論点 · 応用編Ⅰ

アイデアは所有できるのか ― 知的財産権をめぐるリバタリアン内部論争

本を書いた。曲を作った。新しい機械を発明した。それを他人が無断でコピーしたら、創作者の権利を侵害したことになるのでしょうか。直感的には「自分が生み出したものなのだから、自分のものだ」と考えたくなります。ところが、リバタリアンの財産権論を突き詰めていくと、正反対の結論も導かれます。知的財産権に賛成する側も、反対する側も、私有財産を重視しています。争点は、アイデアや情報も土地や物と同じように所有できる財産なのか、そして知的財産権を認めることが、かえって他人の正当に所有する物への権利を制限することにならないか、という点にあります。

In Short

3つの要点

  • 対立の出発点には、重要な共通点があります。どちらの側も、正当な私有財産は守られるべきだと考えています。大きく分かれるのは、なぜ財産権が成立するのか、そして何が「財産」になりうるのかという一段深いところです。知的創作物にも創作者の権利が及ぶと考える立場がある一方、反対論者は、財産権が必要なのは同時に複数の人が使えない希少な資源について利用の衝突を避けるためであり、複製しても元の持ち主から失われないアイデアや情報には同じ原理は当てはまらない、と考えます。スティーブン・キンセラは、この「希少性」を知的財産権批判の中心に置いています。
  • 知的財産権に反対する側も、創作者の努力や創作物の価値を否定しているわけではありません。問うているのは、「自分が創作した」という事実から、他人が自分自身の財産を使って同じ情報や表現を複製することまで禁止する権利が生まれるのかという点です。たとえば、購入者が自分の紙、インク、コンピューター、プリンターを使って本の内容を複製するとき、知的財産権は創作者の物ではなく、購入者自身の物の使い方を制限します。
  • 「現在の特許制度には反対するが、契約にもとづく著作権は認める」という立場もあります。ロスバードが代表例です。ただし彼の立場は、現行の著作権制度より単純に「弱い」わけでも「強い」わけでもありません。国家が発明者に独占権を与え、独立して同じ発明に到達した人まで禁止する特許制度には反対しました。その一方で、創作者が販売時に複製禁止という条件を付け、その権利を留保する契約型の著作権を認め、この権利は期限付きではなく永久に存続しうると考えています。
目次
01

まず、「知的財産」とは何か

「知的財産」と一括りにされますが、それぞれの制度の仕組みや保護の根拠は同じではありません。このページの論争で特に問題になるのは特許著作権です。まず、日本の現在の制度を簡単に押さえておきます。

特許

特許法は「発明」を「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」と定義しています(第2条第1項)。

発明しただけで自動的に特許権が生じるわけではありません。出願と審査を経たうえで、設定の登録によって特許権が発生します(第66条第1項)。特許権者は、原則として、業としてその特許発明を実施する権利を専有します(第68条)。

存続期間は、原則として特許出願の日から20年で終了します(第67条第1項)。

ここで注意したいのは、20年の起算点が「特許が認められた日」ではなく出願日だということです。一方、特許権そのものは設定登録によって初めて発生するため、通常、特許権として実際に行使できる期間は20年より短くなります。

ただし現在は、審査が一定以上長期化した場合の期間補償制度があります。設定登録が、原則として「出願から5年」または「審査請求から3年」のいずれか遅い日より後になった場合には、一定の条件のもとで存続期間を延長することができます(第67条第2項・第3項)。

また、医薬品や農薬などでは、安全性確保のための承認・登録など、法律上必要な処分を待つために特許発明を実施できない場合があります。このような場合にも、5年を限度として存続期間を延長できる制度があります(第67条第4項)。

この論争にとって決定的に重要なのは、次の点です。

特許は、単に「他人の発明を盗むな」という権利ではない。

ある人が特許を取得した発明と同じものに、別の人がまったく独自に到達した場合でも、原則として、その人は特許権者の許諾なしにその発明を業として実施することはできません。

「自分で独立して発明した」「特許権者の発明をコピーしたわけではない」「その特許の存在を知らなかった」という事情だけでは、原則として特許権侵害を免れる理由にはなりません。

特許庁も、特許権を、同じ客観的内容を持つものに対して排他的に支配できる「絶対的独占権」として説明しています。これに対して著作権は、他人が独自に創作したものには原則として及ばない「相対的独占権」と整理されています。

独立して先に発明していた人はどうなるのか

ここには重要な例外があります。先使用権です(第79条)。

他人の特許出願の内容を知らずに自ら同じ発明をし、またはそのように独立して発明した人からその発明を知得し、他人の特許出願の時点ですでに日本国内においてその発明を実施する事業を行っていたか、その事業の準備をしていた人には、一定の範囲で通常実施権が認められます。

つまり、Bさんが特許を出願する前にAさんが同じ発明へ独自に到達し、すでにその発明を使った事業を始めていた、あるいは事業化に向けた具体的な準備に入っていた場合には、Bさんが後に特許を取得しても、Aさんは一定の範囲でその発明を使い続けることができます。

ただし、この先使用権は特許権そのものではありません。

認められるのは、原則として、それまで実施または準備していた発明と事業の目的の範囲内で、その特許発明を実施し続ける権利です。他人一般の実施を排除できる独占権をAさんが取得するわけではありません。

また、先使用権を主張する側は、出願時点ですでに事業を実施していた、または「事業の準備」に入っていたことなどを証拠によって示す必要があります。特許庁も、研究開発の着手だけではなく、発明の完成から事業準備・事業開始に至る経緯を立証することが重要だと説明しています。

したがって、より正確には——

先に独立して発明しただけでは、必ずしも先使用権は得られません。

他人が特許を出願した時点で、まだその発明を使った事業を行っておらず、事業の準備にも入っていなかった独立発明者は、先使用権によっては保護されません。

ここが、あとで見るリバタリアン内部の論争にとって重要になります。

他人のアイデアを盗んでもコピーしてもいない。自分の頭で独立して同じ発明に到達した。それでも、なぜ先に特許を取得した人には、自分の所有する工場・機械・材料を使ってその発明を実施することを禁止する権利があるのでしょうか。

特許を擁護する側と批判する側は、この問いにまったく異なる答えを出します。

著作権

著作権は、著作物を創作した時点で自動的に発生します。著作権法は「著作者人格権及び著作権の享有には、いかなる方式の履行をも要しない」と定めています(第17条第2項)。

したがって、特許とは異なり、権利を取得するための出願や登録は必要ありません。日本には著作権の登録制度自体はありますが、著作権を発生させるための制度ではありません。

そして著作権が保護するのは、原則として「アイデア」そのものではなく、その具体的な「表現」です。

ただし、日本の著作権法には「アイデアは保護しない」とそのまま書いた条文があるわけではありません。著作物を「思想又は感情を創作的に表現したもの」と定義する第2条第1項第1号と、判例の積み重ねから導かれる原則です。文化庁も、著作物に該当するためには思想・感情を「表現したもの」であることが必要であり、アイデアそのものは除かれると説明しています。

代表的なのが、最高裁の江差追分事件です。最高裁は、言語の著作物の「翻案」について、思想・感情・アイデア・事実・事件などの表現それ自体ではない部分や、表現上の創作性がない部分で既存の著作物と共通しているだけなら、翻案には当たらないと判示しました(最判平成13年6月28日・民集55巻4号837頁)。日本の著作権法における「アイデアと表現の区別」を示す代表的な判例の一つです。

たとえば、「宇宙旅行を題材にした小説を書く」というアイデアそのものを、一人の作家が独占することはできません。別の作家が同じアイデアから、独自にまったく別の小説を書くこともできます。しかし、その作家が実際に書いた文章など、創作性のある具体的な表現を無断で複製すれば、著作権の問題になります。

ここは特許との大きな違いです。特許は、他人が独立して同じ発明に到達した場合にも原則として権利が及びます。これに対して著作権は、他人が独立して創作した表現には、たまたま似ていたというだけでは及びません。

商標と営業秘密は、性格が違う

「知的財産」には商標や営業秘密も含まれます。しかし、これらは特許や著作権とは保護の仕組みがかなり異なります。

商標

商標法は、その目的を「商標の使用をする者の業務上の信用の維持」を図り、産業の発達に寄与するとともに、需要者の利益を保護することだと定めています(第1条)。商標権の存続期間は設定登録の日から10年ですが、更新登録の申請によって繰り返し更新できます(第19条)。

商標が中心的に扱うのは、発明や文章のような「アイデア・創作物そのもの」ではなく、商品やサービスが誰によって提供されているのかを識別する標識と、そこに蓄積された信用です。

たとえば、ある企業の商品と他社の商品を取り違えさせるような商標の使用などが典型的な問題になります。ただし、登録商標の保護は単純に「実際に消費者が混同した場合だけ」に限定されるわけではなく、登録商標と指定商品・役務、さらにそれらと類似する範囲について法律上の保護が設けられています。

したがって商標をめぐる問題は、「アイデアを創作した人に、そのアイデアを独占させるべきか」という特許・著作権の論争とは、かなり性格が異なります。

営業秘密

営業秘密もまた、特許とは異なる仕組みです。不正競争防止法上の「営業秘密」として保護されるためには、情報が秘密として管理されていること(秘密管理性)・事業活動に有用であること(有用性)・公然と知られていないこと(非公知性)という3つの要件を満たす必要があります(第2条第6項)。経済産業省も、この3要件を営業秘密の基本要件として整理しています。

営業秘密は、特許のように登録によって情報そのものについて一般的な排他的独占権を与える制度ではありません。秘密情報の不正な取得・使用・開示などを「不正競争」として規制する仕組みです。

したがって、他人の営業秘密を盗んだり、不正に開示された情報を一定の事情のもとで利用したりすることは規制されますが、他人の秘密を知らずに独立して同じ技術や情報へ到達したというだけで、それを禁止する制度ではありません。この点でも、独立発明にも原則として権利が及ぶ特許とは性格が異なります。

