさらに徹底すると、反対側からも問いが出てきます。「移動の自由」とは、他人の土地を自由に通り、所有者の同意なしに私有地や私的な契約共同体へ入る権利まで意味するのでしょうか。人には移動する自由がある。しかし同時に、土地や家の所有者には、誰を自分の財産へ入れるかを決める自由があります。この二つをどう両立させるのか。ここから、リバタリアン内部でも結論が分かれます。

In Short

3つの要点

  • まず5つを分けないと、議論が噛み合いません。入国、居住・就労、福祉、国籍、選挙権は、それぞれ別の問題です。「入国を認めること」は、「福祉給付・国籍・選挙権まですべて同時に認めること」を意味しません。逆に、福祉国家や国籍・選挙制度に問題があるとしても、それがどの程度まで入国・居住の制限を正当化するのかは、別に論証する必要があります。
  • 「オープンボーダー」は、他人の家へ勝手に入る権利ではありません。私有地に誰を入れるかは、原則として所有者が決めます。オープンボーダー論で争われているのは、私有地への不法侵入を認めるかどうかではなく、国家が引いた国境を越えて、受け入れる意思のある私人と契約することまで政府が禁止してよいのかという問題です。しかし反対側は、道路や土地まで私有化された社会を考えれば、そもそも「誰でも自由に入れる国境」という考え方自体が成り立たない、と反論します。
  • ロスバードは、移民についての自分の見解を後年、明確に再考しました。1970年刊行の『Power and Market』では、移民制限を政府による市場介入として批判し、国家には領土全体を自分の財産のように扱って人を排除する権利はなく、純粋な自由市場では個々の財産所有者だけが自分の土地から人を排除できると論じています。ところが1994年の「Nations by Consent」では、自ら「移民についての見解を再考し始めた」と書き、すべての土地が私有化された社会なら、移民は所有者から招かれ、土地を借りたり購入したりする許可がなければ入れないため、その社会は必ずしも「オープンボーダー」にはならないと論じました。したがって、これは単純な「若い頃は移民賛成、晩年は移民反対」という転向ではありません。「国家には人を排除する権利があるのか」という問いから、「完全な私有財産秩序では、誰が誰を招き入れる権利を持つのか」という問いへ、議論の重点が移ったと見るほうが正確です。
目次
01

まず、5つの問題を分ける

移民の議論が混乱する大きな理由の一つは、性質の異なる問題が「移民」という一語にまとめられていることです。少なくとも、次の5つは分けて考える必要があります。

何が問題になるのか
1 入国外国人が国境を越えてある国の領域へ入ることを、政府はどこまで制限できるか
2 居住・就労・契約外国人が国内に住み、国内の雇用主と雇用契約を結び、家主から部屋を借り、企業や個人と取引することを、政府はどこまで制限できるか
3 福祉・公共サービス移り住んだ人が、税や社会保険料などで運営される医療・教育・生活保障その他の公共サービスを、どのような条件で利用できるか
4 国籍長期に居住した外国人に、いつ、どのような条件でその国の国籍取得を認めるか
5 選挙権移り住んだ人に、政府の税・規制・支出などを決める政治的な権利を、いつ、どのような条件で認めるか

これらは、同じ問題ではありません。

「働きに来ることを認める」ことは、「その日からすべての福祉給付を受けられるようにする」ことを意味しません。

「長期に居住することを認める」ことも、「ただちに国籍や選挙権を与える」ことを意味しません。

逆方向にも同じことが言えます。福祉国家や選挙制度に問題があるとしても、そのことだけで直ちに、犯罪や権利侵害を目的としない人の入国や、受け入れる意思のある私人との契約まで禁止しなければならないとは限りません。

もちろん、福祉国家や公有財産、政治制度の存在が移民政策にどの程度影響すべきかについては、リバタリアンの間でも意見が分かれます。だからこそ、入国の問題なのか。民間契約の問題なのか。福祉の問題なのか。国籍の問題なのか。選挙権の問題なのか。を一つずつ分けて考える必要があります。

リバタリアン内部の移民論争を理解するには、まずこの分解から始める必要があります。

「オープンボーダー」は、他人の家へ自由に入る権利ではない

ここは、リバタリアンの移民論でも特に誤解されやすいところです。自由な移民を支持するリバタリアンも、通常、「外国人には、誰の家や土地にでも所有者の許可なく入る権利がある」とは主張していません。

私有地であれば、誰を入れるかは原則として所有者が決めます。家の所有者が、「あなたには入ってほしくない」と言えば、外国人であろうと日本人であろうと、そこへ勝手に入る権利はありません。

では、外国人本人と、日本国内の雇用主や家主が、「ここで働いてほしい」「この部屋を貸したい」「ここで暮らしたい」と互いに合意している場合はどうでしょうか。このとき問題になるのは、私有地への不法侵入ではありません。

国家が引いた国境を越えて、受け入れる意思のある私人と契約し、暮らすことまで、政府が法的に禁止・排除してよいのか。

自由移民を支持するリバタリアンは、ここで、政府は日本列島全体の所有者ではない。と考えます。私人が自分の家について「誰を入れるか」を決められることから、国家が領域全体について同じ権利を持つとは自動的には言えません。

一方、移民制限を財産権から擁護する側は、別の問いを出します。道路、港、空港、広場などを含め、すべての土地が私人や私的な団体によって所有されていたとしたら、外国から来た人は、所有者の許可なしにそれらを自由に通行できるのでしょうか。

ロスバードが晩年に移民問題を再考したのも、この点でした。完全に私有化された社会では、誰かの土地へ入るには、その所有者から招かれるか、通行・賃借・購入などについて同意を得なければなりません。その意味では、私有財産を徹底した社会が必ず「誰でも自由に入れる社会」になるとは限らない、とロスバードは論じました。

この考え方をさらに発展させたハンス=ヘルマン・ホッペなどは、自由な移民ではなく、財産所有者による「招かれた移民(invited immigration)」を重視します。すべての土地が私有されていれば、存在するのは抽象的な「移民する権利」ではなく、所有者が他人を自分の財産へ招き入れる自由と、招かない自由だという考え方です。

これに対して自由移民側は、それでも現在の国家は、国内の道路・港・土地を私人と同じ意味で正当に所有しているわけではない。と反論します。実際、リバタリアン内部では、公道や公有地について、国家のものなのか、納税者の共同財産なのか、正当な所有者が存在しないのか、将来は私人へ返還・私有化されるべきものなのか、という点からして意見が一致していません。この「公有地を本当は誰が所有しているのか」という違いが、オープンボーダーと移民制限の結論にも直接影響します。

したがって、リバタリアンの移民論争は単純な「国境があってよいか、悪いか」という対立ではありません。より根本にあるのは、次の問いです。

国家の国境は、私人の土地の境界線と同じ意味を持つのか。そして、現在「公有地」とされている道路・港・空港・土地について、誰に人を入れる権利、あるいは排除する権利があるのか。

以下では、この問いを、対立するリバタリアンの論拠とともに追っていきます。このページでは、研究所としてどちらが正しいかという結論は示しません。

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02

自由な移民を支持する立場

ミーゼス ― 移動の制限は、保護関税と同じ効果を持つ

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは、1927年の『自由主義(Liberalismus)』第3章「自由主義的な外交政策」第8節「移動の自由」で、移民の自由を明確に擁護しました。彼はこう書いています。

自由主義者は、すべての人が自分の望む場所に住む権利を持つことを要求する。

ミーゼスにとって、これは単なる理想ではありません。私有財産にもとづく社会では、人は自分が最もよいと思う場所で働き、所得を使うことができるべきであり、移動の自由はその自由主義的秩序の一部だと考えました。

そして、移民制限の経済的な効果を、保護関税と同じものとして説明します。生産条件が悪く賃金の低い地域から、生産条件がよく賃金の高い地域へ労働者が移動できれば、労働はより生産性の高い場所へ配置されます。しかし国家が移民を制限すると、生産条件の悪い地域には労働者が過剰に残り、生産条件のよい地域では労働者が不足します。その結果、

移動の自由を制限する効果は、保護関税の効果とまったく同じである。

とミーゼスは論じました。さらに彼は、

移民への障壁が人間の労働の生産性を低下させることには、いささかの疑いもない。

とまで述べています。

つまりミーゼスの論理は、自由貿易論とほぼ同じです。「外国の商品との競争を避けるため輸入を制限する」ことも、「外国の労働者との競争を避けるため移民を制限する」ことも、国内の特定集団を国外からの競争から保護するために国家の強制を使う政策だ、と考えるのです。

実際、彼はアメリカやオーストラリアの労働者が移民制限を求めることについて、それは世界の他の労働者だけでなく社会全体の利益を犠牲にして、自分たちのための特権を確保しようとするものだと批判しています。

それでも、ミーゼスは移民の政治的な難しさを無視しなかった

ただし、ミーゼスは移民について経済だけを見ていたわけではありません。彼は同じ節で、自由な移住が大規模に行われた場合、

  • 移民の同化が進まないのではないか
  • 既存住民が自国で少数派になるのではないか
  • 異なる言語・民族集団の間で政治的対立が生じるのではないか

という当時の懸念も詳しく検討しています。

そして、この恐怖を単なる幻想として退けてもいません。ミーゼスは、強い権力を持つ国家のもとでは、民族的少数派になることへの恐怖には現実的な理由があると認めます。国家が教育、行政、司法、経済活動などへ広範に介入できる社会では、多数派が国家権力を握ったとき、言語や民族を異にする少数派が差別や迫害を受ける可能性があるからです。

