子どもは誰のものか ― 自己所有権、親の権利、国家介入
自分の身体は自分のもの。リバタリアニズムの出発点はここにあります。しかしこの原則は、本人に決める力があることを前提にしています。3歳が「夜中にひとりで出かける」と言ったら。12歳が「学校へは行かない」と言ったら。15歳が「親とは暮らさない」と言ったら。16歳が、親とは違う医療上の判断をしたら。まだ自分では決められない人について、誰が、何を根拠に、どこまで代わって決めてよいのでしょうか。
内容は概ね固まっていますが、最終確認中です。
自分の身体は自分のもの。リバタリアニズムの出発点はここにあります。しかしこの原則は、本人に決める力があることを前提にしています。3歳が「夜中にひとりで出かける」と言ったら。12歳が「学校へは行かない」と言ったら。15歳が「親とは暮らさない」と言ったら。16歳が、親とは違う医療上の判断をしたら。まだ自分では決められない人について、誰が、何を根拠に、どこまで代わって決めてよいのでしょうか。
内容は概ね固まっていますが、最終確認中です。
「子どもに権利がある」という言い方には、少なくとも3つの違う意味が混ざっています。分けないかぎり、議論はかみ合いません。
殺されない。暴力を受けない。性的に侵害されない。正当に所有している物を奪われない。
防御的な権利です。ここには、判断能力の問題がほとんど生じません。乳児が自分で法廷に立てなくても、後見人や代理人が代わって守ることができます。権利の持ち主であることと、その権利を自分で守れることは、別だからです。
どこに住むか。誰と暮らすか。何を学ぶか。働くか。どの医療を受けるか。財産をどう使うか。
ここで判断能力が正面から問題になります。乳児に「自分で手術を選びなさい」と言っても意味がありません。しかし16歳に「18歳の誕生日の前日までは何ひとつ決められない」と言うのも、理屈としてはかなり不自然です。
食事を与えてもらう。住まいを与えてもらう。医療を受けさせてもらう。養育と教育を受ける。
リバタリアンにとって最も難しいのが、この3つ目です。
通常のリバタリアン理論は、こう考えます。
私が困っているというだけでは、他人に私を助ける法的義務は生じない。
では、親子の場合も同じでしょうか。
ここに、この論争のすべてが詰まっています。溺れている見知らぬ人を助けなかった通行人と、親とは、同じ立場なのか。その子が「誰かの世話なしには生きられない状態」で存在していることに、親自身が関わっているのではないか。
この特殊性をどう扱うかで、リバタリアン内部の答えは正面から割れます。
このページが扱わないこと。胎児の権利と中絶は、意図的に外しています。ロスバードらの子ども論とは深くつながる主題ですが、「胎児はいつ権利の主体になるのか」という別の巨大な論点を先に立てる必要があるためです。本ページは出生後の子どもに限定します。
ジョン・ロックは『統治二論』後篇の第6章で、この問題を正面から扱いました。
ロックを「親の絶対的な権利を説いた思想家」として紹介するのは、正確ではありません。
むしろ逆です。『統治二論』の前篇は、ロバート・フィルマーの家父長制的な王権論を論駁するために書かれています。「父が子を支配するように、王は臣民を支配する」という議論を崩すことが、ロックの出発点でした。後篇第6章は、その延長線上にあります。
ロックはこの章の冒頭で、paternal power(父の権力)という呼び方そのものを問題にします。この権力は父だけのものではなく、母にも同等に属しているのだから、parental power(親の権力)と呼ぶほうが適切だ、と述べます。
小さな言葉の話に見えますが、これは決定的です。権力の根拠を「父であること」に置かないということだからです。
ロックの整理は、こうです。子どもは平等で自由な状態を持たない種類の人間なのではない。まだその状態の「なかに」いないだけで、そこへ「向かって」生まれてくる。
第61節では、この構造が具体例で示されます。王が世継ぎの誕生直後に死んだとしても、その子はどれほど自由で主権的であろうと、年齢と教育が自分自身と他人を統治する理性と能力をもたらすまでは、母や乳母、後見人や教師の指図の下にあるほかない——と彼は問いかけます。
幼い子どもには、まだ理性と判断能力が十分ではありません。だから親が一時的に代わって判断します。しかしその権限は、親が好きなように振る舞ってよい主権ではありません。第64節でロックは、親の権限が子どもの身体と精神を育てるためのものであり、絶対的・恣意的な支配ではないことを述べています。
そしてロックは、養育と教育を親の特権ではなく義務として、かなり強く表現します。第67節です。
