ここで興味深いのがマレー・ロスバードの立場です。彼は、特許と著作権を同じ種類の権利として扱いませんでした。
国家が与える特許には反対する。しかし、契約にもとづく著作権は認める。
一見すると不思議な組み合わせですが、ロスバードにとっては、どちらも同じ財産権原理から導かれる結論でした。
特許は、国家による独占特権
ロスバードは『Man, Economy, and State with Power and Market』第10章第7節「Patents and Copyrights」で、特許を自由市場と両立しない制度として批判しました。その理由として重要なのが、独立発明です。
Aさんがある機械を発明し、特許を取得したとします。その後、遠く離れた場所にいるBさんが、Aさんの発明について何も知らないまま、まったく独力で同じ機械を発明したとします。
BさんはAさんから何も盗んでいません。設計図を盗んだわけでも、営業秘密を不正に入手したわけでも、Aさんと交わした契約に違反したわけでもありません。それでも特許権が有効であるかぎり、Bさんは原則として、自分の発明を自由に実施することができません。
ロスバードは、ここに特許制度の根本的な問題があると考えました。もしAさんの発明品や設計図をBさんが盗んだのであれば、特許は必要ありません。通常の財産権の原理によって、それは盗みとして禁止できます。しかし独立発明の場合、BさんはAさんの財産を奪っていません。それにもかかわらず特許制度は、Bさんが自分自身の知識、自分自身の材料、自分自身の機械や工場を使って発明を実施することを禁止します。
そのためロスバードは、特許について、財産権を守る制度ではなく、国家が特許権者に与える独占特権であり、むしろ独立発明者の財産権を侵害すると考えました。彼自身、特許は独立して同じアイデアや発明を発見した人々の財産権を侵害すると論じています。
したがって、ロスバードにとって問題なのは「最初に発明した人を尊重すべきか」ということではありません。問題は、最初の発明者が発明したという事実から、なぜまったく独立して同じ発明に到達した他人の財産の使い方まで支配する権利が生まれるのかということです。この点で、ロスバードの特許批判は、後のキンセラの知的財産権批判と非常に近いものになっています。
著作権は、契約として成立しうる
一方、ロスバードは著作権について、特許とは異なる考え方を示しました。ただし、ここでいう「著作権」は、現在の著作権法そのものではありません。ロスバードが認めたのは、物を売る際に、所有権の一部を売り手が留保するという契約・財産権にもとづく著作権です。
たとえば、著者が本を販売するとき、その本についての権利をすべて買い手へ譲るのではなく、「この本を複製して販売する権利は譲らない」という条件で売ることができる、と考えます。
『Man, Economy, and State』でロスバードは、著者は買い手に財産を丸ごと売るのではなく、その作品を複製・再生産して販売しないという条件で売るという趣旨を述べています。買い手は、その条件を含めて本を購入した以上、それに反して複製・販売すれば、ロスバードの理論では単なる「コピー」ではなく、契約違反であり、留保されていた財産権の侵害になります。
そして重要なのは、ロスバードがこの仕組みを本や音楽だけに限定していないことです。発明者も、自分の機械に “copyright” と表示し、「この機械を購入する者には、同じ機械を複製して販売する権利は譲らない」という条件で販売できる、と考えました。
つまりロスバードは、発明を何らかの形で保護すること自体を否定したわけではありません。彼が否定したのは、国家が特許権者に与え、その発明をまったく独立して考え出した第三者にまで及ぶ特許制度です。彼自身の言葉では——「特許が自由市場と両立しないのは、まさにそれが著作権を超える範囲においてである」。
本質的な違いは、「文芸か機械か」ではない
したがってロスバードにとって、「特許=機械」「著作権=文学」という分類そのものには、本質的な意味がありません。彼が重視するのは、その権利が、創作者から物を取得した人との契約・権原関係にもとづくものなのか。それとも、その創作者とは何の関係もなく、独立して同じものに到達した人まで排除するのか。という違いです。
ロスバードは当時の著作権について、侵害を主張する側は、被告が元の作品に「接近(access)」していたことを立証する必要があり、偶然まったく同一の作品を独立して作っただけなら侵害にならない、と説明します。したがって、彼の理解では、元の作品を知り、それを複製した場合と、元の作品を知らず、独力で同じものを生み出した場合が区別されます。これに対して特許は、後者まで禁止します。
この違いからロスバードは、文芸作品と機械発明に現在のように著作権と特許を割り当てることは、むしろ「特に不適切」だとまで論じました。文芸作品は個人に固有の創作物であり、他人がまったく独立して同一の作品を作ることはほとんどありません。これに対して機械的発明は、ロスバードによれば、個人的創作であるだけでなく自然法則の発見という側面を持つため、複数の人が互いを知らないまま同種の発明へ到達することが頻繁にあります。そのため彼は、文芸作品に特許、機械的発明に著作権を適用するほうが、自由市場にはむしろ適合するという、一見すると逆転した結論まで示しています。
もちろん、これは実際に「小説へ国家特許を導入すべきだ」という政策提案ではありません。ロスバードが言いたいのは、独立創作まで排除する特許型の権利が文芸作品では実際上ほとんど追加的な制約にならない一方、独立発明が頻繁に起こる機械分野では大きな財産権侵害になる、ということです。