しかし、ここが重要です。ミーゼスは、この問題から、「だから移民を制限すべきだ」とは結論しませんでした。むしろ逆です。

彼は、移民問題が解決困難になる根本原因を、強大な介入国家そのものに求めました。国家が人々の生活へ広く介入し、多数派が国家権力を使って少数派を不利に扱えるからこそ、「外国人が増えて、自分たちが少数派になったらどうするのか」という恐怖が生まれる。

したがって彼の解決策は、国境を閉じることではなく、自由主義を徹底して国家が民族・言語集団を支配する力そのものを小さくすることでした。彼は、

介入国家や社会主義国家の理念に固執するかぎり、移民問題を解決することはできない。自由主義の綱領を採用して初めて、現在は解決不能に見える移民問題を完全に消滅させることができる。

という趣旨を述べています。そして、自由主義的に統治されたオーストラリアで、一部の地域では日本人が多数、一部ではイギリス人が多数だったとして、それがいったい何の問題になるのかと問いかけています。

したがって、ミーゼスを現代の具体的な「オープンボーダー政策」のすべてとそのまま同一視するのは慎重であるべきですが、少なくとも1927年の『自由主義』において、彼が完全な移動・移民の自由を自由主義の原則として明確に擁護していたことにはほとんど疑いがありません。

彼は移民に伴う民族的・政治的摩擦を認識していました。しかし、その解決を移民制限ではなく、国家権力の縮小と自由主義の徹底に求めたのです。

ヒューマー ― 止める側に、正当化の責任がある

コロラド大学の哲学者マイケル・ヒューマーは、2010年の論文「Is There a Right to Immigrate?」(『Social Theory and Practice』36巻3号)で、移民の自由を主として権利論から擁護しました。

ただし、彼の議論は、「人には絶対的な移民の権利があり、どんな場合にも入国を拒否してはならない」というものではありません。中心にあるのは、「有害な強制を受けない一応の権利(prima facie right to be free from harmful coercion)」という考え方です。

ヒューマーによれば、通常、人は、他人から重大な害を伴う強制を受けない権利を持っています。そして移民制限は、平和的に別の国へ移り住もうとしている人を、国家が物理的な強制によって阻止し、ときには強制的に国外へ退去させる制度です。しかも、それによって移住希望者が貧困や迫害から逃れたり、よりよい仕事や生活を得たりする機会を失うのであれば、その強制は重大な害を伴います。

したがってヒューマーは、移民制限は、少なくとも一応は、移住希望者の権利を侵害すると考えます。

ここから重要な帰結が出ます。

移民する側が「なぜ移住してよいのか」を証明するのではなく、移民を強制的に止める側が「なぜその強制が正当化されるのか」を示さなければならない。

つまり、正当化の責任が移民制限側へ移るというのが、ヒューマーの議論の出発点です。

「一応の権利」は、絶対的な権利ではない

ここで重要なのが、prima facie(一応の)という留保です。ヒューマー自身、ある行為が一応の権利侵害であるというだけでは、「その行為が最終的・総合的に見て不正である」ことまでは意味しないと説明しています。

たとえば、人を殺すことは通常は重大な権利侵害ですが、正当防衛のような特別な事情があれば許される場合があります。同じように、有害な強制も、

  • 他人への重大な危害を防ぐため
  • はるかに悪い結果を防ぐため
  • 本人が事前にその強制へ同意していた場合

などには正当化されることがありうる、とヒューマーは認めています。

したがって彼の議論は、「移民制限は常に絶対に不正である」というところから始まりません。まず、移民制限には重大な強制が含まれる。だから、それを行うには相応に強い理由が必要である。という推定から始めるのです。

テロリストや逃亡犯まで入国させるという議論ではない

ヒューマーは、議論の対象も最初から限定しています。国際的なテロリストや逃亡犯などについて、国家が少なくとも一部の移住希望者を排除する権利があることを疑う人はほとんどいない、としたうえで、それらを議論の対象から外します。

彼が問題にしているのは、犯罪を目的としているのではなく、新しい住まいや、よりよい生活を求めて移住しようとしている普通の人々です。

迫害や貧困から逃れようとする人、あるいは単に自分がより暮らしたいと思う社会へ移ろうとする人を、国家は強制的に止めてよいのか。これがヒューマーの問いです。

では、どの理由なら制限を正当化できるのか

ヒューマーは、移民制限を擁護する代表的な理由を一つずつ検討します。特に重要なのは次の四つです。

  • 1.国内労働者の仕事や賃金を守るため ― 移民との競争によって一部の国内労働者が不利益を受けるとしても、それは、移住希望者に重大な害を与える強制を正当化するほど強い理由ではない、とヒューマーは考えます。
  • 2.福祉や公共サービスの財政負担を防ぐため ― 仮に移民が財政的な純負担になるとしても、それなら福祉給付の条件を変えたり、費用を徴収したりすることを考えるべきであり、そこから直ちに「国そのものへ入ることを禁止してよい」とは導けない、と論じます。
  • 3.国家は自国民を外国人より優先する義務を持つから ― ヒューマーは、国家が自国民に特別な義務を持つこと自体は否定しません。しかし、「自分の家族を優先して助ける義務がある」ことから、「家族に小さな利益を与えるため他人へ重大な害を加えてよい」とはならないのと同じように、自国民への特別な義務も、外国人の基本的な権利を無視する許可にはならないと論じます。
  • 4.文化を守るため ― 文化を維持したいという利益があることも認めます。しかし、周囲の人々が別の宗教を信じたり、別の言語を話したりすることで文化が変わるとしても、その変化を止めるために平和的な人々へ強制力を使う権利が当然に生じるわけではない、と考えます。

ヒューマーは結論部分で、労働市場への影響、財政負担、自国民への特別な義務、文化の変化のいずれも、移民を強制的に排除するための十分な理由にはならないと整理しています。

ただし、「社会そのものが崩壊する」なら話は別

一方、ヒューマーが完全には退けなかった反論があります。大量の移民によって、社会そのものが事実上崩壊するのではないかという懸念です。

たとえば、

  • 政府の重要な制度が機能しなくなる
  • 深刻な民族間暴力が発生する
  • 自由民主主義そのものが崩壊する
  • 社会秩序が壊滅的な打撃を受ける

といった結果が本当に生じるのであれば、それほど重大な結果を防ぐためには、移住希望者の権利が上回られる可能性がある、とヒューマーは認めます。

つまり、「有害な強制は絶対に禁止される」わけではありません。他者の権利を制限することによって、はるかに重大な被害を防ぐことが本当に必要なら、その強制は正当化されうるというのが彼の立場です。

そのためヒューマーは、開かれた国境へ一度に移行するのではなく、段階的に移民を増やしていくことが賢明かもしれないとも認めています。たとえば移民数を徐々に増やし、深刻な社会的被害が現れるなら、その時点で増加を止めたり減らしたりするという方法です。

しかし同時に、ヒューマーは、この「社会崩壊」の懸念を、移民制限を正当化しうる論拠の中では唯一もっともらしいものとしながらも、最も投機的で疑わしい懸念でもあると評価しています。

したがって、彼の結論は、「どんな場合にも完全なオープンボーダーにしなければならない」というものではありません。より正確には、

平和的な人々の移住を強制的に妨げることには、重大な正当化が必要である。通常挙げられる経済・財政・文化上の理由では、その正当化には足りない。社会そのものの壊滅というほど重大な危険が本当に存在する場合に限って、移民制限が正当化される可能性がある。

という議論です。

ブロック ― 人・財・資本の移動を一体として扱う

ウォルター・ブロックは「A Libertarian Case for Free Immigration」(『Journal of Libertarian Studies』13巻2号、1998年、pp.167–186)で、自由な移民を明確に擁護しました。

彼の出発点は、人の移動だけを、財や資本の移動から特別扱いする理由はないというものです。

ブロックは論文冒頭で、

財、生産要素、貨幣、そして何より人の完全に自由な移動は、伝統的なリバタリアン思想の不可欠な一部である

と述べています。そして、関税や為替管理と同じように、移民への障壁もレッセフェール資本主義に対する重大な侵害だと論じました。

論理は、ミーゼスの自由移動論ともよく似ています。国家が、「外国の商品を買ってはいけない」と命令することが自由な交換への介入であるなら、外国人Aと国内の雇用主Bが互いに合意しているにもかかわらず、「Aを雇ってはいけない」と政府が命令することも、自発的な交換への介入ではないか。

同じことは、賃貸や売買についても言えます。外国人Aが日本へ来たい。国内の家主CがAに家を貸したい。当事者双方が望んでいるのであれば、国籍が違うという理由だけで、その契約を政府が禁止する権利はどこから生じるのか。これがブロックの基本的な問いです。

国際移動だけを特別扱いする理由はあるのか

ブロックはさらに、国内移動と国際移動を区別する理由そのものを問い直します。ある人が国内のA市からB市へ引っ越すことが、他人への侵害でないのであれば、その人が国境を越えて別の国へ移ることは、なぜ国境線をまたいだというだけで権利侵害になるのでしょうか。

彼は、国境を越える移民も、一国内での移住と同じ原理で考えるべきだと主張します。国家の国境線そのものが、私人の土地の境界線と同じ財産権を持っているわけではない、という考え方です。