正しく言えば、この二つのうち前者はむしろ子どもの側の特権であり、親の義務であって、父権のいかなる特権でもない。子どもたちを養い、教育することは、子どもたち自身の善のために親に課された責務であり、その世話を引き受けることから親を免れさせるものは何もない。
第69節では、彼はこれを端的に「父権の第一の部分、というよりはむしろ義務」と言い換えています。
そして第65節が、決定的です。
いやそれどころか、この権力は自然の何らかの特別な権利によって父に属するのではなく、彼が子どもたちの後見人であるかぎりにおいてしか属さない。だから彼が子どもたちへの世話をやめれば、彼らに対する権力を失う。その権力は子どもたちの養育と教育に伴うものであり、それらと不可分に結びついているからである。そしてその権力は、捨てられた子どもの養父にも、他の子どもの実父と同じだけ属する。
同じ節で彼は、親の命令は一時的なものにすぎず、子どもの生命や財産にまでは及ばない、と続けます。それは未成年という弱さと不完全さを助けるためのものだ、と。
この構造が、のちのリバタリアン論争で決定的に効いてきます。
親だから子どもを支配できるのではない。
子どもを守り、自立へ導く責任があるからこそ、その目的に必要な範囲で一時的な権限を持つ。
次の節で見るロスバードは、この「義務」の部分を法的には認めません。ロックとの対比は、そこにあります。
↑ 目次へ戻るマレー・ロスバードは『自由の倫理学』第14章「Children and Rights」で、この問題を扱いました。彼の著作のなかでも、とりわけ論争的な章です。
ロスバードは、生まれたばかりの乳児は「自然本性的な意味では現に自己所有者ではなく、むしろ潜在的な自己所有者(a potential self-owner)である」と書きます。
では、親の所有はどうなるのか。彼はこう論じます。
しかし母ないし親が、絶対的な単純封土権として子どもの所有を受け取ることはありえない。それは、50歳の成人が70歳の親の絶対的で疑問の余地なき管轄下に置かれるという奇妙な事態を含意してしまうからである。したがって親の財産権は時間において限定されなければならない。しかしそれは種類においても限定されなければならない。自己所有の権利を信じるリバタリアンが、親が自分の子どもを殺害したり拷問したりする権利を擁護するとすれば、それはまったく異様なことだからである。ゆえにわれわれは、出生の時からすでに、親の所有は絶対的なものではなく「受託者」または後見人の類いのものである、と述べなければならない。
そして続けます。
要するに、あらゆる赤ん坊は、生まれて母親の身体のなかに含まれなくなった瞬間に、独立した存在であり潜在的な成人であるという理由によって、自己所有の権利を持つ。したがって、親がその身体を切断し、拷問し、殺害するなどして侵害することは、違法であり、子どもの権利の侵害でなければならない。
ここまでは、非常に強い子どもの権利論です。「子どもは親の所有物だから何をしてもよい」という立場では、まったくありません。
⚠ 引用元によって本文が違います。上の「50歳の成人が70歳の親の……」を含む段落は、書籍版にはありますが、ミーゼス研究所やLewRockwell.comに載っている抜粋版には入っていません。抜粋版だけを読むと、ロスバードが「絶対的所有ではありえない」と考えた理由が丸ごと落ちます。本ページはこの段落を書籍版から補っています。
しかしロスバードは、「権利」を消極的な概念——他人が踏み込んではならない領域を画するもの——として捉えます。そこから、次の推論が出ます。
誰かに積極的な行為を強制する権利は、誰も持てない。なぜなら、その強制は相手の権利を奪うからである。
これを親子に当てはめると、こうなります。
親は子どもに対して侵害する権利を持たない。しかし同時に、親は子どもに食事・衣服・教育を与える法的義務を負うべきでもない。そうした義務は、親に強制された積極的行為を伴い、親から権利を奪うことになるからである。したがって親は、子を殺害したり切断したりしてはならず、法はそれを正当に禁じる。しかし親は、子どもに食べさせない法的権利、すなわち死なせる法的権利を持つべきである。
そして本人は、直後にこう括弧書きしています。
(繰り返すが、親が子どもを生かしておく道徳的な義務を負うかどうかは、法的に強制できる義務を負うかどうかとは、まったく別の問題である。)
この区別は落とせません。ロスバードは「親が子を死なせるのは道徳的に正しい」と言っているのではありません。道徳的な義務があるかどうかは「まったく別の問題」だとして、判断を保留しています。彼が論じているのは、法がそれを強制的に止めるべきかどうかです。