『自由の倫理学』のネズミ捕り
ロスバードは『The Ethics of Liberty(自由の倫理学)』第16章「Knowledge, True and False」で、この契約型著作権をさらに具体的に説明しています。
ブラウンが改良型のネズミ捕りを作り、それぞれに “copyright Mr. Brown” と表示して販売したとします。ロスバードによれば、ブラウンが売っているのは、ネズミ捕りについての完全な所有権ではありません。買い手には、そのネズミ捕りについて、それを他人へ販売すること、または同一の複製品を作って販売することを除く権利だけが移転される、と考えます。つまり、売り手であるブラウンが、一定の権利を永久に留保しているという構成です。
このため、買い手のグリーンが同じネズミ捕りを作って販売すれば、ロスバードの理論では、ブラウンとの契約とブラウンが留保した財産権への侵害になります。
そしてロスバードは、さらに一歩進みます。グリーンとブラウンの契約に参加していない第三者ブラックが、グリーンのネズミ捕りを見て同一品を作った場合についても、ブラックはグリーン以上の権原を取得することはできないとして、ブラウンの留保した権利に拘束されると論じています。
ここが、ロスバードの契約型著作権の最も論争的な部分です。
契約は、契約した本人だけでなく、その後に物や情報を取得した第三者にまで、どこまで引き継がれるのか。
ここが重要です ― ロスバード型は、単純に「弱い著作権」ではない
「特許には反対し、契約型の著作権は認める」と聞くと、現在の知的財産制度を大幅に弱めた穏当な中間案のように見えるかもしれません。しかし、ロスバードの議論を詳しく見ると、それほど単純ではありません。
なお以下では、現在の著作権法上の権利と区別するため、ロスバードが論じた契約型の権利については、彼自身の表記に合わせて copyright と記します。
日本の著作権は、原則として著作者の死後70年まで存続します。これに対してロスバードは、自由市場におけるcopyrightについて明確に永久(perpetual)であるべきだと述べています。『Man, Economy, and State』では、自由市場では、copyrightは一定年数に限定されず永久であるとし、完全な財産であるならば、その人と相続人・譲受人の財産として永久に存続すべきだと論じています。
さらに、このcopyrightは文学や音楽だけに限定されません。ロスバードは、発明者が機械に “copyright” と表示し、「この機械を購入しても、同じ機械を複製して販売する権利までは取得しない」という条件で売ることも認めています。したがって、現行著作権法では著作物にならない機械や発明品についても、ロスバード型の契約による複製制限を設定できることになります。
契約していない第三者まで拘束されるのか
さらに論争的なのが、第三者の問題です。『自由の倫理学』第16章のネズミ捕りの例では、ブラウンがグリーンへ、複製・販売権の一部を留保してネズミ捕りを売ります。ここまではブラウンとグリーンの契約です。
しかし、そのネズミ捕りを見たブラックはブラウンと何の契約もしていません。それでもロスバードは、「誰も、すでに譲渡・売却された以上の財産権原を取得することはできない」という原則を使って、ブラックもブラウンの留保した権利に拘束されると論じます。グリーン自身が複製して販売する権原を持っていない以上、ブラックも、グリーンのネズミ捕りを見ることによって、それ以上の権原を取得することはできない——という説明です。ロスバードは、ブラックがブラウンと実際には契約していなくても、ブラウンの財産権を侵害することになると明記しています。
ここが、後にキンセラが強く批判した点です。キンセラは、契約は契約当事者を拘束することはできても、契約していない第三者を拘束することはできないと考えます。ブラックはブラウンと契約していません。そしてブラックが自分の頭で得た知識と、自分自身の材料・機械を使ってネズミ捕りを作るのであれば、なぜブラウンにそれを止める権利があるのか——という批判です。キンセラは、契約による義務は当事者間のもの(in personam)であって、物権のように世界中の第三者に対して効力を持つ(in rem)ものではない、と論じています。
ただし、独立発明者までは拘束しない
ここは非常に重要です。ロスバードの契約型copyright(contractual copyright)が第三者に及ぶからといって、世界中のすべての第三者に及ぶわけではありません。
ブラックがブラウンやグリーンのネズミ捕りを見ることもなく、そこから情報を得ることもなく、まったく独立して同じネズミ捕りを発明したのであれば、ロスバードはその発明を自由に使用・販売することを認めます。これは、彼が特許を否定した理由そのものです。
したがって、ロスバード型copyrightは、契約していない一定の第三者にまで及ぶ。しかし、完全な独立創作者・独立発明者にまでは及ばない。という区別が必要です。
では、現行法より強いのか、弱いのか
結論は、単純には比較できません。ロスバード型のほうが弱い部分もあります——国家による特許制度を廃止する、独立発明者を排除しない、独立創作者も排除しない、国家が創作したというだけで一律に知的財産権を付与するという構成ではない。