なぜ一括りにすると問題なのか

知的財産基本法第2条第1項自体が、「知的財産」の中に、発明・著作物などの人間の創造的活動により生み出されるもの、商標・商号などの商品や役務を表示するもの、営業秘密などの事業活動に有用な技術上・営業上の情報という、異なる種類の対象を含めています。

つまり、「知的財産権に賛成か、反対か」と一括りにすると、性格の異なる制度を同じ原理で論じてしまう危険があります。発明を独占する特許と、表現を保護する著作権と、商品の出所や信用を守る商標と、不正な情報取得・使用・開示を規制する営業秘密では、何を、なぜ、どのように保護しているのかが違います。

以下では、リバタリアン内部で特に大きな論争となってきた特許と著作権に絞って考えます。

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02

なぜリバタリアンの間で意見が割れるのか

対立の出発点は、意外にも共通しています。

私有財産は守られるべきである。

ここまでは、大半のリバタリアンが同意します。ケイトー研究所が運営するLibertarianism.orgの「Intellectual Property」も、大半のリバタリアンは、財産権が物理的な財産に及ぶことでは一致する一方、アイデアに対する財産権——とりわけ特許と著作権が正当かどうか——については見解が分かれると説明しています。

問題は、その次です。そもそも、なぜ財産権が必要なのでしょうか。そして、物とアイデアは同じ意味で「財産」になりうるのでしょうか。

物とアイデアは、同じなのか

あなたが持っている自転車を、私が勝手に持ち去ったとします。私がその自転車に乗っているあいだ、あなたは同じ自転車に乗ることができません。少なくとも同じ時間に、同じ自転車を、それぞれが自由に排他的に使用することはできません。

だからこそ、この自転車を使う権利は誰にあるのかというルールが必要になります。土地、食料、機械、原材料なども同じです。こうした物理的資源は、一人がある用途に使えば、他の人が同じ資源を同じように使えなくなる場合があります。

では、アイデアや情報はどうでしょうか。

あなたが新しい料理のレシピを考え、私がそのレシピを知ったとします。私が自分の材料と調理器具を使って同じ料理を作っても、あなたは引き続き、そのレシピを使って料理を作ることができます。

文章でも同じ問題が生じます。私があなたの書いた文章の内容を複製しても、それによって、あなたの手元にある原稿やデータそのものがなくなるわけではありません。

つまり、物理的な物とは違い、情報は複数の人が同時に利用することができます。経済学では、この性質を非競合性(non-rivalry)と呼びます。

もちろん、コピーによって創作者の売上が減る可能性はあります。しかし知的財産権に反対するリバタリアンが問題にするのは、まずそこではありません。彼らが問うのは、「他人が同じ情報を利用することで、元の持ち主がその情報を使えなくなるわけではないのに、なぜ通常の物と同じ財産権が必要なのか」という点です。

ここから、財産権について二つの異なる考え方が分かれていきます。

A ― 創造したものには、創作者の権利がある

知的財産権を擁護する議論の一つは、人間が労働と知性によってそれまで存在しなかった価値あるものを生み出したことを重視します。

物理的な労働の成果には財産権を認めながら、精神的な創造の成果には何の権利も認めないのは不自然ではないか。小説も発明も、誰かが考え、時間を使い、試行錯誤し、努力しなければ生まれなかった。そうであるなら、創作者には、自分が生み出した創作物や発明について、他人による一定の利用・複製をコントロールする権利があるはずだ——という考え方です。

これは、労働や創造を財産権の根拠と考える立場です。

ただし、知的財産権の擁護論がすべてこの考え方に立っているわけではありません。特許や著作権がなければ、創作や研究開発への投資を回収しにくくなり、結果として新しい発明や作品が減ってしまうというインセンティブや社会的利益から知的財産制度を擁護する議論もあります。

B ― 希少な資源だから、所有権が必要になる

これに対して、知的財産権に反対するリバタリアンの一部は、財産権の役割をまったく別のところに見ます。

物理的な財産について所有権が必要なのは、希少な物理的資源について、複数の人が両立しない使い方をしようとすれば衝突が起きるからだと考えます。たとえば、一台の自転車を、Aさんが東京へ乗っていくのと同時に、Bさんが大阪へ乗っていくことはできません。誰がその自転車を使う権利を持つのかを決める必要があります。

これに対して、情報やアイデアは事情が異なります。あなたが知っているレシピを私も覚え、同じ料理を作ったとしても、それによってあなたがそのレシピを使えなくなるわけではありません。一人が利用したことによって、もう一人が同じ情報を利用できなくなるわけではない。

知的財産権に反対するスティーブン・キンセラらは、この違いを重視します。彼らの考えでは、財産権は本来、希少な物理的資源を誰が支配するのかを決め、人と人との衝突を避けるためのルールです。情報やアイデアには同じ意味での競合性がない以上、土地や自転車と同じ排他的な財産権を設定する根拠はない、と考えます。

そして、この議論はさらに一歩進みます。

知的財産権を実際に行使するとは、情報そのものを物理的に取り上げることではありません。たとえば、Aさんがある文章について著作権を持っているため、Bさんが自分で所有する紙、インク、プリンターを使ってその文章を複製することを禁止されるとします。このとき知的財産権は、ある情報についての権利を認めることによって、他人が自分自身の物理的な財産をどう使えるかを制限する権利として働いているのではないか。これが、キンセラらの知的財産権批判の中心的な問いです。

両者の対立を単純化すれば、こう表すことができます。

財産権は、人が何かを創造したことによって生まれるのか。それとも、希少な資源をめぐる人と人との衝突を避けるために必要になるのか。

ただし、これは知的財産権をめぐるすべての立場を二つに分類したものではありません。知的財産権を、発明や創作へのインセンティブによって正当化する立場もあれば、契約によって一定の複製制限を認める立場もあります。それでも、この「創造」と「希少性」の対立は、リバタリアン内部の知的財産論争を理解するための重要な軸です。

これは知的財産に固有の問題ではありません。財産権そのものは、なぜ存在し、何に対して成立するのかという問題にまで遡ります。だからこの論争は、特許を何年にするか、著作権をどこまで認めるかという制度設計の問題に見えて、実はリバタリアニズムの財産権論そのものに触れています。

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03

擁護する立場 ― スプーナー、タッカー、ランド

ライサンダー・スプーナー ― 永続的な財産権として

知的財産について最も強い自然権論を展開した人物の一人が、19世紀アメリカの個人主義的アナキストライサンダー・スプーナー(1808–1887)です。

1855年に刊行した著作の表題そのものが、彼の立場をよく表しています。『知的財産法 ― 著者と発明者が自らのアイデアに永続的な財産を有する権利についての論考』The Law of Intellectual Property; or An Essay on the Right of Authors and Inventors to a Perpetual Property in their Ideas)。

スプーナーの考えでは、物についての財産権とアイデアについての財産権とのあいだに、原理的な違いはありません。人が自分の労働によって得た成果を所有できるのであれば、その労働が肉体的なものか精神的なものかによって、権利を区別する理由はない。発明や著作も、人間が自らの知性と労働によって生み出したものである以上、財産になりうる——という考えです。

スプーナーは結論部分で、発見者・創作者には、自らのアイデアについて「自然かつ絶対的な権利」があり、それが自然かつ絶対的である以上、「必然的に永久的」であると論じています。さらに、アイデアに対する財産権は、物質的な物に対する財産権と同じ根拠に立つと明言しました。

したがって彼にとって、知的財産権は国家が発明や創作を奨励するために一定期間だけ与える政策的な特権ではありません。国家が作る以前から存在する自然権としての財産権です。そうである以上、「著作権は何年」「特許は何年」と政府が恣意的に期限を区切ることにも、原理的な理由はないことになります。

ここは誤解されやすいところです。スプーナーが求めたのは、知的財産の保護を弱めることではありません。むしろ現行の期間限定の制度よりも、はるかに強い財産権として認めることでした。

ただし、書誌上の注意が必要です。『知的財産法』は「第1巻(Vol. I)」として刊行され、巻末には第2巻で扱う予定だった論点が列挙されています。しかし、第2巻は結局刊行されませんでした。その第1巻末尾でスプーナーは、第2巻では、イギリスとアメリカの裁判所には、議会や連邦議会の制定法にかかわらず知的財産の永久性を維持する憲法上の義務があること、さらに知的財産に刑事法上の保護も与えるべきことなどを証明する予定だと述べています。

したがって、より正確には——永久的な知的財産権そのものは第1巻で詳しく論証した。裁判所が制定法に反してでもそれを維持すべきことや、刑事法上の保護については、未刊の第2巻でさらに論証する予定だった——という整理になります。

タッカー ― 同じ個人主義的アナキズムから、正反対の結論へ

ところが、スプーナーと近い思想的環境にいたベンジャミン・タッカーは、知的財産について正反対の結論を出しました。

タッカーは1888年3月10日、『Liberty』誌に掲載した「State Socialism and Anarchism」で、国家による主要な独占を貨幣独占・土地独占・関税独占・特許独占の四つに整理しています。

このうち「特許独占」について、発明者や著者を競争から保護し、一定期間、自然の法則や事実に対する財産権を与えるものだと批判しました。そして、そのような自然の富はすべての人に開かれているべきだと考えました。

つまり、スプーナーが「精神的労働の成果も、物と同じ財産である」と考えたのに対して、タッカーは「発見したというだけで、自然の事実やアイデアを他人から排除する権利は生まれない」と考えたのです。

興味深いのは、この二人が互いを知らない思想家だったわけではないことです。タッカーはスプーナーを高く評価し、スプーナーも『Liberty』に寄稿していました。スプーナーが1887年5月14日に亡くなった際、タッカーは5月28日号に長い追悼文「Our Nestor Taken From Us」を掲載しています。

それでも、知的財産論については容赦がありませんでした。追悼文のなかでタッカーは、スプーナーの『知的財産法』を、彼の著作の中で唯一「明らかに愚かな」ものというほど厳しく批判しています。