彼自身は、この結論を緩和する見込みも書き添えています。後述する自由な養子市場が存在すれば、こうした「ネグレクト」は最小限まで減るはずだ、というものです。
それでもこれは、彼の結論のなかで最も激しく批判された部分です。
もう一つ、彼の議論で特徴的なのが年齢基準への批判です。
21歳であれ18歳であれ、特定の年齢で線を引くことは「完全に恣意的でしかありえない」と彼は書きます。では何が基準になるのか。ロスバードの答えはこうです。
子どもは、家を出る/逃げ出すことによって、自分が自己所有の権利を現に持っていることを示す。
年齢にかかわらず、われわれはすべての子どもに対して、逃げ出す絶対的な権利、そして自発的に自分を引き取ってくれる新しい養親を見つける権利、あるいは自力で生きようと試みる権利を認めなければならない。親は逃げ出した子を説得して戻そうとしてもよいが、力によって帰還を強制することは、まったく許されない奴隷化であり、その子の自己所有の権利への侵略である。
「逃げ出す絶対的な権利は、年齢にかかわらず、その子の自己所有権の究極の表現である」——これがロスバードの立場です。
この章には、さらに踏み込んだ主張があります。ロスバードは、親が持つのは受託者としての所有(trustee-ownership)——「子どもの身体を侵害してはならない」ことと「子はいつでも家を出られる」ことだけによって限界づけられた所有——だとしたうえで、その受託権は他人へ譲渡・売却できると論じます。
彼自身の言葉では、「純粋に自由な社会は、子どもの活発な自由市場を持つことになる」となります。
彼の論拠は、次のようなものです。子どもの市場は今すでに存在している。ただし政府が有償の売買を禁じているため、実質的に価格の上限がゼロに固定され、認可された少数の機関に取引が制限されている。その結果、養子を望む大人と、望まれない子どもが、同時に大量に存在するという不足が生じている——という議論です。
賛否は激しく分かれます。ここでは、そう書いてあるという事実を示すにとどめます。
↑ 目次へ戻るロスバードの結論には、リバタリアン内部から強い反論があります。その中心にあるのが、次の直観です。
親は、通りすがりの他人とは違う。
その子が「誰かの世話なしには生きられない状態」で存在していることに、親自身が関わっている。
ここは見落とされやすいところです。ロスバードは同じ章で、この筋の議論を「創造からの議論(the argument from creation)」として取り上げ、検討したうえで退けています。
彼が挙げる難点は、おおむね次のものです。
この最後の問いは重いものです。「十分な養育」の義務があるとしても、十分とはどこまでかを決めなければなりません。
なおエヴァースは、ロスバードに引用されただけの人物ではありません。彼自身も同じ論争で、扶養義務を基礎づけうる複数の根拠を検討したうえで、こう結論しています。
この義務を支持して提出された種々の理由が不十分であることが判明した以上、そのような義務は存在しないと結論せざるをえない。立証責任は仮説を提出する側にある。
ただしエヴァースも、身体的な虐待は子どもの自己所有権への侵害だとし、親が子を遺棄する場合に第三者が扶養を引き継ぐのを親は妨げられないとしています。作為は禁じるが不作為は法の対象外、という非対称は、ロスバードと同じ形です。
これに対する現代の応答の一つは、義務の引き金をずらすところにあります。スティーファン・キンセラの議論です。
使われるのが、次の類比です。
湖で溺れている人のそばを通りかかっても、あなたには救助を試みる強制可能な(法的)義務はない。しかし、あなたが誰かを湖へ突き落としたのなら、あなたはその人を救おうと試みる積極的義務を負う。自分の不法行為から生じた害を軽減するためである。救助を試みなければ、あなたは殺人の責任を問われうる。
そして彼は、こう続けます。
同様に、あなたの自発的な行為が、住まい・食料・世話という自然な必要を持ち、人権を持つ乳児を存在させたのなら、それは誰かを湖へ投げ込むのと同種である。どちらの場合も、あなたは別の人間が助けを切実に必要とし、それなしには死んでしまう状況を作り出している。この必要の状況を作り出したことによって、あなたはその必要を満たす義務を負うのである。
ここが肝心です。子どもを産むこと自体を侵略と呼んでいるのではありません。キンセラの定式は、こうです。
リバタリアンは積極的義務に反対しているのではない。
本人が選んでいない積極的義務に反対しているだけである。
⚠ ただし彼自身、この議論について「おそらく、ほとんどのリバタリアンには受け入れられないだろう」と書いています。リバタリアン内部の一つの立場であって、共通見解ではありません。