ただし、「どこへでも移動する権利」があるわけではない

ここは重要です。ブロックは自由移民を非常に強く支持していますが、「人には好きな場所へ無条件に移動する権利がある」とは考えていません。

むしろ彼自身、人そのものに抽象的な「移動の自由」があるわけではなく、移民は受入国の財産所有者が自分の土地へ受け入れる意思を持っていることを必要とすると明記しています。

たとえば、外国人Aが日本へ来たいとしても、Aには他人の住宅や土地へ勝手に入る権利はありません。しかし、

  • Aを雇いたい雇用主がいる
  • Aに家を貸したい家主がいる
  • Aに商品やサービスを売りたい人がいる

のであれば、それらは合意した私人同士の取引です。

ブロックにとって、リバタリアンが守るべきなのは、「外国人がどこへでも入れる権利」ではなく、財産所有者が、自分の財産について誰を雇い、誰に貸し、誰と取引し、誰を招き入れるかを決める権利なのです。

したがって彼の自由移民論は、「移民する権利」だけからではなく、「国内の財産所有者が外国人と自由に契約する権利」からも導かれます。

1998年の『Journal of Libertarian Studies』は、移民論争の特集号だった

この論文が掲載された『Journal of Libertarian Studies』13巻2号(1998年夏号)は、移民問題を集中的に扱った号でした。ゲスト編集者はラルフ・ライコで、同じ号には、たとえば次のような互いに異なる立場の論文が掲載されています。

  • ジュリアン・サイモン「Are There Grounds for Limiting Immigration?」
  • ジョン・ホスパーズ「A Libertarian Argument Against Opening Borders」
  • ウォルター・ブロック「A Libertarian Case for Free Immigration」
  • ヘスース・ウエルタ・デ・ソト「A Libertarian Theory of Free Immigration」
  • ティボール・マチャン「Immigration Into a Free Society」
  • ゲイリー・ノース「The Sanctuary Society and its Enemies」
  • ハンス=ヘルマン・ホッペ「The Case for Free Trade and Restricted Immigration」

実際、ブロックが自由な移民を擁護する一方、ホッペは同じ号で自由貿易と移民制限は両立すると正面から論じています。

またウエルタ・デ・ソトは、リバタリアン思想が伝統的に完全な移住・移民の自由を支持してきたとしながら、福祉国家や公有財産が存在する現実では、国家による「強制的統合」の問題も生じるとして、無条件の単純なオープンボーダー論とは異なる議論を展開しました。

したがって、この1998年夏号そのものが、「リバタリアンなら当然オープンボーダーである」あるいは「財産権を重視するなら当然移民制限である」という単純な整理ができないことを示す、重要な記録になっています。

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03

私有財産から制限を導く立場

ところが、同じ私有財産の原理から、自由移民とは反対方向の結論も導かれます。中心にあるのは、次の問いです。

「自由に移動する権利」は、本当にそれ自体として存在する権利なのでしょうか。

移動できるのは、どこか

自宅に誰を入れるかは、その家の所有者が決めます。会社の敷地、私道、私有地の上に契約によって作られた共同体についても、基本的な考え方は同じです。したがって、「私には移動の自由があるから、あなたの家の中を通らせてもらう」とは言えません。

財産権を出発点にするなら、人が自由に移動できるのは、自分が所有する場所、所有者から利用を認められた場所、あるいは契約などによって通行・利用する権利を持つ場所です。

この考え方を移民問題へ徹底して適用した代表的な論者が、ハンス=ヘルマン・ホッペです。

ホッペは「Natural Order, the State, and the Immigration Problem」(『Journal of Libertarian Studies』16巻1号、2002年冬、pp.75–97)で、まず一つの思考実験を行います。

地球上のすべての土地が私有されている社会を考えるのです。家や建物だけではありません。道路、鉄道、港、空港、森林、河川、湖、海岸まで、すべてが私人や企業によって所有されており、「公有地」も、誰のものでもない「開かれた土地」も存在しないと仮定します。ホッペは、このような社会を「自然秩序(natural order)」と呼びます。

その社会では、抽象的な意味での「移動の自由」は存在しない、と彼は論じます。なぜなら、人がどこかへ移動するときには、必ず誰かの所有する土地を通ることになるからです。私有財産には、所有者が他人を「入れる権利」と「入れない権利」の両方が含まれます。

したがってホッペによれば、この完全私有社会では、人は原則として受け入れ側の財産所有者から招かれた場合に移動することができることになります。所有者は、自分の財産について定めた利用・滞在条件に従って、招待した人の滞在を認めたり、条件に反する場合には退去を求めたりすることができます。

つまり、ここで基本となるのは、「人にはどこへでも行く権利がある」ではなく、「財産所有者には、誰を自分の財産へ招き入れるかを決める権利がある」という原則です。

だからといって、人の移動がほとんどなくなるわけではない

ただし、ホッペの想定する完全私有社会は、人々が自分の土地に閉じこもり、ほとんど移動できない社会ではありません。むしろ彼は、道路、鉄道駅、港、空港などの所有者には、できるだけ多くの利用者を受け入れる強い経済的なインセンティブがあると考えます。人の移動そのものが彼らのビジネスだからです。

そのため、こうした所有者の利用条件は比較的緩く、通常は料金を支払うことなどが主な条件になるだろう、とホッペは予想しています。一方で、住宅地や私的な共同体などでは、所有者がより厳しい入居・利用条件を設定することもありえます。

つまり、ホッペの「自然秩序」では、「国境を国家が一律に開くか閉じるか」という一つの決定はありません。代わりに、無数の財産所有者が、それぞれ自分の財産について誰を受け入れるかを決めることになります。

国家が入ると、問題が変わる

ここからホッペは、現実の国家へ議論を移します。完全私有社会では、移動の可否は個々の所有者が決めます。しかし国家が成立すると、国境を越える人について、誰を入れ、誰を排除するかを、個々の財産所有者ではなく中央政府が決めるようになります。

ホッペは、ここから二つの問題が生じると考えます。

一つは「強制的排除(forced exclusion)」です。国内の家主や雇用主が外国人Aを、「私の家に住んでよい」「私の会社で働いてよい」と招いているにもかかわらず、国家が国境でAを排除する場合です。これは、本来ならAを受け入れたい国内所有者の財産権を、国家が妨げていることになります。

もう一つは「強制的統合(forced integration)」です。国内にAを受け入れたい財産所有者がいないにもかかわらず、国家がAを入国させ、公道・公有施設などを利用できるようにする場合です。

ホッペによれば、完全私有社会なら、前者も後者も起こりません。招待された人を国家が排除することもなければ、誰にも招待されていない人を国家が他人の財産へ押し込むこともないからです。

したがって、ホッペの問いは単純な「移民を増やすべきか、減らすべきか」ではありません。より根本にあるのは、次の問いです。

移動について決定する権利は、国家にあるのか。それとも個々の財産所有者にあるのか。

ホッペの議論の射程を、取り違えないこと

ここは慎重に読む必要があります。ホッペは、現在の国民国家や中央政府による国境管理を、それ自体として正当な制度だと考えているわけではありません。

彼の出発点は、あくまで私有財産です。理想的な「自然秩序」では、国家が国境で人を一律に入れたり排除したりするのではなく、それぞれの財産所有者が、自分の財産について誰を招き入れ、誰を排除するかを決めると考えます。

そのためホッペは、国家による強制を両方向から批判します。

国内の財産所有者が外国人を自分の土地へ招き、その人がそこへ移動する手配をしているにもかかわらず、政府がその人を国家領域から排除すれば、ホッペはこれを「強制的排除(forced exclusion)」と呼びます。逆に、国内の財産所有者から招待されていない人を政府が受け入れ、公道や公有施設などを利用できるようにすれば、それを「強制的統合(forced integration)」と呼びます。

ホッペ自身はこう整理しています。

国内の財産所有者がある人を招き、その人が所有者の財産へ行く手配をしているのに政府が国家領域から排除するなら、それは強制的排除である。逆に、国内の財産所有者から招待されていない人を政府が受け入れるなら、それは強制的統合である。

つまり、ホッペの理想では、国家が「開く」ことも、国家が「閉じる」ことも、本来の原則ではありません。決定するのは国家ではなく、個々の財産所有者です。

ただし、現実の国家のもとでは「より制限的な政策」も主張する

ここには、もう一段の注意が必要です。ホッペは、「国家は不正な制度なのだから、国家が存在するかぎり国境は無条件に開いておけばよい」とも考えません。

彼によれば、公道・公園・学校など現在の「公有財産」は、本当の意味で国家の所有物ではありません。それらは、税や収用によって国内住民から取り上げられた財産をもとに作られたものであり、ホッペは納税者である国内住民をその正当な所有者、政府をその受託者(trustee)とみなすべきだと論じます。

そして、国家自身が掲げる「国民とその財産を侵入者から守る」という正統性の根拠に従うのであれば、政府は私的なゲーテッド・コミュニティの門番のように、入国者に国内所有者からの招待があるかを確認し、その人が最終目的地へ移動する過程を管理すべきだと主張します。

したがって、ホッペは現実の国家に対して、現在より制限的・選別的な入国政策を採ることも要求しています。

しかし、彼はその直後に、「しかし、これは始まりにすぎない」と明記します。たとえ国家がより適切な入国政策を採ったとしても、国家と私有財産所有者との利益の対立そのものはなくならないからです。