ただし、スプーナーとタッカーが知的財産について誌上で直接論争を交わしたわけではありません。スプーナーは1887年に亡くなっています。その後、『Liberty』では1888年から1891年にかけて知的財産をめぐる大規模な論争が展開されましたが、スプーナー型の知的財産権論を擁護したのは、A・H・シンプソン、ヴィクター・ヤロス、ジョン・ベヴァリー・ロビンソンら後続の論者でした。タッカー側にはジェームズ・L・ウォーカー(Tak Kak)やJ・ウィリアム・ロイドらが立ちました。

したがって、「スプーナー vs タッカー」という思想上の対立は確かにあった。しかし、二人が同時期に紙面上で直接応酬した論争ではなかった——というのが正確です。

アイン・ランド ― 発見と発明を分ける

20世紀に強い知的財産権論を展開した思想家の一人が、アイン・ランドです。

ランドにとって、特許と著作権は、国家が創作者に恩恵として与える特権ではありません。彼女は、これらを「すべての財産権の基礎——人が自分の精神の産物に対して持つ権利——を法的に実現したもの」と考えました。1964年の論考「Patents and Copyrights」(後に『Capitalism: The Unknown Ideal』所収)では、特許や著作権が保護するものについて、物質的価値の生産における精神的努力の決定的な役割を強調しています。

「発見」は所有できない。しかし「発明」はできる

ランドの知的財産論で重要なのが、発見(discovery)と発明(invention)の区別です。彼女は「発見は特許にできない。発明だけである」と述べています。

科学者が自然法則や自然界の事実を発見したとしても、その法則自体を作ったわけではありません。したがって、その人が自然法則そのものを排他的に所有することはできない、とランドは考えます。たとえば、ある物理法則を最初に発見した人は、その法則について書いた本の表現を著作権で保護することはできます。また、自分が発見者であることを他人に盗用されないことも要求できます。しかし、理論的知識そのものを他人が利用することまで禁止することはできません。

これに対して、その知識を利用して「自然の中には存在しなかった具体的な対象を作り出す」ことは別だと考えました。発明は、単に自然界にすでに存在していた事実を見つけることではなく、人間の精神によって新しい具体的な価値を生み出す行為です。ランドにとって、特許と著作権が保護するのは、このような精神による創造の成果でした。

しかし、知的財産権は永久ではない

ここでランドは、スプーナーとは異なる結論を出します。ランドも知的財産を本物の財産権だと考えました。しかし、だからといって永久に存続する権利だとは考えませんでした。

その理由は、物理的財産と知的財産の違いにあります。土地、工場、資金などの物理的財産は、相続されても、その量はすでに存在する一定の財産です。これに対して知的財産権を永久化すると、一つの発明についての権利が、まだ生産されていない将来の財産にまで何世代にもわたって及び続けることになります。

ランドは、知的財産が永久に保持されれば、その原理が逆転して「稼得された達成への報酬」ではなく「寄生への不労の扶養」になり、まだ生まれていない世代の生産に対する累積的な先取特権となって、最終的に彼らの生産活動を麻痺させると論じました。彼女は、自動車を一台作るたびに、車輪の発明者から始まる過去のあらゆる発明者の子孫へロイヤルティを支払わなければならない世界を例に挙げています。

さらにランドは、精神的な達成そのものは、知性や能力と同じように他人へ移転することはできないとしたうえで、知的財産権の根拠が「人が自分の精神の産物に対して持つ権利」である以上、その根源的な権利は創作者本人とともに終わると論じています。

では、なぜ死後50年を認めるのか

ここには一見すると矛盾があるように見えます。創作者の権利が本人とともに終わるのであれば、著作権も死亡した瞬間に終了すべきではないでしょうか。

しかしランドは、法律上の保護期間を創作者本人の生涯だけに限定することにも反対しました。たとえば、発明者が発明を市場に出した直後に死亡した場合、製造設備などに巨額の投資をした企業が突然権利を失えば、長期的な契約や投資が非常に困難になります。

そのためランドは、創作者本人の権利だけでなく、その権利を前提として結ばれた契約や投資に関係する人々の権利も保護できるよう、法律が一定の期間を定める必要があると考えました。著作権についてランドは、英国の1911年著作権法が採用していた「著作者の生存期間+死後50年」を「最も合理的な解決」と評価しました。

つまりランドの考えでは、知的財産権の自然権的な根拠は創作者本人の精神的達成にある。しかし法律上の保護期間は、創作者の死亡と機械的に同時終了させるのではなく、取引・契約・投資に関係する権利も考慮して設定する——という二段構えになっています。

特許は、さらに難しい

一方、特許の存続期間についてランドは、一律の答えを提示しませんでした。発明はその後の研究開発の土台になり、複数の特許が重なり合う場合もあります。特許の範囲や期間が広すぎれば、発明者自身が実際に成し遂げた以上のもの——将来の研究や、まだ発見されていない応用——まで支配することになりかねません。

そのため彼女は、特許期間について、発明者が自らの発明から可能な限り十分な利益を得られるようにしながら、他者が独立した研究を進める権利を侵害しない期間を定めなければならないと考えました。具体的に何年が正しいかについては、一律の結論を示していません。

この「Patents and Copyrights」は、1964年5月の『The Objectivist Newsletter』に初出し、のちに1966年刊の『Capitalism: The Unknown Ideal』に収録されました。

⚠ ランド自身は「リバタリアン」を名乗っていない

ここも重要です。ランド自身は、自らを「リバタリアン」とは呼びませんでした。自分の哲学をオブジェクティビズム(Objectivism/客観主義)と呼び、政治的にはレッセフェール資本主義、個人の権利、限定された政府を擁護しました。また、自分たちを「保守派」とも位置づけず、「われわれは資本主義のためのラディカルである」と表現しています。

一方、当時のリバタリアン運動に対しては非常に批判的でした。ランドは、リバタリアンが政府による強制の否定という政治的原則を、十分な哲学的基礎——形而上学・認識論・倫理学——から切り離して扱っていると批判しました。また、とくに無政府主義・無政府資本主義を明確に否定し、権利を守るためには適切に限定された政府が必要だと考えています。

したがって、ランドをそのまま「リバタリアン思想家」と呼ぶのは正確ではありません。しかし、個人の権利、私有財産、自由市場、レッセフェール資本主義を非常に強く擁護した思想家であり、その財産権論は現代のリバタリアン内部の知的財産論争でも重要な参照点になっています。

もう一つの論拠 ― インセンティブ

知的財産権を擁護する論拠には、自然権や財産権そのものから考える議論だけでなく、結果から考える議論もあります。

たとえば、新薬の研究開発には巨額の費用と長い時間がかかります。映画、ソフトウェア、書籍、音楽なども、最初に作品を生み出すまでには、時間・資金・労力が必要です。ところが、完成した成果を複製する費用が、最初にそれを生み出す費用よりはるかに低い場合があります。

もし、他者がその成果をすぐに利用・複製でき、最初に研究開発や創作の費用を負担した人が十分に回収できないのであれば、そもそも新しい発明や作品を生み出すために投資するインセンティブが弱くなるのではないか。これが、知的財産権を擁護する代表的な議論の一つです。

そこで、発明者や創作者に一定期間の排他的な権利を認め、その期間に投資を回収し、利益を得る機会を与える。そうすることで、長期的には研究開発や創作への投資が増え、社会全体として新しい発明や作品が多く生み出される——という考え方です。

特許については、もう一つの効果も指摘されます。発明者に一定期間の独占権を与える代わりに、発明の内容を公開させることです。特許制度がなければ、企業は発明を営業秘密として隠し続けるかもしれません。しかし特許制度では、一定期間の排他的権利と引き換えに技術情報が公開され、その知識をもとに他者がさらに研究したり、別の方法を考案したりすることが期待されます。WIPO(世界知的所有権機関)も、特許制度の基本的な根拠として、研究開発へのインセンティブと技術情報の公開の双方を挙げています。

この考え方では、知的財産権は必ずしも永久に存在する自然権ではありません。むしろ問題になるのは、どの程度の保護を与えれば創作や発明へのインセンティブを十分に確保でき、その一方で、独占による価格上昇、利用の制限、競争や後続の発明・創作への妨げを最小限にできるのかという制度設計です。

保護期間が短すぎれば、研究開発や創作への投資を十分に回収できないかもしれません。しかし長すぎれば、既存の発明や作品を利用した新しい創作や研究を妨げたり、消費者が高い価格を負担したりする可能性があります。したがってインセンティブ論では、「知的財産権があるか、ないか」だけではなく、「どの範囲を、どの程度の期間、どの強さで保護するのが社会全体にとって望ましいのか」が中心的な問いになります。

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04

反対する立場 ― キンセラ

知的財産権に反対する側は、創作者の努力や創作物の価値を否定しているわけではありません。問うているのは、努力して何かを生み出したことから、他人が自分自身の財産をどう使うかまで禁じる権利が生まれるのかという点です。

現代のリバタリアンによる知的財産権批判を代表する論者の一人が、法学者・元弁護士のスティーブン・キンセラです。キンセラは特許実務に携わった経験を持ちながら、特許と著作権の正当性を根本から批判してきました。代表的な論文「Against Intellectual Property」は、2001年に『Journal of Libertarian Studies』第15巻第2号に掲載され、2008年にはミーゼス研究所から単行本として刊行されています。

1 ― 財産権は、希少な資源をめぐる衝突を避けるためにある

キンセラはまず、「なぜそもそも財産権が必要なのか」というところから考えます。彼によれば、財産権の基本的な社会的・倫理的機能は、希少な資源をめぐる対人的な衝突を防ぐことにあります(書籍版 p.29)。