まったく別の筋道もあります。スティーヴン・ホーウィッツは、義務の源泉 を「性的な創造行為そのもの」には置きません。
彼が置くのは、その子を「自分のもの」とする法的な権利を主張したことです。親としての権利を行使しておきながら、それに対応する義務を拒む——これは彼の言い方では、一種の契約違反にあたります。
この構成は、ロスバードの「強姦の場合はどうなる」「継親や後見人はどうなる」という問いを、別の角度からかわします。義務が生じるのは親としての権利を引き受けた人だからです。
三つ目は、ウォルター・ブロックの議論です。彼は「積極的義務は存在しない」という原則を手放しません。それでも、飢えさせる親を有罪にできると論じます。
使うのは「囲い込み(forestalling)」という概念です。
ドーナツ型の土地を考えてください。真ん中の穴Aは誰のものでもない。あなたはドーナツの部分Bだけを原初取得し、外側Cにいる人がAへ入るのを一切許さない。あなたはAに指一本触れていないのに、事実上Aを支配しています。リバタリアンの理論は、これを認めません。
ブロックによれば、誰にも知らせずに赤ん坊を放置して死なせる親は、このBの土地を囲い込む人と同じです。赤ん坊がAの位置に来ます。その親は、子どもの権利と、その子の世話を引き受けたいと望んだかもしれないすべての人の権利を侵害している——という論法です。
だから親には、育てたくなければ養子に出すことも、病院や施設へ連れて行くこともできる。しかし、黙って囲い込むことはできない。ブロックはこれを、積極的義務を認めたことにはならない、と主張します。
応答Aのように引き金を「創造した」から「依存の状態を作り出した」へずらすと、先ほどの難点のいくつかには答えが出ます。
| ロスバード側の問い | 因果的責任からの応答 |
|---|---|
| 強姦による妊娠 | 自発的な行為による因果的寄与がないので、義務の条件を満たさない |
| 継親・養親・後見人 | 依存状態を作ってはいない。ただし、引き受けた以上の義務は別の根拠(引き受け・後見)から説明する必要がある |
| なぜ成人で終わるのか | 義務の根拠は依存状態であり、依存が解消すれば義務も終わる |
| どこまで資源を投じるのか | ここは答えきれていない。境界を決める基準は、いまも論者によって異なる |
つまり、この論争は決着していません。ロスバード側は、依存状態それ自体が他人に強制可能な義務を発生させるという発想そのものを拒みます。
ここは、この論争でいちばん誤解されやすい点です。
因果的責任からの議論が生むのは、「困っている人には、社会全体が何かを提供する義務がある」という一般的な福祉の権利ではありません。
生じるのは、特定の人が、特定の相手に対して負う義務です。誰に義務があるかは、誰がその依存状態を作ったかによって決まります。
したがって、この立場を採ったからといって、
リバタリアニズムは積極的義務を一切認めない
という命題そのものを捨てることにはなりません。捨てるのは、次の形に限られます。
本人が引き受けたか、本人自身の行為によって発生させた積極的義務は、ありうる。
↑ 目次へ戻るここまでは「親の義務」の話でした。しかし逆向きの問いも必要です。
幼い子どもを守るには、道路へ飛び出すのを止め、危険な物を取り上げ、生活の規則を課し、医療の判断を代わって行う必要があります。成人相手なら、どれも許されない干渉です。
なぜ親には、それが許されるのでしょうか。
いちばん簡単な説明です。所有者が物を管理するのと同じように、親が子どもを管理する。
しかしこれは、自己所有権を人間一般に認めるリバタリアニズムと強い緊張を起こします。前節で見たとおり、ロスバード自身も「所有」の語を使いますが、その中身は侵害の禁止と退出の自由によって限界づけられた受託所有であって、通常の動産の所有とは同じではありません。
これも足りません。ロックが指摘したとおり、実際に世話をしない親は、その世話に結びついた権限を失います。養親や後見人が子どもの世話を担うこともあります。
「産んだ」という事実だけからは、支配の権限は出てきません。
そこで有力になるのが、次の説明です。
親には子どもを守り、自立へ導く義務がある。
その義務を果たすために必要な範囲で、親には判断の権限がある。
この説明には、権限の限界が自然に組み込まれます。
ロック、後述するハイエク的な議論、そして因果的責任からの議論は、理論の出発点は違いますが、この方向で親の権限を理解できるという点では重なります。
もう一つ、リバタリアンの議論でよく使われる筋道があります。分散した知識からの議論です。