ホッペにとって、国家そのものが問題である

ホッペの国家観は一貫して否定的です。彼は、

国家とは、言葉の上での矛盾である。財産を保護する者でありながら、立法と課税によって、保護する相手の財産を収奪することができる。

という趣旨を述べています。

したがって、移民政策だけを改善しても問題は解決しません。ホッペによれば、移民問題は、国家と「公有財産」が存在することから生じる、より一般的な問題の一部だからです。

さらに彼は、近代の大規模な人口移動についても、国家がその最も重要な原因、あるいは場合によっては唯一の原因であるとまで論じています。戦争、強制移住、追放、課税や介入による経済破壊などによって、一つの国家が大量の人々を外へ押し出し、別の国家が大量移民を受け入れることになる——というのが彼の説明です。

これは非常に強い主張ですが、ホッペの移民論を理解するうえでは重要です。彼にとって、大量移民の問題を作り出した国家に、「もっと上手に国境を管理してもらえば最終的に解決する」というのが答えではありません。

最終的な解決策は、分離独立と私有化

ホッペが最終的に提示するのは、中央国家による国境管理の完成ではありません。まず、中央集権的な国民国家を、州、地域、市、町、村へと分離独立させる。分離が進むごとに中央国家の支配領域は小さくなり、最終的には中央国家が消滅していくと考えます。

しかし、それだけでも十分ではありません。地方政府も、中央政府と同様、公道・公園・学校などを正当に所有しているわけではないからです。そこでさらに、公有財産を本来の私人所有者・所有者団体へ返還し、私有化する。

ここまで進んで初めて、誰を招き入れ、誰を排除するのかという決定権が、国家から個々の財産所有者へ戻るとホッペは考えます。

国家が消滅し、公有財産の私有化が完了すれば、現在の意味での「移民問題」そのものが消えます。国家単位の「移民政策」ではなく、ある所有者の財産から、別の所有者の財産へ移動するという個別の問題になるからです。

それでも、「移民する権利」は認めない

したがって、ホッペを逆に「本当はオープンボーダー論者なのだ」と読むのも正確ではありません。彼は、オープンボーダー論の根底に、「外国人にはその国へ移住する権利がある」という考えがあることを批判し、実際には、彼らにそのような権利は一切ない。と明言しています。

ホッペによれば、外国人がある土地へ入る権利を持つのは、

  • その土地がまだ誰にも所有されていない場合
  • その土地の所有者から招待された場合
  • 売買・賃貸・通行契約などによって利用権を得た場合

です。

外国人であるから入る権利がないのではありません。他人が所有する土地には、外国人であれ国内住民であれ、所有者の同意なしに入る権利がないというのが、彼の財産権論です。

したがってホッペの立場は、国家が国境を無条件に開く「オープンボーダー」でもなく、現在の国民国家が国土の所有者として外国人を排除するという立場でもありません。理想としているのは、国家そのものをなくし、すべての土地を私有化し、その所有者それぞれが誰を招き、誰を排除するかを決める秩序です。

その意味で、ホッペの立場は、単純な「国境開放 vs 国境閉鎖」という二択には収まりません。

「公有地」は誰のものか

この議論が突き当たるのが、公有地の問題です。現在の国家では、道路、公園、港湾、空港、学校その他の公共施設や土地を、政府や地方自治体が広く所有・管理しています。

法律上は「国有地」「公有地」であっても、リバタリアンの財産権論から見ると、さらに別の問いが生じます。国家は、それらを本当に正当に所有しているのでしょうか。

国家の徴税や収用そのものを強制と考えるのであれば、税や収用によって取得・整備された財産の正当な所有者は、結局誰なのか。という問題が残ります。

ホッペ型の答え ― 納税者が正当な所有者である

ホッペは、公有財産を「国家が正当に所有している財産」とは考えません。国家は、課税や収用によって私人から資源を取得し、それを使って道路、公園、学校などを建設・維持してきた。したがって、それらの正当な所有者は国家ではなく、その費用を負担させられてきた国内の納税者である、と考えます。

2002年の「Natural Order, the State, and the Immigration Problem」でもホッペは、道路、公園、学校などは納税者によって資金を負担されたのだから、公有財産は最終的に納税者へ返還されるべきだと論じています。

この見方に立つと、現在の政府は公有財産の本当の所有者ではなく、せいぜい納税者の財産を管理している受託者のような存在です。

そこから移民問題について、次の議論が出てきます。公共の道路、港、空港、施設などを、政府が国外から来た人々に無条件で利用させれば、本来その財産について権利を持つ国内の納税者が望んでいない利用者まで、国家がその財産へ入れていることになるのではないか。ホッペは、これを「強制的統合」の問題として捉えます。

したがって、ホッペ型の移民制限論では、「外国人だから排除してよい」というより、「本来は私人に属する財産について、その所有者の意思を無視して国家が第三者へ利用を認めてよいのか」という形で問題が立てられます。

反対側の答え ― なぜ納税者に所有権が移るのか

しかし、この「納税者が公有財産の正当な所有者である」という考え方自体にも、リバタリアン内部から反論があります。国家が税金を不当に徴収したとしても、そこから直ちに、「その税金によって取得・整備された土地や施設を、納税者全体が共同所有している」と結論できるのでしょうか。

たとえば、国家がAさんから100万円を不当に徴収し、そのお金を使って、もともと誰のものでもなかった土地に道路を建設したとします。Aさんが国家に対して100万円の返還請求を持つことは認めるとしても、そこからAさんが、その道路そのものについて所有権を取得したことになるのか。これは別の問題です。

自由移民を擁護する一部のリバタリアンは、国家が正当な所有者ではない以上、公有地を国家の私有地のように扱い、「外国人には使わせない」と政府が決定する権利も当然には生じない、と反論します。

さらに、国内の納税者自身の意思も一つではありません。外国人を排除したい納税者もいれば、

  • 外国人を雇いたい人
  • 自分の家に招きたい人
  • 部屋を貸したい人
  • 商品やサービスを売りたい人

もいます。政府が国境を一律に閉じれば、今度はこうした国内所有者の意思を無視することになります。

つまり、「公有地は納税者のものだ」としても、「では、互いに意見の違う何百万人もの納税者の意思を、政府はどうやって一つの入国政策に変換するのか」という新たな問題が生じます。

「国家のもの」でも「納税者のもの」でもない、という考え方

さらに別の立場もあります。国家が不当に支配している財産だからといって、それが当然に納税者全体の共同所有になるわけではなく、正当な私人所有者が特定できない公有地については、未所有の財産として扱うべきだという考え方です。

この立場を代表する論者の一人が、Simon Guenzlです。

Guenzlは、公有地について国家には正当な所有権がないとしても、税を取られたという事実だけから納税者にその土地の権原が生じるわけではないと論じます。税を取られた人が持つのは、本来は奪われた財産についての返還請求であって、国家がその後どこかに作った道路や施設への共同所有権とは限らない、という批判です。

この考え方からは、公有地の少なくとも一部を、国家が違法に支配しているが、正当な私人所有者が確定していない財産として扱う可能性が出てきます。ただし、そこから自動的に、「したがって誰でも無制限に利用できる」という結論になるかについても、さらに論争があります。

つまり、公有地については少なくとも、

  • ① 国家が正当な所有者である
  • ② 納税者が正当な所有者である
  • ③ 本来の私人所有者へ返還すべきである
  • ④ 正当な所有者が特定できないものは未所有として扱うべきである

など、複数の考え方がありえます。そして、どの考え方を採るかによって、移民についての結論も変わってきます。

結局、移民問題より深い問いになる

このため、リバタリアンの移民論争は、「外国人を入れるべきか、入れないべきか」だけでは終わりません。その前に、

  • 道路は誰のものなのか。
  • 港や空港は誰のものなのか。
  • 公園や学校は誰のものなのか。
  • 国家にはそれらを利用させる人を選ぶ正当な権利があるのか。
  • 納税者にはどのような所有権があるのか。

を答えなければなりません。

結局この対立は、「国家が所有・管理している公有財産を、リバタリアンの財産権論では本当は誰のものとして扱うべきなのか」という、移民問題よりさらに根本的な問いへ行き着きます。

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04

福祉国家があるとどうなるのか

リバタリアンの移民論争で、最も大きな現実的争点の一つが福祉国家です。

移り住んだ人が、家を借り、働き、自分の生活費を自分で負担するだけなら、基本的には本人と雇用主、家主、取引相手などの自発的な契約の問題として考えることができます。

しかし現実の国家では、医療、教育、住宅支援、所得保障、年金などが、税や社会保険料などによって提供・運営されています。その場合、移住は移民本人と受入れ側の私人だけの問題ではなく、税や社会保険料を負担する他の住民にも影響しうることになります。

ここから、次の別の問題が生じます。

自由な移民と福祉国家は両立するのか。

フリードマンの問題提起

ミルトン・フリードマンは、亡くなる年の2006年に『ウォール・ストリート・ジャーナル』のインタビューを受け、移民について次のように語っています。

原理的には、完全に開かれた移民であるべきだ。しかし福祉国家のもとでは、実際にはそれは不可能だ。

そして、

福祉国家がなければ、開かれた移民が可能になる。なぜなら、各人が自分自身に責任を負うからだ。

と続けています。

インタビュアーから、「移民制度を改革するには、福祉制度も改革しなければならないということか」と尋ねられると、フリードマンはそこを区別しました。移民制度そのものの改革はできる。しかし、福祉を大幅に廃止しないかぎり、開かれた移民は実現できない。というのが彼の答えでした。