土地、自転車、機械、原材料などの物理的な資源について、二人が互いに両立しない使い方をしようとすれば、衝突が起こります。たとえば、一台の自転車をAさんが東京へ乗っていくのと同時に、Bさんが大阪へ乗っていくことはできません。そこで、「この資源を支配し、使用する権利を誰が持つのか」をあらかじめ決めるルールが必要になります。キンセラにとって、これが財産権の基本的な役割です。

ただし、ここでいう「希少(scarce)」という言葉には注意が必要です。キンセラがこの議論でいう「希少」とは、「珍しい」「価値が高い」「入手するのが難しい」という意味ではありません。重要なのは、ある人によるその資源の使用・支配が、他の人による同じ資源の両立しない使用・支配を排除するという性質です。現在の経済学の用語を使えば、むしろ競合性(rivalrousness)に近い意味です。

実際、キンセラ自身も後年、2001年の論文を振り返って、「scarcity」という語は、ここでは競合性(rivalrousness)という意味で使っていることを、もっと明確にすべきだったと述べています。なぜなら、「優れたアイデアだって希少ではないか」という反論が生じるからです。

確かに、画期的な発明や優れた小説のアイデアは、めったに生まれないという意味では「希少」です。しかしキンセラの議論では、それは問題ではありません。優れたレシピが世界に一つしか知られていなかったとしても、そのレシピをAさんが覚えたあと、Bさんも覚えたからといって、Aさんの頭からレシピが消えるわけではありません。これに対して、一台しかない自転車をBさんが持ち去れば、Aさんはその自転車を使えなくなります。

そこでキンセラは後年、誤解を避けるために、rivalrous(競合的)あるいはconflictable(利用・支配をめぐる衝突が可能な)という言葉を使うことも提案しています。つまり彼の議論で重要なのは、「優れたアイデアが珍しいかどうか」ではなく、「そのアイデアを一人が使うと、他の人が同じアイデアを使えなくなるのか」という違いです。

2 ― アイデアは競合しない

この理解に立つと、アイデアや情報は、物理的な財産と同じ意味では財産権の対象にならない、とキンセラは考えます。

たとえば、私が新しい綿花の収穫方法を考えたとします。あなたがその方法を知り、同じ方法で綿花を収穫しても、私からその方法が失われるわけではありません。私もあなたも、同時にその方法を使うことができます。本についても同じです。ある文章をあなたが複製しても、著者の手元にある原稿や、その文章の情報そのものが消えるわけではありません。

キンセラは、他人がアイデアを使用しても、元の人からその使用可能性が奪われるわけではない。したがって、その使用をめぐって物理的資源と同じ種類の衝突は生じず、アイデアは財産権の対象にはならないという趣旨を述べています(書籍版 pp.32–33)。

ここで重要なのは、「アイデアをめぐって人間同士が争わない」という意味ではありません。誰が発明したのか、誰が利益を得るのか、誰が作品を販売するのかをめぐって、人間同士が争うことは当然あります。キンセラが言っているのは、もっと限定されたことです——一人がその情報を利用することによって、もう一人が同じ情報を利用できなくなるわけではない。この意味で、情報は自転車や土地のような物理的資源とは異なる、と考えます。

3 ― 知的財産権は、他人の物への権利なのか

ここからキンセラは、さらに強い主張へ進みます。知的財産権は、新しい種類の財産権を単純に追加する制度ではない。ある人に知的財産権を与えるためには、すでに他の人が所有している物理的財産の使い方を制限しなければならないのではないか、という議論です。

たとえば、あなたが小説を書き、私がその本を一冊買ったとします。その後、私が自分で所有する紙、インク、コンピューター、プリンターを使い、その文章を複製して販売しようとしたとします。通常の著作権制度では、私は、自分が紙やプリンターを所有しているという理由だけで自由に複製・販売できるわけではありません。著作権者には、「あなた自身の紙やプリンターであっても、その特定の表現をその方法で複製してはならない」と法的に主張できる場合があります。

キンセラは、この関係を通常とは逆の方向から捉えます。彼によれば、知的財産権は「パターンの創作者に、他のすべての人の有体財産に対する部分的な支配権——所有権——を与える」制度です。彼は著作者Xと第三者Yの例を使い、Xの著作権によって、Yが「Y自身の白紙にY自身のインクで」特定の語の配列を書くことまで禁止できる、と説明します(同 p.35)。

特許でも同じだ、とキンセラは考えます。Aさんが新しい井戸の掘削方法を発明して特許を取得すれば、BさんがAさんの土地や道具を使わなくても、Bさん自身の土地とBさん自身の道具を使って同じ方法で井戸を掘ることを禁止できる場合があります。

このためキンセラは、特許や著作権について、創作者が、自分では最初に取得していない他人の物理的財産に対して、部分的な支配権を獲得する仕組みになっていると批判します。

もともとBさんが自分の土地、紙、インク、機械などについて持っていた所有権には、「自分の物を、自分が望む方法で使用できる」という権能があります。ところが知的財産権を認めると、「ただし、Aさんが先に考えた特定のパターン・発明・表現を再現する方法では使用してはならない」という新しい制限が加わります。キンセラはこのため、知的財産権は物理的財産の所有者から著作者・発明者へ「部分的な所有権を移転する」ものだと表現します。

つまり彼の問いは、次のものです。

アイデアを生み出したという事実によって、なぜすでに他人が正当に所有している物について、新たな支配権を獲得できるのか。

4 ― 独立発明を禁止してよいのか

特許では、この問題がとくに鮮明になります。前に見たとおり、ある発明について特許権が成立すると、別の人がその発明にまったく独立して到達した場合でも、原則として、その人は特許権者の許諾なしに業として実施することはできません。

Bさんは、Aさんから何も盗んでいません。Aさんの研究資料を盗み見たわけでもなく、営業秘密を不正に取得したわけでもなく、契約に違反したわけでもありません。それでもBさんは、自分の工場、自分の材料、自分の知識を使って、その発明を実施することを制限されます。

誰かが先に同じことを考え、国家から排他的権利を得たという理由だけで、あとから独立して同じ発明に到達した人が、自分自身の財産を使うことまで禁止できるのか。

特許制度を擁護する側は、一定期間の排他的権利を認めなければ、研究開発への投資を十分に回収できず、発明へのインセンティブが弱くなる可能性があると答えます。これに対してキンセラは、BさんがAさんの権利を侵害したというためには、まずAさんがBさんの工場・材料・行動を制限できる権利を、なぜ持つのかを説明しなければならない、と考えます。

つまりここでも、「発明へのインセンティブを作ること」と「他人の正当な財産の使い方を制限する権利を認めること」は同じなのかという問題が残ります。

5 ― 独占が、次の発明や創作を妨げることもある

発明や創作は、しばしば完全なゼロから生まれるわけではありません。新しい技術は既存の技術を改良し、複数の発明を組み合わせ、その上にさらに新しい発明を積み重ねることで発展します。経済学では、この性質を累積的イノベーション(cumulative innovation)と呼ぶことがあります。

このとき、知的財産権には二つの反対方向の効果が生じる可能性があります。一方では、発明者や創作者に一定の排他的権利を与えることで、最初の研究開発や創作への投資を促す可能性があります。しかし他方では、その権利を利用しなければ次の研究開発ができない場合、後続の発明者はライセンスを得たり、既存の権利を回避するために追加の費用を負担したりする必要があります。ライセンス交渉が成立しなければ、後続の発明を市場で実施できない場合さえあります。

特許の場合、とくに重要なのが改良発明です。ある発明Bが、それ自体では新規性・進歩性を持ち、新たな特許を取得できるとしても、その実施に先行するAの特許発明を利用する必要があれば、Bの発明者は自分の特許を持っていても、Aの許諾なしには自由に実施できない場合があります。つまり、「改良発明について自分も特許を持っている」ことと、「その発明を自由に実施できる」ことは同じではありません。

一方、著作権については少し事情が異なります。著作権はアイデアそのものを保護するわけではないため、既存作品から発想やテーマを得て、独自の表現で新しい作品を作ること自体は禁止されません。しかし、既存作品の創作的表現を翻訳・脚色・編曲・映画化するなどして二次的著作物を作る場合には、原則として原著作者の翻案権等が問題になります。

したがって、「知的財産権を強くすれば発明や創作が必ず増える」と単純には言えません。保護を強めれば、最初の発明や創作への投資を促す可能性がある一方で、その成果を利用して行われる次の発明や創作のコストを高める可能性もあるからです。

したがって、結果から知的財産制度を擁護するインセンティブ論であっても、最初の創作者へのインセンティブ後続する発明・創作の自由の両方を考えなければなりません。どちらの効果が大きいのかは、特許か著作権か、産業分野、技術の性質、保護期間や権利範囲などによって変わりうる、というのが重要な点です。

⚠ 「コピー」と「なりすまし」は別の問題です

知的財産権に反対する立場を、盗作や偽装、詐欺まで容認する立場と理解するのは正確ではありません。これらは、別々の問題だからです。

  • コピーそのもの ― 他人の作品や情報を複製しても、それによって元の持ち主がその作品や情報を利用できなくなるわけではありません。知的財産権に反対する側が問題にしているのは、まさにこのような非競合的な情報について、なぜ排他的な財産権を設定できるのかという点です
  • 著作者を偽ること ― 他人が書いた文章を、自分が書いたものだと発表することは「コピー」とは別です。これは一般に盗作(plagiarism)と呼ばれ、学術上・倫理上の重大な不正になりえます。ただし、盗作であるというだけで、リバタリアンの財産権論上ただちに「権利侵害」になるとは限りません
  • 買い手をだますこと ― たとえば、Aさんが書いた本をコピーして、「これは私が書いた新作です」と偽り、その説明を信じた人から代金を受け取ったとします。この場合には、単なるコピーとは別に、商品の著者や来歴について虚偽の説明をして取引を成立させたという詐欺の問題が生じえます
  • 契約に違反すること ― 「この情報を第三者に開示しない」「この原稿を複製しない」と合意して情報や物を受け取った人が、その合意に反する行為をした場合には、知的財産権とは別に契約違反の問題が生じます