これはハイエク自身が展開した家族論ではありません。ハイエクの知識論を、スティーヴン・ホーウィッツが家族へ応用したものです。彼自身の要約は、こうです。
私は、ハイエクの洞察がわれわれを次の方向へ導くはずだと論じる。すなわち、親の権利を強く擁護し、明白な暴力や虐待の事例を超えるいかなる理由でも家族へ介入しようとする側に、高い立証責任を課すことである。親の権利には、子どもを世話する親の義務も伴っている。
親は通常、その子どもについて、政府の担当者よりもはるかに多くの具体的な知識を持っています。
これらは、書式に書き込んで中央へ集約できる種類の情報ではありません。だから、明白な暴力や虐待を超える領域で親の判断へ介入するには、非常に高い立証責任を負うべきだという結論になります。
ただしこれは、「介入するな」という絶対的な主張ではありません。ホーウィッツが要求しているのは比較です。ある制度が不完全だというだけでは、別の制度を採用する理由にはならない。代替のほうが現状の失敗を実際に改善すると示せるのかを問え、という要求です。ネグレクトの事例について彼は、まず「では、その子たちをどうするのか」と問うべきだと書き、問題はしばしば親の資質ではなく経済的なものだと指摘します。
ホーウィッツは、ロスバードを名指しで批判しています。彼はロスバードの結論をこう要約します。
別の言い方をすれば、親は子どもを虐待することはできないが、ネグレクトすることはできる。その行為は不道徳でありうるが、正当に違法とみなすことはできない。
そのうえで、これを「論理的には一貫しているが、不快な結論」と呼び、こう述べます。
親としての権利を受け取りながら、無力な子どもを世話するという、それに対応する義務を受け取ることを拒むのは、一種の契約違反である。
だからあらゆる形態の虐待や残虐行為、そして極端なネグレクトは、リバタリアンの社会でも法的に訴えうるものであるべきだ——というのが彼の結論です。
↑ 目次へ戻る親の権限は、いつ終わるのでしょうか。答え方は、大きく3つあります。
明確で、運用でき、全員に同じ基準を適用できます。行政上の利点は小さくありません。
しかし、成熟の速度には大きな個人差があります。「17歳と364日の人には能力がなく、その翌日に突然、完全な自己決定能力を得る」とは、さすがに考えにくいところです。
本人が選択肢を理解でき、結果を予測でき、一貫した意思を示せるなら、その領域の決定を本人へ移していく。個人差を反映できます。
しかし、こちらにも難点があります。
ロスバードの答えがこれでした。年齢ではなく、家を出るという行為によって、その子は自己所有の権利を現に持っていることを示す。
この発想には、リバタリアンらしい魅力があります。国家が親の権限を細かく規制するのではなく、子ども自身に「出ていく権利」を与えることで、親の権力に競争と制約を持ち込むからです。
ただし、幼い子どもには使えません。
5歳が「この家は嫌だ、出ていく」と言ったとき、その意思を完全に尊重すべきでしょうか。危険な大人が「うちへ来れば何でも自由だ」と誘ったら。退出権を認めるとしても、本人の理解力、新しい受け入れ先の適格性、誘導や放任の有無を誰が判断するのかという問題が残ります。
退出権は、親の独占的な権力を崩す有力な考え方ですが、結局は「判断能力」という最初の問題へ戻ってきます。
この問題で最も急進的な立場の一つを示したのが、教育思想家のジョン・ホルトです。1974年の『Escape from Childhood』(E. P. ダットン刊)で、彼はこう提案しました。
私はその代わりに、成人市民の権利・特権・義務・責任を、年齢を問わず、それらを利用したいと望むあらゆる若者が利用できるようにすることを提案する。
重要なのは、提案の構造です。すべての子どもに成人として振る舞うことを強制するものではありません。しかも彼は、これらを一括の束にすべきでないと明記しています。
また私は、これらの権利と義務が一つの束に結びつけられるべきだとも、若者がそのどれかを引き受けたいなら全部を引き受けなければならないとも言わない。彼は選び取ることができるべきである。
子ども時代にとどまることも自由です。「もし彼らがそれを気に入っているなら、ぜひそのままいさせればよい」と彼は書きます。
彼が挙げたのは、次の11項目です。
ホルトはリバタリアン運動の中心的な理論家ではありません。教育思想家であり、ホームスクーリング運動の提唱者です。スタンフォード哲学百科事典は彼を、ファーソン、コーエンと並ぶ「子どもの解放論者(liberationists)」の一人として挙げています。