さらに彼は、「現時点では、私は無制限の移民(unlimited immigration)に反対している」とも述べています。

ここは重要です。フリードマンが原理として否定したのは移民そのものではありません。むしろ同じインタビューで、移民はアメリカの基本的な理念の一部であり、移民がなければアメリカという国そのものが存在しなかったという趣旨を述べています。

つまり彼の立場は、「移民は悪いから制限すべきだ」ではありません。むしろ、「原理的には自由な移民が望ましい。しかし、福祉国家が存在する現実では、無制限に人を受け入れれば、移民と自発的に契約したわけではない納税者にも費用を負担させる可能性がある」という問題提起です。

ここには、二つの別の問いがある

ただし、この問題はさらに分けて考える必要があります。

一つは、移民に福祉給付や公的サービスを、どのような条件で認めるべきか。という問いです。もう一つは、福祉国家が存在するという理由で、移民そのものを制限してよいのか。という問いです。

この二つは同じではありません。

たとえば理論上は、入国・就労は自由にするが、一定期間は特定の福祉給付の対象外にするという制度も考えられます。逆に、移民にも国内住民と同じ福祉を認める以上、入国人数を制限するという制度も考えられます。さらに、そもそも福祉国家そのものを縮小・廃止し、移民も自由化するというのが、フリードマンの原理的な方向に最も近い考え方です。

したがって、「福祉国家と完全に自由な移民は両立しにくい」という主張を認めたとしても、そこから直ちに、「だから移民を禁止・制限するしかない」という結論が出るわけではありません。福祉制度の側を変えるという選択肢もあるからです。

ここでも重要なのは、

  • 移民の自由をどうするのか。
  • 福祉へのアクセスをどうするのか。
  • 福祉国家そのものをどうするのか。

という三つを分けて考えることです。

自由な移民を支持する側の反論

福祉国家に問題があるなら、改革すべきなのは福祉国家のほうであって、平和的な移民そのものを制限する理由にはならない、という反論があります。

たとえば、ある制度が結婚した人に税制上の優遇や給付を与えているとして、「給付対象が増えるから結婚を禁止しよう」とは普通は考えません。同じように、移民によって福祉制度の負担が増える可能性があるなら、受給条件を見直すなど、問題に直接対応する政策を選ぶべきで、移民そのものを一律に制限するという広すぎる手段を使う必要はない、という考え方です。

これは、リバタリアンの政策論とも親和性の高い、「問題そのものをできるだけ直接ねらい、必要以上に自由を制限しない」という発想です。

このような発想は「キーホール・ソリューション(keyhole solutions)」と呼ばれることがあります。もともとは経済学者ティム・ハーフォードが原著『The Undercover Economist』(2005年。邦訳『まっとうな経済学』、遠藤真美訳、ランダムハウス講談社、2006年)で示した「鍵穴手術」の比喩に由来します。大きく切開せず、必要な部分だけを処置するように、政策も問題の対象を絞り、できるだけ限定された手段で対応すべきだ、という考え方です。

ブライアン・カプランはこれを移民政策に応用し、著書『Open Borders』(2019年。邦訳『国境を開こう! 移民の倫理と経済学』御立英史訳、あけび書房、2022年)の第6章を「キーホール・ソリューション」に充てています。たとえば、移民による福祉国家への負担が問題なら受給資格を制限する、低技能労働者への悪影響が心配なら移民に入国料や追加税を課し、その収入を不利益を受ける人への補償に充てる、といった案です。

つまり、移民そのものを止めるのではなく、心配されている個別の問題を直接ねらうという方向です。カプランにとって、これらは必ずしも理想的な制度ではなく、移民を一律に制限するよりも自由への制約が小さい妥協策として提示されています。

ウエルタ・デ・ソトの条件付き自由移民論

オーストリア学派の経済学者ヘスース・ウエルタ・デ・ソトは、「A Libertarian Theory of Free Immigration」(『Journal of Libertarian Studies』13巻2号、1998年、pp.187–197)で、現行制度のもとでの暫定的な自由移民論を示しました。

彼は原則として、国家が当事者間の自発的な移住や契約を妨げることを、リバタリアンの原理に反すると考えます。同時に、福祉国家と公有地が存在する現在の制度のもとで、移民が国家の再分配制度や公有資源によって補助されることにも反対します。

そこで彼が挙げるのが、次の4つの原則です。

  • 移民は自己責任で移住すべきであり、福祉国家の給付などによる補助を受けないこと
  • 自活手段があることを証明できること。雇用契約、一定額の資金の預託、民間の個人や組織による生活の保証などによって、自ら生活できることを示す
  • 政治的な投票権を早期に付与しないこと。完全な市民権と投票権の付与は、十分な期間を経て、受入社会に十分に定着した後に検討すべきだとする
  • 受入社会の法、とくに刑法を遵守し、確立された財産権を厳格に尊重すること。財産権を侵害した場合には、通常の刑罰に加えて、国外退去も科されるべきだとする

整理すれば、こうです。

人の移動や自発的な契約は原則として自由にする。しかし、移住する自由から、税による給付や政治的権利までが直ちに導かれるとは考えない。

ここで落としてはいけない点があります。ウエルタ・デ・ソト自身は、この4原則を、現在の介入主義的な国家が存在する状況における実務的・暫定的な指針として提示しています。

これらの措置によって現在の問題がすべて解決するとは考えていません。彼によれば、最終的な解決は、現在の国家がより小さな政治単位へと分解され、公有財産が完全に民営化されるまで訪れません。

この案に対しては、もちろん別の問いも生じます。税を払っているのに福祉給付を受けられないのは不公平ではないか。長期間暮らしている人の投票権を制限してよいのか。

前者についてウエルタ・デ・ソトは、移民が受け取る給付以上の税や社会保険料を負担しているのであれば、むしろ移民を公的制度から離脱できるようにし、医療や年金を民間で契約できるようにすべきだと答えます。

それでも、福祉国家や公有地、民主的な投票制度を前提とするかぎり、移動の自由と、再分配や政治参加をどのように両立させるかという難しい問題は残ります。

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05

治安と文化 ― 例外はどこまで認められるのか

治安・安全保障

移動の自由を認めるとして、誰でも無条件に入国できなければならないのでしょうか。

この点では、自由な移民を支持する論者のなかにも例外を認める人がいます。第2節で見たとおり、ヒューマーは、国際テロリストや逃亡犯については国家が入国を拒否できるとし、こうした人々を自らの自由移民論の対象から外しています。他者の権利を侵害する具体的かつ重大な危険がある場合に、一定の強制を認めることそれ自体は、リバタリアンの原理と必ずしも矛盾しません。

本当の争点は、その手前にあります。

制限を支持する側——政府の役割として安全保障を認めるなら、危険人物が入国してから対応するだけでは遅く、国境で身元や安全上の危険を審査し、一定の場合に入国を拒否することは、正当な予防措置ではないか、と考えます。

自由な移民を支持する側——危険人物を個別に排除することと、広い範囲の人々の移住を制限することは別だ、と反論します。具体的な犯罪行為や危険を示す証拠ではなく、国籍や宗教、出身地域といった集団属性だけを根拠に危険性を推測し、多数の人を一括して排除すれば、実際には危険のない人々の自由まで強制的に制限することになります。

したがって、対立は「安全保障のためなら国境を閉じてよい」対「自由なのだから国境で審査してはいけない」ではありません。

何を根拠として危険人物と判断するのか。その危険はどれほど具体的でなければならないのか。そして、その危険に対して、どこまで限定された手段を使うのか。

これは、刑事司法における予防的な自由の制約とも似た構造をもつ問題です。

危険がどの程度具体的であれば、まだ他人の権利を侵害していない人の自由を制限できるのか。

自由な移民をめぐる安全保障の論争は、最終的にはこの問いに行き着きます。

政治と文化

もう一つの論点が、政治と文化です。

まず押さえておくべきなのは、「居住する自由」と「政治的な意思決定に参加する権利」は、区別して考えることができるという点です。外国人が働き、家を借り、商品を買うことと、税率や福祉制度、規制を決める選挙に参加することは、同じ問題ではありません。だからこそ第1節では、これらを分けて考えました。

文化については、より難しい問題があります。言語、宗教、生活習慣、社会規範は、政府だけでなく、そこで暮らす人々の行動によって形づくられます。大規模な移住によって文化が変わる可能性はあります。

では既存の住民には、自分たちの文化を変えたくないという理由で、外国人の入国を強制的に止める権利があるのでしょうか。

ヒューマーはこれに否定的です。彼は、既存住民が自分たちの文化を維持したいという強い利益を持つこと自体は認めます。しかし、自分の周囲の人が別の言語を話したり、異なる宗教を信じたりするようになることを好まないとしても、文化を維持したいという利益だけでは、平和的な他人を強制的に排除する十分な理由にはならないと論じています。

一方、晩年のロスバードは、リバタリアンが「個人」と「国家」だけに注目しすぎてきたとして、それとは別に、ネイション——言語・民族・宗教・歴史などによって形成される共同体——も現実に存在する重要な単位であると改めて強調しました。さらに、大規模な移住が既存の文化や言語を変える可能性も、移民問題を考えるうえで無視できないと考えるようになります。