したがって、知的財産権を否定するリバタリアンであっても、「コピーを禁止する知的財産権を否定すること」と、「嘘をついて他人から財産を得ることや、合意した契約を破ることを認めること」は別だと考えることができます。キンセラ自身も、特許・著作権への反対は、詐欺、不誠実、盗作、契約違反を支持することを意味しないと明確に区別しています。

商標についても、さらに区別が必要です

ここは少し複雑です。たとえば、B社が自社で作った時計に「A社製」と偽って表示し、それを本物のA社製品だと信じた消費者に販売したとします。

この場合、「A社がその商標という文字列や記号を所有しているから違法だ」と考えるのか、「買い手に商品の出所について嘘をついて取引したから詐欺だ」と考えるのかでは、理論的な根拠が違います。知的財産権に反対するリバタリアンの中には、後者の詐欺の禁止だけで対処できると考える人もいます。

実際キンセラは、現行の商標法についても批判的です。商標法は実際の詐欺を証明しなくても、「混同のおそれ」などによって権利行使が可能であり、場合によっては買い手自身が模倣品だと知っている取引まで規制するため、単純な詐欺禁止とは同じではないと論じています。

したがって、「偽装販売に反対すること」と「現在の商標権制度を全面的に支持すること」も同じではありません。知的財産権を否定しても、商品の出所について嘘をついて買い手を欺く行為まで正当化する必要はない、ということです。

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05

ロスバードの分割 ― 特許は否定、契約型の著作権は認める

ここで興味深いのがマレー・ロスバードの立場です。彼は、特許と著作権を同じ種類の権利として扱いませんでした。

国家が与える特許には反対する。しかし、契約にもとづく著作権は認める。

一見すると不思議な組み合わせですが、ロスバードにとっては、どちらも同じ財産権原理から導かれる結論でした。

特許は、国家による独占特権

ロスバードは『Man, Economy, and State with Power and Market』第10章第7節「Patents and Copyrights」で、特許を自由市場と両立しない制度として批判しました。その理由として重要なのが、独立発明です。

Aさんがある機械を発明し、特許を取得したとします。その後、遠く離れた場所にいるBさんが、Aさんの発明について何も知らないまま、まったく独力で同じ機械を発明したとします。

BさんはAさんから何も盗んでいません。設計図を盗んだわけでも、営業秘密を不正に入手したわけでも、Aさんと交わした契約に違反したわけでもありません。それでも特許権が有効であるかぎり、Bさんは原則として、自分の発明を自由に実施することができません。

ロスバードは、ここに特許制度の根本的な問題があると考えました。もしAさんの発明品や設計図をBさんが盗んだのであれば、特許は必要ありません。通常の財産権の原理によって、それは盗みとして禁止できます。しかし独立発明の場合、BさんはAさんの財産を奪っていません。それにもかかわらず特許制度は、Bさんが自分自身の知識、自分自身の材料、自分自身の機械や工場を使って発明を実施することを禁止します。

そのためロスバードは、特許について、財産権を守る制度ではなく、国家が特許権者に与える独占特権であり、むしろ独立発明者の財産権を侵害すると考えました。彼自身、特許は独立して同じアイデアや発明を発見した人々の財産権を侵害すると論じています。

したがって、ロスバードにとって問題なのは「最初に発明した人を尊重すべきか」ということではありません。問題は、最初の発明者が発明したという事実から、なぜまったく独立して同じ発明に到達した他人の財産の使い方まで支配する権利が生まれるのかということです。この点で、ロスバードの特許批判は、後のキンセラの知的財産権批判と非常に近いものになっています。

著作権は、契約として成立しうる

一方、ロスバードは著作権について、特許とは異なる考え方を示しました。ただし、ここでいう「著作権」は、現在の著作権法そのものではありません。ロスバードが認めたのは、物を売る際に、所有権の一部を売り手が留保するという契約・財産権にもとづく著作権です。

たとえば、著者が本を販売するとき、その本についての権利をすべて買い手へ譲るのではなく、「この本を複製して販売する権利は譲らない」という条件で売ることができる、と考えます。

『Man, Economy, and State』でロスバードは、著者は買い手に財産を丸ごと売るのではなく、その作品を複製・再生産して販売しないという条件で売るという趣旨を述べています。買い手は、その条件を含めて本を購入した以上、それに反して複製・販売すれば、ロスバードの理論では単なる「コピー」ではなく、契約違反であり、留保されていた財産権の侵害になります。

そして重要なのは、ロスバードがこの仕組みを本や音楽だけに限定していないことです。発明者も、自分の機械に “copyright” と表示し、「この機械を購入する者には、同じ機械を複製して販売する権利は譲らない」という条件で販売できる、と考えました。

つまりロスバードは、発明を何らかの形で保護すること自体を否定したわけではありません。彼が否定したのは、国家が特許権者に与え、その発明をまったく独立して考え出した第三者にまで及ぶ特許制度です。彼自身の言葉では——「特許が自由市場と両立しないのは、まさにそれが著作権を超える範囲においてである」

本質的な違いは、「文芸か機械か」ではない

したがってロスバードにとって、「特許=機械」「著作権=文学」という分類そのものには、本質的な意味がありません。彼が重視するのは、その権利が、創作者から物を取得した人との契約・権原関係にもとづくものなのか。それとも、その創作者とは何の関係もなく、独立して同じものに到達した人まで排除するのか。という違いです。

ロスバードは当時の著作権について、侵害を主張する側は、被告が元の作品に「接近(access)」していたことを立証する必要があり、偶然まったく同一の作品を独立して作っただけなら侵害にならない、と説明します。したがって、彼の理解では、元の作品を知り、それを複製した場合と、元の作品を知らず、独力で同じものを生み出した場合が区別されます。これに対して特許は、後者まで禁止します。

この違いからロスバードは、文芸作品と機械発明に現在のように著作権と特許を割り当てることは、むしろ「特に不適切」だとまで論じました。文芸作品は個人に固有の創作物であり、他人がまったく独立して同一の作品を作ることはほとんどありません。これに対して機械的発明は、ロスバードによれば、個人的創作であるだけでなく自然法則の発見という側面を持つため、複数の人が互いを知らないまま同種の発明へ到達することが頻繁にあります。そのため彼は、文芸作品に特許、機械的発明に著作権を適用するほうが、自由市場にはむしろ適合するという、一見すると逆転した結論まで示しています。

もちろん、これは実際に「小説へ国家特許を導入すべきだ」という政策提案ではありません。ロスバードが言いたいのは、独立創作まで排除する特許型の権利が文芸作品では実際上ほとんど追加的な制約にならない一方、独立発明が頻繁に起こる機械分野では大きな財産権侵害になる、ということです。

『自由の倫理学』のネズミ捕り

ロスバードは『The Ethics of Liberty(自由の倫理学)』第16章「Knowledge, True and False」で、この契約型著作権をさらに具体的に説明しています。

ブラウンが改良型のネズミ捕りを作り、それぞれに “copyright Mr. Brown” と表示して販売したとします。ロスバードによれば、ブラウンが売っているのは、ネズミ捕りについての完全な所有権ではありません。買い手には、そのネズミ捕りについて、それを他人へ販売すること、または同一の複製品を作って販売することを除く権利だけが移転される、と考えます。つまり、売り手であるブラウンが、一定の権利を永久に留保しているという構成です。

このため、買い手のグリーンが同じネズミ捕りを作って販売すれば、ロスバードの理論では、ブラウンとの契約とブラウンが留保した財産権への侵害になります。

そしてロスバードは、さらに一歩進みます。グリーンとブラウンの契約に参加していない第三者ブラックが、グリーンのネズミ捕りを見て同一品を作った場合についても、ブラックはグリーン以上の権原を取得することはできないとして、ブラウンの留保した権利に拘束されると論じています。

ここが、ロスバードの契約型著作権の最も論争的な部分です。

契約は、契約した本人だけでなく、その後に物や情報を取得した第三者にまで、どこまで引き継がれるのか。

ここが重要です ― ロスバード型は、単純に「弱い著作権」ではない

「特許には反対し、契約型の著作権は認める」と聞くと、現在の知的財産制度を大幅に弱めた穏当な中間案のように見えるかもしれません。しかし、ロスバードの議論を詳しく見ると、それほど単純ではありません。

なお以下では、現在の著作権法上の権利と区別するため、ロスバードが論じた契約型の権利については、彼自身の表記に合わせて copyright と記します。

比較点日本の現行著作権ロスバードの契約型copyright
権利の根拠法律により、著作物の創作時に自動的に発生売買時に一部の権利を売り手が留保する契約・権原移転
期間原則として著作者の死後70年永久
対象著作物の創作的な「表現」文芸作品だけでなく、機械・発明品などにも適用可能
契約していない第三者法律上の権利なので、契約関係がなくても複製等を行えば権利が及びうる。ただし独立創作には原則として及ばないブラウンと契約していないブラックにも、ブラウンから派生した物・情報を通じて知った場合には権利が及ぶとロスバードは主張
独立創作・独立発明著作権は独立創作には原則として及ばない。特許は独立発明にも原則として及ぶ独立して同じ作品・発明に到達した者には及ばない

日本の著作権は、原則として著作者の死後70年まで存続します。これに対してロスバードは、自由市場におけるcopyrightについて明確に永久(perpetual)であるべきだと述べています。『Man, Economy, and State』では、自由市場では、copyrightは一定年数に限定されず永久であるとし、完全な財産であるならば、その人と相続人・譲受人の財産として永久に存続すべきだと論じています。

さらに、このcopyrightは文学や音楽だけに限定されません。ロスバードは、発明者が機械に “copyright” と表示し、「この機械を購入しても、同じ機械を複製して販売する権利までは取得しない」という条件で売ることも認めています。したがって、現行著作権法では著作物にならない機械や発明品についても、ロスバード型の契約による複製制限を設定できることになります。

