論点 · 応用編Ⅰ

土地は誰のものか ― ロック、ロスバード、ノージック、左派リバタリアニズム

「自分の身体は自分のものだ」——多くのリバタリアンは、ここから議論を始めます。

では、自分の身体を使って作ったものも、自分のものだとしましょう。

それでも、大きな問題が一つ残ります。土地そのものは、誰が作ったのでしょうか。

土地や鉱物、水、森林などの自然資源は、人間が作ったものではありません。それでは、まだ誰のものでもない土地を最初に利用し、手を加えた人は、どこまでそれを自分のものにできるのでしょうか。

その人が「ここは私の土地だ」と主張した瞬間から、ほかのすべての人は、その土地を利用する自由を失うのでしょうか。

この問いにどう答えるかによって、ロック、ロスバード、ノージック、そして左派リバタリアンの立場は大きく分かれます。

In Short

3つの要点

  • 自己所有権だけでは、土地の所有権は決まりません。自分の身体と労働が自分のものだとしても、人間が作っていない土地・水・鉱物などの自然資源を、誰がどの条件で私有できるのかは、別の問題として残ります。
  • ロックは、初期取得に重要な制約を置いていました。一つは、「他人のためにも十分な、同じくらい良いものが残されている」こと。もう一つは、自分で利用できず腐らせるほど取ってはならないという制約です。後世のリバタリアンは、とくに前者の「ロック的但し書き」をどう理解するかで大きく分かれました。
  • 右派と左派を分ける大きな争点は、自己の身体よりも、外部の自然資源をどう扱うかです。スタイナー、ヴァレンタイン、オーツカらに代表される分析哲学系の左派リバタリアニズムは、強い自己所有権を維持しながら、誰も作っていない自然資源の取得や利用には、何らかの平等主義的な制約が必要だと考えます。
目次
01

なぜ自己所有権だけでは、土地を説明できないのか

リバタリアニズムの財産権論は、しばしば自己所有権から始まります。

私は自分の身体を所有している。だから、自分の身体を使って行う労働についても、自分に権利がある。そして、自分の労働によって作ったものについても、自分に権利がある——ここまでは比較的、直観的に理解しやすいでしょう。

ロックも『統治二論』で、自分の身体とその労働は自分のものであり、その労働を自然物に加えることによって、それを自分の財産にできると論じました。

しかし、ここで問題が生じます。

物を作るには必ず、もともと人間が作ったのではない何かを使うからです。

  • 木製の机なら、木材
  • 鉄製品なら、鉄鉱石
  • 農産物なら、土地や水、日光
  • 住宅なら、土地や建築資材

人間は自然資源に手を加え、新しい形や用途、経済的な価値を生み出すことはできます。しかし、土地や水、鉱物といった自然資源そのものを、人間が作り出したわけではありません。

では、自分が作っていないものについて、なぜ排他的な所有権を得ることができるのでしょうか。

労働による部分と、もともと存在したものをどう考えるか

たとえば、農民が未利用の土地を耕して麦を育てたとします。

その農民が投入した労働と、その成果について農民に権利があるとしても、土地に関係する価値のすべてが農民自身によって作られたとは限りません。

たとえば、

  • 土地そのもの
  • 地下にある鉱物
  • 水などの自然条件
  • その場所が都市や交通網に近いことによる立地価値
  • 周囲に人口や商業施設が増えたことで生じた地価上昇

などがあります。

最後の二つは、厳密には「自然資源そのもの」とは少し違います。都市への近さや人口増加による地価上昇は、自然が作った価値というより、土地所有者自身の労働とは別の要因によって生じた価値です。

ここで問いが生まれます。

土地に労働を加えた人は、その労働によって生み出した価値だけでなく、土地そのものや、自分以外の人々によって生じた立地価値まで、すべて自分のものにできるのでしょうか。

この問いに対する答えが、リバタリアンのあいだでも分かれます。

ロスバードのような強い私有財産論では、未所有の土地を最初に実際に利用し、労働を加えて取得したなら、その土地について完全な所有権を成立させることができます。そこから先は、土地の「自然的な部分」と「労働による部分」を分け続ける必要はありません。右派リバタリアニズムの強い形では、初期取得に平等な取り分を残す条件を要求しない立場もあります。

これに対して左派リバタリアンは、自分が作った労働の成果について強い権利を認めても、それだけで誰も作っていない自然資源の価値まで独占できることにはならないと考えます。スタイナーらの立場では、自然資源について各人に平等な価値の取り分があり、それを超えて取得する人は他者に補償を負うと考えます。