しかし一方で、現在の制度より強くなりうる部分もあります——権利が永久である、機械・発明品などにも契約型copyrightを設定できる、契約していない一定の第三者にも効力が及ぶとロスバードは考える、現行特許法の新規性・進歩性のような要件とは別に売買契約によって複製制限を設定できる。
そのため、「自由市場なら知的財産の保護は必ず現在より小さくなる」と考えてロスバードを引用するのは正確ではありません。キンセラも、ロスバードの契約型の知的財産保護について、現在の知的財産法より「多くの点で広く、より悪い」と評しています。彼が特に問題にするのは、現在の特許制度なら特許対象となる発明に一定の要件と期限があるのに対し、ロスバードの契約型制度では、より広い種類の物について複製制限を設定でき、しかもその権利が永久になりうる点です。
したがってロスバードの立場は、「国家の知的財産制度をなくせば、知的創作についての排他的権利も小さくなる」という単純なものではありません。むしろ、国家特許は廃止する。しかし、財産権と契約から導かれる複製制限については、非常に強い権利を認める。という独特の立場です。
キンセラの反論 ― 契約は第三者を拘束するのか
キンセラは『Against Intellectual Property』の「Contract vs. Reserved Rights」で、ロスバードの契約型著作権を名指しで批判します。
まずキンセラも、契約によって複製を制限すること自体は認めます。たとえばAが本をBに「この本を複製しないこと」という条件で売り、Bがそれに同意したのであれば、Bはその契約に拘束されます。Bが約束に反して複製すれば、契約違反の問題になります。
しかしキンセラによれば、ここから契約していない第三者まで拘束することはできません。彼は、特許や著作権と契約の違いをこう整理します。
「特許と著作権は、契約に同意したかどうかにかかわらず、すべての第三者に対して効力を持つ。それは万人を拘束する物権であり、私の土地の権原が——契約がなくとも——万人にそれを尊重するよう拘束するのと同じである。これに対して契約は、契約の当事者のみを拘束する。それは当事者間の私的な法にすぎず、当初の当事者と契約関係(privity)にない第三者を拘束しない」
そこで問題になるのが、ロスバードのネズミ捕りの例です。ブラウンがグリーンに「このネズミ捕りを複製しないこと」という条件で売ったとします。グリーンがその条件に同意したのであれば、グリーンが拘束されることについて、キンセラは大きな問題を認めません。
しかしブラックは違います。ブラックはブラウンと契約していません。ただグリーンのネズミ捕りを見て、その仕組みを理解し、自分の材料を使って同じネズミ捕りを作っただけです。
ロスバードは、「誰も、自分が持っている以上の財産権原を他人へ移すことはできない」という原則から、グリーンが複製権を持っていない以上、ブラックもそれ以上の権原を取得できないと考えました。これに対してキンセラは、その理屈は成り立たないと批判します。なぜなら、ブラックがグリーンから取得したのは、ネズミ捕りについての「複製権」という財産権ではなく、単にそれを見て得た知識だからです。そしてキンセラの理論では、そもそもアイデアや情報は希少な物理的資源ではなく、所有権の対象ではありません。したがって、「グリーンはその情報について完全な権原を持っていなかったから、ブラックも完全な権原を持てない」というロスバードの説明そのものが、情報を所有可能な財産として扱ってしまっている、と批判します。
キンセラにとって、ブラックが問われるべきなのは、ブラウンの財産を侵害したのか。ブラウンと契約したのか。あるいは、不法侵入や窃盗などによって情報を不正に入手したのか。という点です。そのいずれでもなく、単に他人のネズミ捕りを見て仕組みを知ったのであれば、ブラックは自分の知識と自分の財産を使うことができる、と考えます。
「権利を留保した」という言い換えでも解決しない
ロスバード側は、「これは単なる契約ではない。ブラウンはネズミ捕りを売るときに、複製する権利だけを自分のもとに留保したのだ」と説明します。土地について、地上部分、地下の鉱業権、通行地役権などを分けて譲渡できるのと同じように、所有権を複数の権能の「束」と考え、その一部だけを売るという発想です。
しかしキンセラは、この「権利留保(reserved rights)」という説明も認めません。彼によれば、これは結局、契約はその契約に参加した人しか拘束できないという問題を、「売らなかった権利が物に付着している」と言い換えることで回避しようとしているにすぎないからです。
キンセラは、情報を知った第三者について、その人自身が契約上の義務を負っているか、あるいはその情報を得る際に他者の権利を侵害したのでないかぎり、その知識を自分の財産に利用することを禁止することはできないと考えます。2009年の要約「The Case Against IP: A Concise Guide」でも、同じネズミ捕りの例を使って、グリーンがブラウンに「複製しない」と約束したとしても、ブラックはブラウンと何の合意もしていない——したがってブラウンには、ブラックがブラック自身の財産と知識を使うことを契約によって禁止する権利はない、と結論しています。
ここで争われているのは、単なる著作権制度の問題ではありません。
契約による義務は、どこまで物に付着して第三者へ引き継がれるのか。契約上の義務と、万人に対して主張できる財産権との境界はどこにあるのか。
これは、契約と財産権そのものの問題です。
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