ここは正確に書く価値があります。ミーゼス研究所も彼を取り上げていますが、その記事の題は「ジョン・ホルト ― リバタリアンのアウトサイダー」です。運動には加わらず、離れたところにいた人物として描かれています。
そして決定的なのは、提案の内容そのものです。上のリストを見てください。9番目が「国家が保障する最低所得を受け取る権利」です。ホルトは、独立を選ぶ権利はすべての人に保証された最低限の所得を与える社会でなければ、ほとんど意味を持ちえないと書きました。リバタリアン誌『Reason』は1974年、まさにこの点を取り上げ、その原資がどこから来るのかを論じていないと批判しています。
この9番目を落として紹介すれば、ホルトのリストは実際よりも小さな政府寄りに見えます。本ページが11項目すべてを挙げたのは、そのためです。
つまり「子どもの自由を拡大せよ」という主張は、リバタリアニズムから出てくるとは限りません。結論が近く見えても、根拠がまったく違うことがあります。
子どもの自由に反対する典型的な理由は「子どもには判断能力がない」です。
ホルト型の議論は、ここを突きます。判断する機会を一度も与えなければ、判断能力は育たないのではないか。何も決めさせず、失敗もさせず、責任も負わせない状態を18年続けたうえで、ある日「今日から自分で人生を決めなさい」と言うのは不自然ではないか。
これに対する反論も、同じくらい強いものです。子どもは大人より経験が少なく、衝動の制御が未熟なことがあり、長期的な結果を評価しにくく、大人から利用されやすい。能力を獲得する前の重大な失敗は、取り返しがつかないことがあります。
そこで問いは、こうなります。
どの程度の自由なら、成長を促しながら、取り返しのつかない危険を避けられるのか。
↑ 目次へ戻るここまでの論争は抽象的に見えますが、現行の日本法は、この論点の多くについて、具体的な線引きを条文で置いています。条文を読むと、どこが争点なのかがはっきりします。
民法第820条(監護及び教育の権利義務)
親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。
短い条文ですが、この論争の観点からは情報量があります。第一に、親権は権利であると同時に義務とされています。第二に、「子の利益のために」という目的が条文に書き込まれています。
少なくとも、親の権限を「子の利益のための権利かつ義務」として構成する点では、日本法はロスバード型よりロック型に近い構造です。
本ページの中心にあった問い——親に、子を養う強制可能な義務があるのか——について、日本法には正面からの条文があります。
民法第817条の12(親の責務等)
父母は、子の心身の健全な発達を図るため、その子の人格を尊重するとともに、その子の年齢及び発達の程度に配慮してその子を養育しなければならず、かつ、その子が自己と同程度の生活を維持することができるよう扶養しなければならない。
読み落とせない点が二つあります。
第一に、水準が「自己と同程度の生活」です。最低限の生存ではありません。親と同じ生活水準を子が維持できるように、という強い定め方です。
第二に、この条文は親権の章ではなく、親子についての一般規定として置かれています。つまり親権の有無にかかわらず、父母が負う責務として構成されています。
第3節で見たロスバードの立場——親に食事・衣服・教育を与える法的義務を課すべきではない——とは、正面から反対の答えです。
民法第821条(子の人格の尊重等)
親権を行う者は、前条の規定による監護及び教育をするに当たっては、子の人格を尊重するとともに、その年齢及び発達の程度に配慮しなければならず、かつ、体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動をしてはならない。
かつて民法にあった「懲戒」の規定は削除され、現在の条文はこの形になっています。ほぼ同じ内容の規定が、児童虐待の防止等に関する法律第14条第1項にも置かれています。同条第2項は、親権を行う者であることを理由に暴行罪・傷害罪等の責めを免れないことを、わざわざ明記しています。
民法第822条(居所の指定)
子は、親権を行う者が指定した場所に、その居所を定めなければならない。
ロスバードの「年齢にかかわらず家を出る絶対的な権利」と、この条文は正面から異なります。日本法において未成年者の居所は、親権者が指定します。
成年年齢は民法第4条で「年齢十八歳をもって、成年とする」と定められています(2022年4月1日から20歳を18歳へ引き下げ)。
しかし日本法は、年齢の一本線だけで動いてはいません。
| 条文 | 内容 | 年齢 |
|---|---|---|
| 民法4条 | 成年 | 18歳 |