契約していない第三者まで拘束されるのか

さらに論争的なのが、第三者の問題です。『自由の倫理学』第16章のネズミ捕りの例では、ブラウンがグリーンへ、複製・販売権の一部を留保してネズミ捕りを売ります。ここまではブラウンとグリーンの契約です。

しかし、そのネズミ捕りを見たブラックはブラウンと何の契約もしていません。それでもロスバードは、「誰も、すでに譲渡・売却された以上の財産権原を取得することはできない」という原則を使って、ブラックもブラウンの留保した権利に拘束されると論じます。グリーン自身が複製して販売する権原を持っていない以上、ブラックも、グリーンのネズミ捕りを見ることによって、それ以上の権原を取得することはできない——という説明です。ロスバードは、ブラックがブラウンと実際には契約していなくても、ブラウンの財産権を侵害することになると明記しています。

ここが、後にキンセラが強く批判した点です。キンセラは、契約は契約当事者を拘束することはできても、契約していない第三者を拘束することはできないと考えます。ブラックはブラウンと契約していません。そしてブラックが自分の頭で得た知識と、自分自身の材料・機械を使ってネズミ捕りを作るのであれば、なぜブラウンにそれを止める権利があるのか——という批判です。キンセラは、契約による義務は当事者間のもの(in personam)であって、物権のように世界中の第三者に対して効力を持つ(in rem)ものではない、と論じています。

ただし、独立発明者までは拘束しない

ここは非常に重要です。ロスバードの契約型copyright(contractual copyright)が第三者に及ぶからといって、世界中のすべての第三者に及ぶわけではありません。

ブラックがブラウンやグリーンのネズミ捕りを見ることもなく、そこから情報を得ることもなく、まったく独立して同じネズミ捕りを発明したのであれば、ロスバードはその発明を自由に使用・販売することを認めます。これは、彼が特許を否定した理由そのものです。

したがって、ロスバード型copyrightは、契約していない一定の第三者にまで及ぶ。しかし、完全な独立創作者・独立発明者にまでは及ばない。という区別が必要です。

では、現行法より強いのか、弱いのか

結論は、単純には比較できません。ロスバード型のほうが弱い部分もあります——国家による特許制度を廃止する、独立発明者を排除しない、独立創作者も排除しない、国家が創作したというだけで一律に知的財産権を付与するという構成ではない。

しかし一方で、現在の制度より強くなりうる部分もあります——権利が永久である、機械・発明品などにも契約型copyrightを設定できる、契約していない一定の第三者にも効力が及ぶとロスバードは考える、現行特許法の新規性・進歩性のような要件とは別に売買契約によって複製制限を設定できる。

そのため、「自由市場なら知的財産の保護は必ず現在より小さくなる」と考えてロスバードを引用するのは正確ではありません。キンセラも、ロスバードの契約型の知的財産保護について、現在の知的財産法より「多くの点で広く、より悪い」と評しています。彼が特に問題にするのは、現在の特許制度なら特許対象となる発明に一定の要件と期限があるのに対し、ロスバードの契約型制度では、より広い種類の物について複製制限を設定でき、しかもその権利が永久になりうる点です。

したがってロスバードの立場は、「国家の知的財産制度をなくせば、知的創作についての排他的権利も小さくなる」という単純なものではありません。むしろ、国家特許は廃止する。しかし、財産権と契約から導かれる複製制限については、非常に強い権利を認める。という独特の立場です。

キンセラの反論 ― 契約は第三者を拘束するのか

キンセラは『Against Intellectual Property』の「Contract vs. Reserved Rights」で、ロスバードの契約型著作権を名指しで批判します。

まずキンセラも、契約によって複製を制限すること自体は認めます。たとえばAが本をBに「この本を複製しないこと」という条件で売り、Bがそれに同意したのであれば、Bはその契約に拘束されます。Bが約束に反して複製すれば、契約違反の問題になります。

しかしキンセラによれば、ここから契約していない第三者まで拘束することはできません。彼は、特許や著作権と契約の違いをこう整理します。

「特許と著作権は、契約に同意したかどうかにかかわらず、すべての第三者に対して効力を持つ。それは万人を拘束する物権であり、私の土地の権原が——契約がなくとも——万人にそれを尊重するよう拘束するのと同じである。これに対して契約は、契約の当事者のみを拘束する。それは当事者間の私的な法にすぎず、当初の当事者と契約関係(privity)にない第三者を拘束しない」

そこで問題になるのが、ロスバードのネズミ捕りの例です。ブラウンがグリーンに「このネズミ捕りを複製しないこと」という条件で売ったとします。グリーンがその条件に同意したのであれば、グリーンが拘束されることについて、キンセラは大きな問題を認めません。

しかしブラックは違います。ブラックはブラウンと契約していません。ただグリーンのネズミ捕りを見て、その仕組みを理解し、自分の材料を使って同じネズミ捕りを作っただけです。

ロスバードは、「誰も、自分が持っている以上の財産権原を他人へ移すことはできない」という原則から、グリーンが複製権を持っていない以上、ブラックもそれ以上の権原を取得できないと考えました。これに対してキンセラは、その理屈は成り立たないと批判します。なぜなら、ブラックがグリーンから取得したのは、ネズミ捕りについての「複製権」という財産権ではなく、単にそれを見て得た知識だからです。そしてキンセラの理論では、そもそもアイデアや情報は希少な物理的資源ではなく、所有権の対象ではありません。したがって、「グリーンはその情報について完全な権原を持っていなかったから、ブラックも完全な権原を持てない」というロスバードの説明そのものが、情報を所有可能な財産として扱ってしまっている、と批判します。

キンセラにとって、ブラックが問われるべきなのは、ブラウンの財産を侵害したのか。ブラウンと契約したのか。あるいは、不法侵入や窃盗などによって情報を不正に入手したのか。という点です。そのいずれでもなく、単に他人のネズミ捕りを見て仕組みを知ったのであれば、ブラックは自分の知識と自分の財産を使うことができる、と考えます。

「権利を留保した」という言い換えでも解決しない

ロスバード側は、「これは単なる契約ではない。ブラウンはネズミ捕りを売るときに、複製する権利だけを自分のもとに留保したのだ」と説明します。土地について、地上部分、地下の鉱業権、通行地役権などを分けて譲渡できるのと同じように、所有権を複数の権能の「束」と考え、その一部だけを売るという発想です。

しかしキンセラは、この「権利留保(reserved rights)」という説明も認めません。彼によれば、これは結局、契約はその契約に参加した人しか拘束できないという問題を、「売らなかった権利が物に付着している」と言い換えることで回避しようとしているにすぎないからです。

キンセラは、情報を知った第三者について、その人自身が契約上の義務を負っているか、あるいはその情報を得る際に他者の権利を侵害したのでないかぎり、その知識を自分の財産に利用することを禁止することはできないと考えます。2009年の要約「The Case Against IP: A Concise Guide」でも、同じネズミ捕りの例を使って、グリーンがブラウンに「複製しない」と約束したとしても、ブラックはブラウンと何の合意もしていない——したがってブラウンには、ブラックがブラック自身の財産と知識を使うことを契約によって禁止する権利はない、と結論しています。

ここで争われているのは、単なる著作権制度の問題ではありません。

契約による義務は、どこまで物に付着して第三者へ引き継がれるのか。契約上の義務と、万人に対して主張できる財産権との境界はどこにあるのか。

これは、契約と財産権そのものの問題です。

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06

知的財産がなければ、創作は減るのか

ここまでは、主として権利の話でした。しかし、ここからは別の問いです。

「自然権として知的財産権は正当なのか」と「知的財産制度は、結果として発明や創作を増やすのか」は、論理的には別の問題です。前者に「正当ではない」と答えながら、後者には「制度があるほうが発明は増える」と答えることもできます。逆に、「創作者には本来、自分の作品への権利がある」と考えながら、現在の特許・著作権制度については「かえって創作を妨げている」と評価することも可能です。この二つを混ぜると、議論が噛み合わなくなります。

擁護する側の懸念

研究開発や創作には、最初に大きな費用がかかる一方、完成した成果を複製・利用する追加費用が非常に小さい分野があります。新薬、映画、ソフトウェアなどが代表例です。

新薬の研究開発に巨額の費用をかけても、完成した成果を他社が研究開発費を負担せずに利用できるのであれば、最初に投資した企業はその費用を十分に回収できないかもしれません。そうなれば、「成功してもすぐに他社に追随されるのなら、最初から巨額の研究開発費を負担する意味がない」と考える企業が増え、将来の研究開発への投資が減るのではないか。これが、知的財産制度を擁護する代表的なインセンティブ論です。

この立場から見ると、一定期間の排他的権利は、単に競争を妨げるための制度ではありません。現在の競争を一定期間制限することによって、新しい発明や創作への投資を促し、将来の競争と創造を生み出すための仕組みだと説明されます。

特許には「公開」という側面もある

特許制度には、もう一つ重要な特徴があります。発明の内容を社会に公開する仕組みです。

日本では、特許出願は原則として、出願の日から1年6か月を経過すると公開されます(特許法第64条第1項)。さらに、特許を受けるための明細書には、その発明の属する技術分野について通常の知識を持つ者が「その実施をすることができる程度に明確かつ十分に」発明を記載することが求められます(同法第36条第4項第1号)。これは実施可能要件と呼ばれ、特許庁は、明細書が技術文献としての役割を果たし、発明の公開に意味を持たせるための重要な要件だと説明しています。

そのため、特許制度はしばしば「発明を社会に公開する代わりに、発明者へ一定期間の排他的権利を与える制度」と説明されます。特許庁の資料にも、特許制度は発明を公開した者に対し、その代償として一定期間・一定条件で独占権を付与する制度だという説明があります。

ただし、この説明は少し正確に理解する必要があります。法律上、「公開したことに対する代償として特許権を与える」とそのまま一文で定められているわけではありません。出願公開と特許権の成立は、制度上は別の手続だからです。