ただしロスバードは、文化を守るという目的だけから、国家に移民を制限する権利を与えるという単純な議論をしたわけではありません。彼が最終的に重視したのは私有財産権でした。土地や道路まで完全に私有化された社会であれば、誰がそこに入り、住むことができるかは、それぞれの所有者の同意によって決まると考えました。

ミーゼスも、移民障壁を経済的には強く批判し、移動の自由を支持しました。その一方で、異なる言語や文化をもつ集団が一つの国家権力のもとに置かれたとき、行政、教育、裁判などを誰が支配するかをめぐって深刻な政治的対立が生じうることにも注意を払っていました。

しかし、ミーゼスがその解決策として重視したのは、移民を止めることよりも、国家権力を小さくし、自己決定や政治的な分離を認めることでした。国家が人々の生活に深く介入するほど、「どの集団が国家を支配するか」が重要になり、民族や言語をめぐる対立も激しくなると考えたからです。

ここで、一つ重要な区別があります。

文化や共同体の継続に価値があることと、それを守るために平和的な他人へ国家の強制を使ってよいことは、同じではありません。

したがって、リバタリアン内部で問われるのは、単に「文化を重視するか、個人を重視するか」ではありません。

自由を支える文化や共同体をどこまで重視すべきなのか。そして、それを重視するとしても、どこまでが自発的な社会の働きによるべきで、どこから国家による強制が許されるのか。

この問いは、パレオリバタリアニズムとも関係します。また、文化や社会規範をリバタリアニズムの一部としてどこまで考えるべきかという意味では、「厚い/薄いリバタリアニズム」の論争にもつながっています。

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06

ロスバードはなぜ立場を変えたのか

移民論争を理解するうえで、マレー・ロスバード自身の立場の変化ほど示唆に富むものはありません。

初期 ― 移民制限は、労働市場への介入である

1970年の『Power and Market』で、ロスバードは移民制限を「三角介入」——政府が私人どうしの自発的な交換に介入する類型——の一つとして論じました。構成上も、「関税」の項の直後に「移民制限」の項が置かれています。

労働者もまた、移民制限という形で地理的な寡占特権の付与(geographical grants of oligopoly)を求めることがある。

ロスバードによれば、自由市場では、同じ価値を生む労働に対する賃金率は、世界的に均等化する方向へ向かいます。その調整は、企業が高賃金地域から低賃金地域へ移ることと、労働者が低賃金地域から高賃金地域へ移ることの両方によって起きます。

移民制限とは、この労働者の移動を妨げることで、その地域の住民の賃金を高く維持しようとする試みだ——というのが、この時期のロスバードの議論です。

移民が制限されれば、その地域の労働供給は少なくなり、既存の労働者、とりわけ移民と直接競争するはずだった労働者は高い賃金を得やすくなります。しかし、その利益は、より高い賃金の仕事を求めて移住することを禁じられた外国人労働者の犠牲によって得られます。

商品の輸入を制限する関税が国内企業を外国企業との競争から保護するのと同じように、移民規制は国内労働者を外国人労働者との競争から保護し、地理的な寡占的特権を与えることになります。

これは、ミーゼスに近い、自由市場の観点からの自由移民論です。

晩年 ― 完全私有化の世界から考え直す

ところが1994年の論文「Nations by Consent: Decomposing the Nation-State」(『Journal of Libertarian Studies』11巻1号)で、ロスバードは、自分の従来の移民観を再考し始めたと明言します。

私は移民についての自分の見解を再考し始めた。ソ連が崩壊したとき、民族的ロシア人がエストニアとラトビアへ大量に流入するよう奨励され、それによってこれらの人々の文化と言語を破壊しようとしていたことが明らかになったからである。

そして——

しかし、アナルコ・キャピタリズムのモデルにもとづいて移民を考え直してみると、完全に私有化された国には「開かれた国境」などまったく存在しないことが明らかになった。

この時期のロスバードが移民問題を考えるうえで重視するようになったのは、福祉国家、公有地、国家による人口移動、文化的共同体、そして何よりも、「完全な私有財産社会なら、誰が誰を自分の土地に受け入れるのか」という問題でした。

完全に私有化された社会では、すべての土地、道路、地域が誰かの所有物です。したがってロスバードによれば、移住者は、招き入れられ、かつ、その土地や建物を賃借または購入することを認められなければ入ることができません。

ここは正確に読む必要があります。単に誰かから招待されればよい、というだけではありません。招待に加えて、財産を賃借または購入することを所有者から認められる必要がある、としています。

ただし、これは「すべての地域を閉鎖すべきだ」という意味でもありません。ロスバードの完全私有化社会では、誰を受け入れるかは、それぞれの財産所有者や共同体が決めます。非常に開放的な地域もあれば、閉鎖的な地域もあり、民族的・文化的に多様な共同体もあれば、均質な共同体もありえます。

つまりロスバードは、「国家は国境を開くべきか、閉じるべきか」という問題そのものを、私有財産権にもとづいて考え直したのです。

これは「転向」なのか

ロスバードの変化を、単純に「若い頃は移民賛成、晩年は移民反対になった」と整理するだけでは、重要な部分を見落とします。

たしかに、ロスバード自身が「移民についての自分の見解を再考し始めた」と書いている以上、その立場に変化があったことは明らかです。しかし、その変化を理解するためには、結論だけでなく、何を問題として考えるかという問いの設定そのものが変わったことを見る必要があります。

時期注目した問い
1970年政府が人の移動と自発的な契約を妨げることは正当か
1994年私有財産を基準にしたとき、人の移動には誰の同意が必要なのか

初期のロスバードは、移民制限を主として労働市場への政府介入として分析しました。一方、晩年には、完全に私有化された社会を思考上の基準に置き、道路や土地を含めてすべてが誰かの所有物であれば、人の移動はそれぞれの所有者の同意によって決まるはずだ、と考えます。

そのうえで、公有地や福祉国家が存在する現実の社会をどう扱うべきかを問い直しました。

したがって、これは単純な「自由移民から移民規制への転向」と見るだけでは不十分です。むしろ、「国家は国境を開くべきか、閉じるべきか」という問いから、「誰の財産に、誰の同意で入るのか」という問いへ分析の中心を移したと見ると、その変化をより正確に捉えることができます。

なお、ロスバードが移民観を再検討するきっかけとして挙げたバルト諸国についての歴史的評価そのものは、ここでは扱いません。ロスバードがそのように認識し、それを自らの移民観を再検討する契機として書いた——という範囲に限って紹介しています。

そして重要なのは、これによってリバタリアン内部の論争が決着したわけではないことです。

ウォルター・ブロックのように、同じく無政府資本主義と私有財産権を基礎にしながら、自由な移民を擁護した論者もいます。ブロックも、他人の土地へ自由に侵入できる権利を認めているわけではありません。受け入れる意思のある所有者の私有地へ移動するのであれば、国家がそれを妨げるべきではない、と考えます。

つまり、無政府資本主義や私有財産権を採用すれば、移民問題の答えが自動的に一つに決まるわけではありません。

純粋な私有財産社会についての原則には共通点があっても、公有地と国家が存在する現実社会に、その原則をどのように適用するのかをめぐって、リバタリアンの結論は分かれます。

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07

結論が分かれる5つの難問

1 ― 雇用主も家主も歓迎しているのに、政府が止めてよいか

外国人Aを雇いたい企業があり、Aに家を貸したい所有者がいて、A自身もそこへ移り住みたい。しかし、周囲の住民の多くは移民の増加に反対している。

自由な移民を支持する側——契約の当事者は全員合意している。周囲の人々が労働市場での競争や文化の変化を好まないという理由だけで、第三者の平和的な契約を政府が止めることはできない。

制限を支持する側——しかし、Aが利用するのは雇用主と家主の私有財産だけではない。現実には、公道、港、その他の公有財産を利用しなければ、目的地まで到達することも難しい。これらが税金によって維持されている以上、その利用条件を個々の雇用主や家主の意思だけで決めてよいのか、という問題が残る。

ここで争われているのは、単に「移民に賛成か反対か」ではありません。

公有財産は誰のものなのか。そして、そこへのアクセスを誰が決めるべきなのか。

公有財産を納税者の共同財産に近いものと考えるのか、それとも国家にはそもそも正当な所有権がない以上、平和的な人の移動を妨げる根拠にはならないと考えるのかによって、リバタリアンの結論も分かれます。

2 ― 税を払うのに、福祉から排除してよいか

移住者Bは働き、所得税や消費税などを負担している。しかし「移民は自己責任で」という原則から、一部の公的給付を受けることは認められていない。

条件付き自由移民の側——福祉を受けられることと、移住する自由を結びつける必要はない。むしろ、給付から移民を排除するだけでなく、税や公的社会保障への強制加入そのものも縮小し、医療や年金などを個人が民間で備えられる方向へ移るべきだ。

反論——しかし、同じように納税を求めながら、外国人であることを理由に公的給付から一律に排除するなら、国家が移民を財政的に利用することにならないか。

この批判に対しては、さらに、給付を受けないのであれば、その給付を賄うための負担からも可能な限り外すべきだ、という応答が可能です。

こうして考えると、この問題は移民政策だけにとどまりません。

税を負担することと、公的給付を受けることは、どこまで結びついているべきなのか。

移民をめぐる論争は、福祉国家における税と給付の関係そのものを問い直すことになります。

3 ― 移住する自由と、市民権・選挙権はどこまで分けられるか

Cさんは何十年も同じ国に住み、働き、税を払い、子どもをそこで育てている。しかし外国籍のままで、選挙権はない。

ここでまず区別すべきなのは、長く住んでいることと、その国の市民になることは同じではないという点です。

参政権を分離する立場——移動・居住の自由と、政治的な意思決定に参加する権利は別である。自由な移民を認めるからといって、外国籍のままの人に選挙権まで自動的に付与する必要はない。政治に正式に参加したいのであれば、帰化によってその国の市民になるという道を選ぶことができる。