| 民法961条 | 遺言をすることができる | 15歳 |
| 民法797条 | 養子縁組は、これ未満なら法定代理人が代わって承諾する | 15歳 |
| 労働基準法56条 | 使用してはならない(満15歳に達した日以後の最初の3月31日まで)。例外として、軽易な業務は許可を得て満13歳以上、映画・演劇はそれ未満も可 | 実質15歳+例外 |
つまり現実の制度は、年齢基準と能力基準の折衷です。行為の重さと性質に応じて、複数の線が引かれています。
学校教育法第16条
保護者(子に対して親権を行う者(親権を行う者のないときは、未成年後見人)をいう。以下同じ。)は、次条に定めるところにより、子に九年の普通教育を受けさせる義務を負う。
ここは、リバタリアンの議論で見落とされやすいところです。日本の義務教育は、子どもが学校へ行く義務ではなく、保護者が教育を受けさせる義務として構成されています。これを「子どもへの強制」と読むか「親への強制」と読むかで、批判の向け先が変わります。
親権への介入は、次の順に強くなります。
制度の形としては、「明白な侵害」と「重大な放置」には介入するが、親の意思に反する措置には裁判所の関与を要求するという構造になっています。次節で見る3つの段階と対応させて読むことができます。
↑ 目次へ戻る国家の介入を論じるとき、リバタリアンの議論は3つの段階を分けます。①明白な権利侵害(暴行、監禁、性的虐待、殺害)②重大な放置(食事を与えない、必要最低限の保護をまったくしない)③「もっと良い家庭にできる」という最善利益型の介入。
①ではほぼ一致し、②で理論が割れ、③で国家への警戒が最も強くなります。③を基準にすれば、ほぼすべての親子関係が国家の比較審査の対象になりうるからです。
以下の5問は、その割れ方を具体的に示すものです。
親は子どもを殴っていません。ただ食事を与えませんでした。他人が子どもを引き取ることを妨げてもいません。
ロスバード型——食事を与えることは積極的な行為である。それを法で強制すれば親の権利を侵害する。道徳的に非難されても、直接の侵略とは違う。
因果的責任型——親自身が、自分では生きられない人間をその状態で産み出した。その状態を放置して死なせるのは、通りすがりの人が助けなかった場合とは違う。
この一問が、「リバタリアニズムは積極的義務を一切否定するのか」を最も厳しく試すケースです。
15歳のAさんには仕事があり、友人の家族が住まいを提供すると言っています。虐待はありません。
ロスバード(退出権)型——本人が自立または別の後見を選べるなら、親が力で連れ戻すのは自己所有権の侵害になる。
保護型——15歳では長期的な結果を十分に理解していない場合がある。一定年齢までは親に保護権限を認める必要がある。
能力基準型——年齢だけでは決めず、本人の自立能力、意思の安定性、新しい生活環境から判断する。
問題は、誰がその能力を判定するのかです。
16歳のBさんには十分な知的能力があり、医師の説明も理解しています。しかし生命を救う可能性の高い治療を拒否しています。親は治療を望んでいます。
自己決定を重視する立場——十分な理解能力があるなら、本人の身体について本人の意思を尊重すべきである。
保護を重視する立場——成人直前であっても、不可逆で生命に関わる判断については、将来の自己決定能力そのものを守るために親が代わって決められる場合がある。
ここでは「現在の自由を守るために、将来の自由を失わせる選択まで認めるのか」という問題が生じます。
成人が別の成人を「あなたのためだ」と言って殴れば、通常は暴行です。では親が子を叩く場合だけ、なぜ違うのでしょうか。
厳格な自己所有権型——子どもに身体への権利がある以上、懲罰目的の身体的暴力は侵略である。
親の保護権限を広く認める立場——危険を防ぐための身体的接触と、しつけのための強制は区別が必要である。
どちらの立場でも、道路へ飛び出そうとする幼児を力で止めることまで単純な暴行と呼ぶのは難しいでしょう。したがって問題は、子どもの利益のために許される身体的干渉と、親の支配のための侵略を、どう区別するかになります。
なお日本法は、この問いにすでに立法的な答えを出しています(前節・民法821条)。
ある家庭は貧しく、教育の内容も専門家が理想とするものとは大きく違います。しかし暴力はなく、食事と住まいはあり、親子関係も良好です。別の養育環境なら、より高い学力と所得が得られる可能性があります。
子どもの最善利益を最大化する立場——より良い将来を与えられるなら、介入に理由がある。
リバタリアン側からの反論——「もっと良い家庭」を基準にすれば、ほぼすべての親子関係が国家の比較審査の対象になる。親に求められるべきなのは最善であることではなく、権利を侵害せず最低限の養育義務を果たすことではないか。