特許権が成立するには審査を経て特許査定を受け、設定登録されなければなりません。しかし、出願公開はそれより前に行われることがあります。そのため、最終的に特許を取得できなかった出願でも、1年6か月の時点で出願が係属していれば公開されることがあります。一方で、1年6か月を迎える前に出願が取り下げられた、放棄された、却下された、拒絶査定が確定した場合には、原則として公開特許公報は発行されません。

したがって、「特許を取得した人だけが、独占権との交換で発明を公開する」という単純な一対一の仕組みではありません。それでも、特許制度全体として、技術を秘密のまま抱え込ませるのではなく、明細書として社会に公開し、その蓄積を後続の研究開発に利用できるようにするという役割を持たせていることは確かです。

公開されない例外もある

さらに2024年5月1日からは、経済安全保障推進法にもとづく「特許出願の非公開制度」が始まりました。特許出願に、公開することで国家・国民の安全を損なうおそれが大きい一定の発明が含まれる場合には、「保全指定」によって出願公開が留保されます。その間は出願公開だけでなく、特許査定・拒絶査定などの特許手続も留保され、発明内容の開示や一定の実施も原則として制限されます。保全指定中は、出願を取り下げて制度から離脱することもできません。

したがって、現在の日本でも「すべての特許出願は必ず1年6か月後に公開される」わけではありません。

公開がなければ、秘密にされるのか

知的財産制度を擁護する側は、ここからさらに議論します。もし特許制度がなく、発明を公開しても排他的権利を得られないのであれば、企業は技術を公開するより、営業秘密としてできるだけ長く隠しておくほうを選ぶのではないか。そうなれば、他の研究者や企業は、どのような技術がすでに開発されているのか、どのような方法で問題が解決されたのか、その技術をさらにどう改良できるのかを知ることが難しくなり、社会全体として技術知識の蓄積や共有が遅くなる可能性があります。

したがって、特許制度を擁護する側は、研究開発へのインセンティブを与えること発明を公開させ、技術情報を社会に蓄積することという二つの効果を重視します。

ただし、これもまた制度を正当化するための仮説・議論です。実際に特許制度がなければ企業がどれだけ営業秘密化するのか、特許による公開が後続イノベーションをどれだけ促すのか、そして特許による独占が後続研究をどれだけ妨げるのかは、別途、実証的に検討しなければなりません。「特許制度には公開の仕組みがある」という制度上の事実と、「その公開によって、社会全体のイノベーションが増える」という結果についての主張は、分けて考える必要があります。

反対する側の反論

これに対して、知的財産権に懐疑的な側は、特許や著作権がなければ、創作者や企業が利益を得る方法がなくなるわけではないと指摘します。知的財産権以外にも、発明や創作への投資を回収する方法には、たとえば次のようなものがあります。

  • 先行者利益 ― 競争相手より早く市場へ出ることで、顧客や市場シェアを獲得する
  • ブランドと評判 ― 「本物」「公式」「この作者・企業から買いたい」という信頼を価値にする
  • 営業秘密 ― 公開せず、製造方法やノウハウを秘密として保持する
  • 契約 ― 秘密保持契約や利用条件など、当事者間の合意によって情報を保護する
  • 会員制・購読・サブスクリプション
  • 予約販売・寄付・クラウドファンディング ― 作品や研究が完成する前に資金を集める
  • 公演・コンサート・講演・サポートなど、コピーしにくいサービスとの組み合わせ
  • 賞金や研究助成 ― 特定の問題を解決した者へ報酬を与える
  • 補完的な商品・サービス ― 情報自体ではなく、それと組み合わせた商品やサービスから利益を得る

イノベーション研究でも、企業が発明から利益を得る手段は特許だけではなく、先行者利益、秘密保持、補完的資産など複数存在することが知られています。また、発明を促す仕組みとして、特許以外に賞金やオープンな知識共有が用いられてきた事例も研究されています。

ただし、これらがすべての産業で特許や著作権を完全に代替できると証明されているわけではありません。たとえば、先行者利益が十分大きい産業もあれば、巨額の研究開発費が必要で、模倣が容易なため、それだけでは投資回収が難しいと考えられる産業もあります。反対論者が指摘するのは、「特許・著作権がなければ誰も発明・創作しなくなる」ことを当然の前提にしてはいけないということです。

一方、知的財産権にはコストもあります。ある企業にとって特許が研究開発へのインセンティブになる一方、その特許を避けなければならない別の企業にとっては、研究開発の障害になる可能性があります。後発企業は、特許調査、ライセンス交渉、回避設計、訴訟への対応、他社の権利を侵害していないかを確認するための費用などを負担します。複数の特許が重なり合う分野では、後続の研究開発に必要な権利を多数の権利者から取得しなければならないこともあります。

したがって、知的財産権が発明を促す効果だけでなく、後続の発明を妨げる効果も同時に考える必要があります。実際、特許とイノベーションについての実証研究は、最初の発明への効果、情報公開の効果、後続イノベーションへの効果などを分けて検討しており、単純な一方向の結論にはなっていません。

ただし、「反対する側」の中でも理由は違う

ここは重要です。結果から知的財産権に反対・懐疑的になる立場なら、問われるのは「特許・著作権による発明促進の利益と、価格上昇、訴訟費用、後続イノベーションの阻害などの費用を比べたとき、どの制度が最もよい結果を生むのか」という実証的な問題です。この立場では、分野によって結論が違う可能性もあります。

しかし、キンセラのような権利論的な反対論は別です。キンセラにとって、知的財産権が正当な物理的財産権を侵害するのであれば、「では保護期間を20年ではなく10年にすればよい」という問題ではありません。彼の立場では、仮に特許が発明へのインセンティブを増やすとしても、それだけで他人の財産権を侵害する制度を正当化することはできません。実際キンセラ自身も、著作者が知的財産権のない世界でどう報酬を得るかと問われた際、具体的な市場の仕組みは市場参加者が発見する問題であり、知的財産権への批判の正当性を「知的財産権がなくても同じ量の創作が行われる」と証明できるかどうかに依存させるべきではない、という立場を明確にしています。

したがって、このページでは二つの問いを最後まで分ける必要があります。

  • ① 権利の問い ― 知的財産権は、そもそも正当な財産権なのか
  • ② 結果の問い ― 特許や著作権は、実際に社会全体の発明・創作・普及をどの程度増やしているのか

この二つについて、リバタリアンの間でも結論は一致していません。

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07

結論が割れる4つの難問

1 ― 独立して同じ発明をした人を、止めてよいか

AさんとBさんが互いの研究をまったく知らないまま、それぞれ独立して同じ発明に到達したとします。BさんはAさんの設計図を盗んでいません。営業秘密を不正に取得したわけでも、契約に違反したわけでもありません。それでも、Aさん側に特許権が成立すれば、Bさんは原則として、自分が独力で考え出した発明であっても自由に事業として実施することはできません。これは正当でしょうか。

権利論から擁護する側——発明は人間の知性と労働によって生み出された成果であり、発明者には一定の排他的権利を認めるべきだと考える。独立発明をどこまで例外にするかは別としても、創作者の成果を無制限に他人が利用できるなら、その権利は十分に保護されない。

インセンティブから擁護する側——独立発明者を含めて一定期間の排他的権利を認めなければ、研究開発費を負担した企業が投資を回収しにくくなる。特許は個々の模倣行為を罰するためというより、将来の研究開発を促すために一定期間の排他性を与える制度だと考える。

反対する側——BさんはAさんの財産を何も侵害していない。Aさんから情報を得たわけでもない。それにもかかわらず、Aさんに、Bさん自身の知識・工場・材料・機械の使い方を禁止する権利を与えるのはなぜか、と問う。

ここで特に重要なのは、「コピーした人を禁止すること」と「独立して同じ発明をした人まで禁止すること」は別だという点です。

日本の特許制度にも、この問題に関連する先使用権があります(特許法第79条)。他人の発明を知らずに独立して同じ発明をし、他人の特許出願の時点ですでに日本国内でその発明を実施する事業を行っていた、またはその事業の準備に入っていた者には、一定の範囲でその発明を引き続き実施できる通常実施権が認められます。特許庁は、この制度を特許権者と先使用者との間の公平を図るための制度と説明しています。

しかし、先に独立して発明を完成させただけでは十分ではありません。他人の出願時点で、まだその発明の実施事業も、その事業の準備もしていなければ、先使用権による保護は原則として受けられません。したがって、現在の制度も「独立発明なら常に自由に使える」というルールを採っているわけではありません。

ここで問われているのは、発明への排他的権利を認めるためには「他人からコピーしたこと」が必要なのか。それとも、一定の発明について先に法的権利を取得したというだけで、独立して同じ発明に到達した人まで排除してよいのか。という、特許制度の根本に関わる問いです。

2 ― 本を買ったら、何を買ったことになるのか

本を購入した人は、紙とインクだけを買ったのでしょうか。それとも、そこに記された内容を一定の条件で利用する権利まで買ったのでしょうか。

前者なら、買った本を使って何をするかは原則として所有者の自由です。後者なら、「読むことはできるが、コピーして販売することはできない」という権利の束を購入したと考えることになります。ロスバードの契約型著作権は、後者に近い考え方です。

3 ― 権利は何年続くべきか

物理的な財産権は、20年後や70年後に突然消えるとは考えません。

では、知的財産が本当に普通の財産と同じなら、なぜ期限があるのでしょうか。逆に、期限が必要だとすれば、それは知的財産権が通常の財産権とは異なることを示しているのでしょうか。

この問いに、擁護する側の中でも答えが割れています。ランドは知的財産権を擁護しながら永久の権利とは考えませんでした。スプーナーは自然権として非常に強く捉え、政府が期限を設定すること自体に反対しました。ロスバードの契約型著作権は、期間の定めがありません。