また、税を払っていることから選挙権が直ちに導かれるわけでもありません。外国人旅行者や外国企業もさまざまな税を負担しますが、それだけで選挙権を持つわけではありません。逆に、納税額が少ない市民にも選挙権があります。現在の民主主義制度でも、納税と参政権は一対一に対応しているわけではありません。

そう考えると、本当に難しい問題は別のところにあります。

その社会の正式な政治的構成員になりたい人に対して、帰化の道が公平かつ現実的に開かれているか。

十分な期間その社会で暮らし、法を守り、正式な市民になる意思を示した人に対しても、帰化条件が極端に厳しかったり、民族や出身などを理由に事実上市民権の取得が閉ざされていたりするなら、別の問題が生じます。

反論——外国籍のままでいることを本人が選んでいるのであれば、選挙権がないこと自体は必ずしも不当とはいえない。しかし、その社会の一員になることを望んでいる人に、市民権を取得する合理的な道さえ認めないのであれば、政府の法律や税に長期間服する人を政治共同体から永続的に排除することにならないか。

したがって、ここで問われるべきなのは、単に「長期居住外国人に選挙権を与えるべきか」ではありません。

誰が政治共同体の正式な構成員になれるのか。そのための帰化条件を、どこまで厳しくしてよいのか。そして、市民権と選挙権を移住・居住の自由からどこまで切り離すことができるのか。

これは、自由な移民を認めた社会における市民権と政治参加の境界を問う問題です。

4 ― 外国政府が意図的に人を移動させたらどうするか

通常の移民は、一人ひとりが仕事や生活を求めて自発的に移動します。しかし、外国政府が政治的な目的で人口移動を誘導・組織した場合はどうでしょうか。

ロスバードが晩年に移民問題を考え直したきっかけとして挙げたのが、まさにこの型の問題でした。

個人として見れば、移住者一人ひとりが暴力や権利侵害を行っているとは限りません。一方で、国家の側から見れば、人口移動が政治的な目的を達成するための政策手段として利用される可能性があります。

では、国家による人口政策に対抗する必要があるとして、そのために、犯罪や権利侵害を行っていない個々の移住者の自由まで制限してよいのでしょうか。

ここでは、同じ現象が二つの異なる角度から見えます。

  • 一人ひとりを見れば、平和的に移住しようとする個人。
  • 全体を見れば、外国政府が利用している人口政策かもしれない。

この二つを、リバタリアンはどのように両立させるべきなのか。

国家が関与したという理由だけで個人を一括して排除すれば、無実の人への強制になりえます。しかし、すべてを純粋な個人の移動として扱えば、国家が人口移動を政治的な手段として利用する可能性を無視することにもなります。

国家による行為への対抗と、個々人の権利の尊重をどこで両立させるのか。

これも、自由な移民をめぐって簡単には答えの出ない問題です。

5 ― すべての土地が私有地なら、本当に問題は解決するか

リバタリアンが想定する完全な私有財産社会を考えてみましょう。道路も港も住宅も土地も、すべて誰かの所有物です。人は、所有者が立入りを認めた土地や道路だけを利用できます。

そうなれば、「国家が国境を開くべきか、閉じるべきか」という現在の移民問題そのものは消える——かもしれません。

誰を受け入れるかは国家が一律に決めるのではなく、それぞれの財産所有者が決めるからです。実際、ロスバードは、完全私有化された社会では、開放的な地域もあれば閉鎖的な地域もあり、文化的・民族的に多様な共同体もあれば、均質な共同体も生まれうると考えました。

しかし、それですべての問題が解決するわけではありません。

たとえば、巨大な土地所有者や契約共同体が、特定の人種、宗教、国籍などを理由に、ある人々を広い地域から排除した場合はどうでしょうか。

ここでは、二つの問いを分ける必要があります。

第一に、それは権利侵害なのか。

厳格な財産権論からすれば、「政府が特定の人々を国土から排除すること」と、「私人が自分の財産に誰を入れるかを決めること」は同じではありません。所有者には、自分の土地を誰に貸し、売り、利用させるかを決める権利がある、と考えるからです。

第二に、権利侵害でなければ、リバタリアンはそれを問題にする必要がないのか。

私人による差別を政府が強制的に禁止すべきではないとしても、その差別を道徳的に批判したり、取引を拒否したり、別の開放的な共同体をつくったりすることはできます。

つまり、「禁止する権限が政府にあるか」という問いと、「その行為が望ましいか」という問いは別です。

完全私有化によって、「国家が誰を国境から排除するか」という問題は大きく姿を変えます。しかし、人々が誰と暮らし、誰と取引し、誰を自分たちの共同体に受け入れるのかという問題までなくなるわけではありません。

この問いは、移民論争が最終的には、財産権、結社の自由、私人による差別、契約共同体の自治をどのように考えるかという、より根本的な問題につながっていることを示しています。

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08

何が共通し、どこで分かれるのか

ここまでの議論を整理してみましょう。

ただし、以下は互いに完全に排他的な分類ではありません。同じ論者でも、理想的な私有財産社会についての原則と、国家や福祉制度が存在する現在の社会で採るべき政策とでは、異なる議論をすることがあります。

立場中心となる原理国境・移住福祉参政権
原則的な自由移民論移動・契約の自由平和的な移動を国家が原則として妨げるべきではない福祉制度の問題は福祉制度の側で解決する移住とは別問題として考える
私有財産・招待型所有者が誰を自分の財産へ入れるかを決める国家による無条件の開放ではなく、所有者の同意にもとづく移住を重視する第三者への強制的な費用負担に反対自動的な付与には慎重
現行国家下の条件付き自由移民論自発的な移動と、国家給付・政治権力を分ける自発的な契約による移住は広く認める原則として移民を国家福祉で補助しない一定期間や条件を設ける
福祉国家下の無制限移民に慎重な立場移動の自由と福祉国家の矛盾を重視福祉国家が存在するかぎり、無制限の移民には慎重移民問題の重要な原因とみる論者によって異なる

この表から読み取れること

もっとも重要なのは、「リバタリアン=オープンボーダー」でもなければ、「財産権重視=国境閉鎖」でもないということです。

同じように私有財産、契約の自由、国家権力への警戒を重視していても、公有地や福祉国家が存在する現実社会に、その原理をどのように適用するかによって結論が分かれます。

ホッペは、現在の中央政府による国境管理をリバタリアン社会の最終的な姿とは考えていません。完全な私有財産社会では、誰を受け入れるかはそれぞれの所有者が決めるべきだとします。その一方で、福祉国家と公有財産が存在する現実社会では、無条件の自由移民にも反対し、招待や費用負担を重視します。最終的な方向としては、中央政府から権限を取り上げ、分権化・分離を進め、最終的には私有財産所有者とその自発的な共同体へ決定権を移すことを求めます。

ミーゼスは、移動の自由を強く擁護しました。移民制限は労働の移動を妨げ、関税と同じように世界全体の生産性を低下させると考えます。ただし、移民を純粋な経済問題としてだけ見たわけではなく、介入主義的な国家のもとで異なる民族・言語集団が暮らす場合に生じる政治的対立にも注意を払っていました。その解決として重視したのは、移民を止めることよりも、国家権力の縮小と自己決定でした。

ミルトン・フリードマンは、原理的には開かれた移民を支持しました。しかし、福祉国家を維持したまま無制限に移民を受け入れることには反対しました。彼にとって問題だったのは移民そのものというより、移住した人が税による福祉給付を当然に受けられる制度との組み合わせでした。

ウエルタ・デ・ソトの4原則も、最終的な理想社会の制度ではありません。彼は、国民国家が存在する現在の状況における暫定的な指針として、福祉給付からの分離、自活能力の証明、参政権の慎重な付与、財産権の尊重などを提案しました。彼が最終的な解決として描くのは、国家が小さな政治単位へ分解され、公有財産が完全に私有化された社会です。

つまり、リバタリアンの移民論で本当に意見が分かれるのは、「自由を重視するかどうか」そのものではありません。

  • 誰の自由を、誰の財産権と調整するのか。
  • 福祉国家や公有地という、そもそもリバタリアンが問題視する制度が存在するとき、どの次善策を選ぶのか。
  • そして、現実の国家制度から完全な私有財産社会へ向かう途中で、どこまで国家による移民管理を認めるのか。

この部分に、リバタリアン内部の移民論争の核心があります。

日本で考えるとき

ここまではおもに欧米の議論です。日本でこの問題を考えるときも、第1節で行った5つの区別は同じように役に立ちます。

入国・在留の資格、就労できる範囲、社会保障や公的給付の適用、国籍の取得、参政権——日本でもこれらは区別して制度化されており、一つを認めれば他も自動的に付いてくるという構造にはなっていません。したがって、「移民に賛成か反対か」という一問一答だけでは、現実の制度についての議論にはなりません。