この問題は、こう言い換えられます。
子どもの利益を「最大化する」ことと、子どもの権利を「守る」ことは、同じなのか。
↑ 目次へ戻る| 立場 | 子どもの地位 | 親の扶養義務 | 親の権限の根拠 | 自律への移行 |
|---|---|---|---|---|
| ロック | 将来、自由を完全に行使する人間 | 強く認める | 子どもの保護・教育のための一時的な権限 | 理性と能力の発達とともに終わる |
| ロスバード/エヴァース | 出生時から自己所有権を持つ独立した人間(親は受託者) | 法的な積極的義務は否定 | 受託所有と、家という財産に由来する管轄 | 年齢ではなく、退出・自立によって示される |
| ホルト | 成人と同じ権利を行使しうる若者 | 主題の中心ではない | 子どもの選択を大幅に拡大する側から論じる | 望む子に成人の権利を開く |
| ホーウィッツ (ハイエク的) | 独立した権利主体だが、保護を必要とする | 認める。権利だけ受け取って義務を拒むのは契約違反 | その子について具体的な知識を持つのは親である | 成長に伴って自由が広がる |
| 因果的責任 (キンセラら) | 出生時から自己所有する権利主体 | 強制可能な義務を認める | 義務を果たすために必要な範囲の後見的権限 | 自立し、自分で自分を養えるほど親の権限は縮む |
| ブロック (囲い込み論) | 親が持つのは子ではなく後見権 | 積極的義務は否定。ただし黙って放置するのは囲い込みという別種の権利侵害 | 後見権を原初取得したこと | 他者が後見を引き継げる状態を妨げないことが要件 |
| 確定していること | 評価が分かれること |
|---|---|
| ロスバードが、親による殺害・切断・拷問を違法とすべきだとしていること | それと「食べさせない法的権利」が両立するかどうか |
| 彼が、道徳的義務と法的に強制できる義務を明確に区別していること | その区別を子どもの生死に当てはめてよいかどうか |
| 彼が「創造からの議論」を検討したうえで退けていること | 引き金を「依存状態を作ったこと」へずらす再構成が、その批判を乗り越えているかどうか |
| ロックが養育と教育を「子どもの特権であり親の義務」と書いていること | その義務が法的に強制可能かどうか |
| エヴァースが同じ結論(強制可能な扶養義務は存在しない)に立っていること | 作為と不作為を法的にここまで非対称に扱えるかどうか |
| ホーウィッツがロスバードを名指しで批判していること | 「権利を受け取れば義務も引き受けている」という構成が成り立つかどうか |
| 権利の保有と権利の行使能力が別の問題であること | どの領域で、いつ行使を本人へ移すか |
| 日本法が親権を「子の利益のため」の権利かつ義務としていること | その制度設計をリバタリアンとしてどう評価するか |
子どもの権利は、リバタリアニズムにとっていちばん難しい応用問題です。
成人については「自分の身体は自分のものだから、自分で決める」と言えます。しかし乳児は、自分だけでは生きられません。幼い子どもは、危険を十分に判断できません。だから誰かが「あなたのために、私が決める」必要があります。
しかし、そこから次の二つは出てきません。
親も間違えます。国家も間違えます。そして何より、子ども自身が、時間とともに「保護される存在」から「自分で決める存在」へ変わっていきます。
そこで、本当の問いはこうなります。
自分で判断できない人を守る責任は誰にあり、
その責任は、どこまで他人の人生を決める権限を生むのか。
そしてもう一つ。
自由な成人を育てるために、子どもにはどのくらいの自由が必要なのか。
この論争は、自己所有権をもっとも難しいケースに当てたとき、リバタリアニズムがどこまで一貫した答えを出せるのかを試す問題です。
関連する論点として、自由を何によって正当化するかという問い自体については 自然権論と帰結主義、自己所有権を土地や資源へ適用する問題については 土地は誰のものか、そして自由と文化・家族の関係については 薄いリバタリアニズムか、厚いリバタリアニズムか をご覧ください。
↑ 目次へ戻る※ 本ページは出生後の子どもに限定しており、胎児の権利と中絶は扱っていません。ロスバードの同章は中絶も扱っており、また第3節で引いた原則から、奇形の新生児を死なせる権利も導かれると本人が明記しています(本ページでは扱いません)。第8節の3段階の整理は、論争の見取り図として本ページで用いた区分です。リンク先は各公開元のサイトです。所在は掲載時点のものです。