4 ― AIは何を変えるのか

生成AIは、この古い論争を再び身近なものにしました。

大量の文章や画像を解析して学習することは、創作者の権利を侵害するのでしょうか。人間も過去の作品を読み、学び、そこから新しい作品を作ります。AIの学習はそれと同じなのか、それとも規模と方法が異なるため、まったく別の問題なのでしょうか。

日本の現行制度では、著作権法第30条の4が、情報解析のように「著作物に表現された思想又は感情の享受を目的としない」利用について、権利者の許諾なく利用できると定めています。ただし無条件ではありません。「その必要と認められる限度において」という枠があり、さらに「当該著作物の種類及び用途並びに当該利用の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない」というただし書があります。

文化審議会著作権分科会法制度小委員会が2024年3月にまとめた「AIと著作権に関する考え方について」は、享受目的が一つでも併存すれば同条は適用されないこと、情報解析用に整理されたデータベースの著作物を情報解析目的で複製する行為などはただし書に当たりうること、生成・利用の段階の著作権侵害は従来どおり判断されることを整理しています。「日本ではAI学習が全面的に自由」という要約は正確ではありません。同文書自体も法的な拘束力を持つものではなく、最終的には個別事案ごとの判断になります。

それでも、根本にある問いは同じです。

創作者には、自分の作品から他者が情報を得て、新しいものを作る過程を、どこまで支配する権利があるのか。

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08

何が共通し、どこで分かれるのか

知的財産権の論争は、「財産権を重視する人」と「財産権を軽視する人」の対立ではありません。

どちらの側も財産権を守ろうとしていて、だからこそ対立します。

問い擁護する立場反対する立場
財産権の根拠創造・労働・精神的努力が所有権を生む希少な物理的資源をめぐる衝突を避けるために必要
コピー創作者が生み出した価値の無断利用元の作品を奪わず、自分の財産を使う行為
特許発明と研究開発への投資を保護する独立発明者まで拘束する国家的独占
著作権著作者が作品の利用条件を決める権利他人の紙・機械・データの使い方を制限する
インセンティブ一定の独占が創作・研究を促す独占は後続の創作・改良を妨げることもある
国家の役割すでに存在する創作者の権利を保護する法律によって新しい独占権を作り出している

ただし、立場はこの二つだけではありません

ロスバードのように「通常の特許には反対、契約にもとづく著作権には賛成」という立場があります。また、知的財産を自然権としては認めなくても、創作へのインセンティブという理由から、限定的な著作権や特許を制度として支持する立場もあります。

したがって、この論争を理解するには、三つの問いを分けて考える必要があります。

  • 自然権・財産権として正当化できるか。
  • 創作や発明を増やす制度として有効か。
  • 有効だとして、どこまでの範囲と期間なら正当化できるか。

このページでは結論を決めません

リバタリアンにとって、知的財産権は簡単な論点ではありません。

「創作者の権利を守れ」と言えば、財産権を守っているように見えます。「コピーを禁止するな」と言っても、自分の紙や自分の機械を自由に使う財産権を守っているように見えます。

つまり問題は、ここまで掘り下げなければ解けません。

誰の財産権を、何に対して認めるのか。

アイデアを生み出した人には、そのアイデアを他人が使う方法まで支配する権利があるのか。それとも、いったん情報が他人の手に渡ったなら、その人が自分の財産と知識を使って何を作るかは自由なのか。

知的財産をめぐる論争は、リバタリアニズムが最も重視する私有財産そのものの意味を問い直す論争でもあります。

リバタリアニズム内部の他の分岐については 応用編Ⅰ(リバタリアン内部の論争) を、財産権や自由を何によって正当化するかという問い自体については 自然権論と帰結主義 をご覧ください。

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References

出典・参考リンク

リバタリアンの議論

  1. ライサンダー・スプーナー『The Law of Intellectual Property; or An Essay on the Right of Authors and Inventors to a Perpetual Property in their Ideas』(Vol. 1、Bela Marsh、ボストン、1855年)— 知的創作を自然権としての財産と捉え、永久の権利を主張した代表的著作です。第2巻も予告されていましたが、刊行されませんでした — Online Library of Liberty(英語全文)
  2. ベンジャミン・タッカー「State Socialism and Anarchism: How Far They Agree, and Wherein They Differ」(『Liberty』1888年3月10日号)— 貨幣・土地・関税と並んで、特許を国家による「四大独占」の一つに数えた論考です — The Anarchist Library(英語全文)
  3. アイン・ランド「Patents and Copyrights」(初出『The Objectivist Newsletter』1964年5月号、のち『Capitalism: The Unknown Ideal』所収)— 知的財産を精神的創造の成果に対する財産権として擁護する一方、永久の権利には反対しています。「発見は特許にできず、発明だけが特許の対象となる」という議論や、著作権の期間についての議論もこの論考によります。Ayn Rand Lexicon では『Capitalism: The Unknown Ideal』p.130、p.132などとして引用されています — Ayn Rand Lexicon(英語)
  4. マレー・ロスバード『Man, Economy, and State with Power and Market』第10章第7節「Patents and Copyrights」— 特許を独立発明者の財産権を侵害する国家的独占として批判する一方、契約にもとづくcopyrightを認めています。機械などの発明品にもcopyrightを設定でき、その権利は永久になりうるという議論もここにあります — Mises Institute(英語全文・無料)
  5. マレー・ロスバード『The Ethics of Liberty』第16章「Knowledge, True and False」— 「copyright Mr. Brown」と表示したネズミ捕りを販売する例を用いて、売り手が一定の権利を留保して財産を譲渡するという考え方を説明しています。契約していない第三者ブラックにも制限が及ぶとする議論もここにあります — Mises Institute(英語全文)
  6. スティーブン・キンセラ「Against Intellectual Property」(『Journal of Libertarian Studies』15巻2号、2001年春。2008年にミーゼス研究所より書籍として刊行)— 現代リバタリアンの代表的な知的財産権反対論です。「財産権は希少な資源をめぐる衝突を避けるために必要である」という議論、知的財産権が他人の有体財産への部分的な支配になるという批判、ロスバードの契約型著作権に対する「Contract vs. Reserved Rights」での反論などはこの論考によります(書籍版 pp.29・32–33・35ほか) — Mises Institute(英語全文・無料)著者サイト(HTML版)
  7. スティーブン・キンセラ「The Case Against IP: A Concise Guide」(Mises Daily、2009年9月4日)— 『Against Intellectual Property』の議論を簡潔にまとめた論考で、ロスバードのブラウン、グリーン、ブラックの例についても改めて論じています — Mises Institute(英語)
  8. ロデリック・T・ロング「The Libertarian Case Against Intellectual Property Rights」(『Formulations』3巻1号、1995年秋号、Free Nation Foundation)— 倫理・経済・情報の観点から知的財産権を批判したリバタリアンの代表的論考の一つです — praxeology.net(英語全文)
  9. 「Intellectual Property」(Libertarianism.org のトピック解説)— リバタリアンの多くが物理的財産については財産権を認める一方、アイデアへの財産権、特許・著作権の正当性については意見が分かれていることを概説しています。Libertarianism.org はケイトー研究所によるリバタリアニズムの思想・歴史資料サイトです — Libertarianism.org(英語)

日本の制度・判例

  1. 特許法(昭和34年法律第121号)— 本ページでは主に、第2条第1項(発明の定義)、第36条第4項第1号(実施可能要件)、第64条第1項(出願公開)、第66条第1項(特許権の発生)、第67条(存続期間)、第68条(特許権の効力)、第79条(先使用権)を参照しています — e-Gov法令検索
  2. 特許庁「先使用権制度について」— 他人の発明を知らずに独立して同じ発明に到達した場合でも、先使用権が認められるには、原則として他人の特許出願時点ですでに日本国内で実施事業またはその準備をしている必要があることを確認するために参照しました — 特許庁
  3. 著作権法(昭和45年法律第48号)— 本ページでは主に、第2条第1項第1号(著作物の定義)、第17条第2項(著作者人格権・著作権の享有に方式を要しないこと)、第30条の4(著作物に表現された思想又は感情の享受を目的としない利用)を参照しています — e-Gov法令検索
  4. 最高裁判所第一小法廷判決 平成13年6月28日(平成11年(受)第922号、民集55巻4号837頁、江差追分事件)— 著作権法が思想・感情・アイデア・事実そのものではなく、その創作的な「表現」を保護することを示した代表的判例です
  5. 商標法(昭和34年法律第127号)第1条・第19条、不正競争防止法第2条第6項、知的財産基本法第2条第1項 — 商標の目的・存続期間、営業秘密の定義、日本法上の「知的財産」の範囲を確認するために参照しています — 商標法不正競争防止法知的財産基本法(いずれもe-Gov法令検索)
  6. 特許庁「公報全般について」— 特許出願が原則として出願から1年6か月後に公開されること、1年6か月より前に取下げ・放棄・却下・拒絶査定の確定等によって出願が係属しなくなった場合には原則として公開されないことなどを確認するために参照しています — 特許庁
  7. 文化審議会著作権分科会法制度小委員会「AIと著作権に関する考え方について」(2024年3月15日)— 生成AIの学習と著作権法第30条の4との関係、享受目的の併存、著作権者の利益を不当に害する場合、生成・利用段階での著作権侵害の判断などについて参照しています。同文書自体には法的拘束力がなく、個別事案について確定的な法的判断を示すものではありません。文化庁「AIと著作権について」
  8. 内閣府「特許出願の非公開に関する制度」— 2024年5月1日に開始された経済安全保障推進法にもとづく特許出願非公開制度について参照しています。一定の発明が保全指定された場合、出願公開などの手続が留保されます — 内閣府

※ リンク先は、原著者・研究機関・政府機関等による公開ページを中心に掲載しています。リンク先の所在は本ページ掲載時点のものです。

※ 法令・裁判例についての説明は、制度の概要を示すためのものです。実際の法的評価は、具体的な事実関係やその時点の法令・判例等によって異なります。本ページはリバタリアニズムにおける思想上の論争を紹介するものであり、法律上の助言を目的とするものではありません。

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