たとえば就労は、在留資格の種類によって扱いが変わります。

出入国管理及び難民認定法は、本邦に在留する外国人は原則として在留資格をもって在留するものと定めています(第2条の2)。別表第一の在留資格で在留する人は、その在留資格に応じて同表の下欄に掲げられた活動を行うことができ、別表第二(永住者、日本人の配偶者等、永住者の配偶者等、定住者)の在留資格で在留する人は、同表に掲げられた身分または地位を有する者として活動できます。

また、別表第一の在留資格で認められた活動以外に、収入を伴う事業を運営したり、報酬を受ける活動を行ったりする場合には、原則として資格外活動の許可が必要です(第19条)。一方、別表第二の「永住者」「定住者」などには就労活動の制限がありません。

つまり日本の制度でも、「日本に在留できること」と「どのような活動・就労が認められるか」は区別して規律されています。

地方選挙権は、さらに別の問題として扱われています。

最高裁第三小法廷は平成7年(1995年)2月28日の判決(民集49巻2号639頁)で、憲法93条2項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するとして、在留外国人には地方公共団体の長や議員等を選挙する権利が憲法上保障されているとはいえない、としました。

その一方で、判決理由中では、永住者等であって、その居住する地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至った者について、法律によって地方選挙権を付与する措置を講じることは「憲法上禁止されているものではない」とも述べています。ただし、そのような制度を設けるかどうかは「専ら国の立法政策にかかわる事柄」であり、付与しないことが違憲になるわけでもないとしました。

つまりこの判決は、外国人に地方選挙権を付与することを憲法上義務づけてもいなければ、法律による付与そのものを憲法上禁じてもいません。したがって、「最高裁が外国人の地方選挙権を憲法上の権利として認めた」も、「外国人に地方選挙権を与えること自体を違憲とした」も、判決の正確な要約ではありません。

なお、この判決が直接判断したのは選挙権についてであり、被選挙権について判断したものではありません。

生活保護についても、さらに別の法的構造があります。

最高裁第二小法廷は平成26年(2014年)7月18日の判決(平成24年(行ヒ)第45号)で、生活保護法1条・2条にいう「国民」とは日本国民を意味し、外国人は含まれないとして、外国人は生活保護法にもとづく受給権を有しないと判示しました。

ただし、これは日本に住む外国人に生活保護に相当する保護を行うこと自体を違法とした判決ではありません。

昭和29年(1954年)5月8日の厚生省社会局長通知(社発第382号)を基礎として、現在も、永住者、定住者、日本人の配偶者等、特別永住者、認定難民など一定の外国人については、生活保護法の取扱いに準じた保護が行政措置として行われています。最高裁も、外国人は「行政庁の通達等に基づく行政措置により事実上の保護の対象となり得る」としています。

したがって、「最高裁が外国人への生活保護を違法と判断した」というのは誤りです。逆に、「最高裁が外国人にも生活保護法上の受給権を認めた」というのも誤りです。

この判決で中心的に問われたのは、外国人に行政措置として保護を行うこと自体の適法性ではなく、外国人が生活保護法にもとづく法的な受給権を持つのか、それとも行政措置として事実上の保護を受けるにとどまるのかという点でした。

こうして見ると、第1節で5つを分けた理由がよくわかります。入国・在留、就労、公的給付、国籍、参政権は、日本でもそれぞれ区別して扱われています。「移民に賛成か反対か」という一問一答だけでは、この違いは見えてきません。

制度の細部は法改正や判例、行政運用によって変わりますので、ここではこれ以上立ち入りません。

ここで示したかったのは、日本の制度でもこれらの問題が区別して扱われていること、そして移民問題を考えるときには、どの自由、権利、負担、政治的権限について議論しているのかを分けて考える必要があるということです。

このページでは、一つの結論を決めません

この論争が難しいのは、現在の社会が純粋な私有財産社会ではないからです。

道路や公園、公立学校などの多くは政府や自治体が管理し、福祉制度を含め、その費用の多くが税によって賄われています。そのため——

「外国人と自由に契約したい」という人の自由を守ろうとすると、「税で支えられた制度や公有財産を誰に利用させるのか」という問題が出てきます。

反対に、「納税者の負担や共同体を守る」という理由で政府に広い国境管理権限を認めれば、「雇用主も家主も本人も全員合意している平和的な契約を、なぜ政府が禁止できるのか」という問題が出てきます。

したがって、本当の問いは、「国境を開くべきか、閉じるべきか」だけではありません。

国家の国境は、私有財産の境界と同じように考えることができるのか。

平和的な人の移動を止めるには、どの程度の理由が必要なのか。

福祉国家や選挙制度の問題を、移住の自由とどこまで切り離して考えることができるのか。

移民をめぐるリバタリアン内部の論争は、自由主義の中心にある「誰が、誰に、何を強制する権利を持つのか」という問いを、もっとも難しい形で突きつけてくるテーマの一つです。

リバタリアニズム内部の他の分岐については、応用編Ⅰ(リバタリアン内部の論争)をご覧ください。また、この論争の土台にある原理については、自然権論と帰結主義最小国家か、無政府資本主義かで詳しく扱っています。

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References

出典・参考リンク

  1. ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス『Liberalism: In the Classical Tradition』(原著 Liberalismus, 1927年)第3章「Liberal Foreign Policy」第8節「Freedom of Movement」— 第2節の引用3件はこの節によります — Mises Institute(英語全文・無料)
  2. マレー・ロスバード『Power and Market: Government and the Economy』(初版1970年)第3章「Triangular Intervention」第3節「Product Control: Grant of Monopolistic Privilege」小節E「Immigration Restrictions」— 「関税」の項の直後に置かれています — Mises Institute(英語全文)
  3. マレー・ロスバード「Nations by Consent: Decomposing the Nation-State」(『Journal of Libertarian Studies』11巻1号、1994年秋、pp.1–10)— 第6節の引用はp.7によります — Mises Institute(英語全文)
  4. ハンス=ヘルマン・ホッペ「Natural Order, the State, and the Immigration Problem」(『Journal of Libertarian Studies』16巻1号、2002年冬、pp.75–97)— 第3節の引用はpp.78・82・93によります。「invited immigration」という語はこの論文ではなく、同じ著者の1998年論文「The Case for Free Trade and Restricted Immigration」(同誌13巻2号、pp.221–233)で用いられていますMises Institute(英語全文)
  5. ヘスース・ウエルタ・デ・ソト「A Libertarian Theory of Free Immigration」(『Journal of Libertarian Studies』13巻2号、1998年夏、pp.187–197)— 第4節の4原則はpp.193–196によります — Mises Institute(英語全文)
  6. ウォルター・ブロック「A Libertarian Case for Free Immigration」(『Journal of Libertarian Studies』13巻2号、1998年夏、pp.167–186)— 同号はウエルタ・デ・ソト、ホッペらの論考も収めた移民特集号です — Mises Institute(英語全文)
  7. マイケル・ヒューマー「Is There a Right to Immigrate?」(『Social Theory and Practice』36巻3号、2010年、pp.429–461)— 第2節・第5節の引用はこの論文によります — 著者サイト(英語全文)
  8. ミルトン・フリードマン「The Romance of Economics」(聞き手 Tunku Varadarajan、『ウォール・ストリート・ジャーナル』2006年7月22日付。Hoover Institutionに転載)— 第4節の引用はこのインタビューによります。しばしば引用される「不法移民は、違法であるかぎりにおいてのみ良い」という逆説は、このインタビューではなく、1977年10月3日にシカゴ大学で行われた講演「What Is America?」での発言ですHoover Institution(英語)
  9. ブライアン・カプラン、ザック・ウェイナースミス『Open Borders: The Science and Ethics of Immigration』(First Second、2019年)第6章「Keyhole Solutions」。邦訳は『国境を開こう! 移民の倫理と経済学』(御立英史訳、あけび書房、2022年)。政策論における「keyhole surgery / keyhole solution」の比喩はカプランの造語ではなく、ティム・ハーフォード『The Undercover Economist』(2005年)に由来します。カプラン自身も2005年にハーフォードのこの議論を紹介しています。
  10. 出入国管理及び難民認定法 第2条の2・第19条、別表第一・別表第二 — 条文はe-Gov法令検索で確認しました。
  11. 最高裁判所第三小法廷判決 平成7年2月28日(民集49巻2号639頁、平成5年(行ツ)第163号)— 第8節の引用はこの判決によります。大法廷ではなく第三小法廷である点、直接判断されたのが選挙権であって被選挙権ではない点に注意してください。
  12. 最高裁判所第二小法廷判決 平成26年7月18日(平成24年(行ヒ)第45号、判例地方自治386号78頁)— 外国人と生活保護について。「最高裁が外国人への生活保護を違法と判断した」という説明は誤りです。判決は生活保護法にもとづく受給権を否定する一方、行政措置による「事実上の保護の対象となり得る」とも述べています。あわせて厚生省社会局長通知(昭和29年5月8日 社発第382号)。
  13. リバタリアニズム内部の他の分岐については当サイトの「保守と組むべきか」、「リバタリアン運動は、どこへ向かうのか」、「最小国家か、無政府資本主義か」をご覧ください。

※ リンク先は各公開元のサイトです。所在は掲載時点のものです。本ページは思想上の論争を扱うもので、特定の国の移民政策への賛否を述べるものではありません。移民の経済的影響(賃金、財政、治安など)は、国・制度・時期によって結果が異なりうる実証的な問題であり、本ページでは扱っていません。

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