ここが、このページで扱う対立の出発点です。

A ― 未所有の自然資源は、最初に正当に占取した人のものになる

自然資源は、もともとは誰の所有物でもない。だから、まだ誰にも所有されていない土地や資源を最初に実際に利用し、労働を加えて占取した人は、そこに所有権を得ることができる。

そして、他人の既存の権利を侵害していないのであれば、その取得について、まだ利用していなかった他の人々に補償する必要はない。

これは、「右派リバタリアニズム」のなかでも、ロスバードに代表される強い私有財産論に近い考え方です。現代の整理では、ロスバード型の立場は、自然資源の初期取得に「他人にも平等な取り分を残せ」という制約を基本的に要求しない、強い右派リバタリアニズムとして位置づけられます。

B ― 自然資源の取得には、他者への平等な配慮が必要である

土地や天然資源は、誰かが作ったものではありません。

それなら、ある人が最初に利用したというだけで、誰も作っていない自然資源の価値について、他のすべての人の請求を完全に消してしまってよいのか。

分析哲学系の左派リバタリアンは、ここに疑問を投げかけます。

彼らも、土地を利用したり私有したりすること自体を否定するわけではありません。しかし、自然資源の取得には何らかの平等主義的な制約が必要だと考えます。

たとえばヒレル・スタイナー型の立場では、各人には自然資源の価値について平等な取り分があり、それを超えて取得する人は他者に補償すべきだと考えます。一方、マイケル・オーツカのように、単純な等分ではなく、自然資源を利用する機会の平等を重視する立場もあります。

つまり、対立しているのは——

私有財産を認めるかどうか、ではありません。

未所有の自然資源を最初に正当に占取した人は、他者への補償なしに完全な所有権を得られるのか。
それとも、その取得には、他の人々にも自然資源について平等な立場を保障する何らかの条件が付くのか。

ここが根本的な分岐です。

当研究所として、このページで結論を決めることはしません。それぞれの考え方と、それに対する反論を順に見ていきます。

なお、この論点は当サイトの 意見が分かれる10の論点 の論点③にあたります。本ページはその詳細版です。

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02

ロック ― 労働による原初取得と、2つの制限

この問題を近代自由主義の中心的な論点にした思想家の一人が、ジョン・ロックです。『統治二論』第二論文 第5章「所有権について」(第25〜51節)で、彼は万人に共有された自然から、どのように個人の私有財産が生まれるのかを説明しました。

出発点は、譲歩から始まる

第27節の原文は、譲歩の構文で書かれています。

ロックはまず、大地とそこにあるものが万人に共有のものとして与えられていることを認めます。そのうえで、「それでもなお」と続けます。

それでもなお、すべての人は自分自身の一身に対する所有権をもつ。これについては、本人以外の誰も権利を持たない。彼の身体の労働と彼の手の働きは、まさしく彼のものであると言ってよい。

ここからロックは、自然から取り出したものに自分の労働を加えることで、そこに「自分のもの」を付け加え、その対象を私有できると論じます。

重要なのは、ロックにとって自然は最初から「誰のものでもない無主物」だったわけではないことです。神によって人類に共有のものとして与えられている。問題は、共有の自然から、他の人々全員の同意を得ることなく、どうして個人の所有権を成立させることができるのかでした。

土地についてもロックは、第32節で、耕し、植え、改良し、栽培し、その産物を利用できる範囲について、その人の労働によって私有財産が成立すると説明します。しかも、他のすべての共有者=全人類の同意を得る必要はないとします。

この発想は、後のリバタリアンによる原初取得(original appropriation)や homesteading の議論へとつながっていきます。ただし、「homesteading」はロック自身が用いた概念名ではなく、後世、とくにロスバード系のリバタリアニズムで発展した表現です。現代のリバタリアン理論でも、ロックの労働による取得は原初取得論の代表的な出発点として扱われています。

ただし、取得には重要な制約があった

ロックの議論には、財産の取得を無制限には認めない重要な制約があります。

最も有名なのが、第27節の末尾に置かれた一文です。

少なくとも、他の人々のためにも十分な量と、それと同程度によいものが共有のまま残されている場合には。

原文には “at least” があります。ロックは第33節でも、土地を私有しても「十分な量と、同じくらい良いもの」が残っているなら他者を害していないと説明し、第34節でも同じ発想を繰り返しています。

後世、この条件はしばしば「ロック的但し書き(Lockean proviso)」と呼ばれるようになりました。

もう一つが、腐敗・浪費の制約です。

ロックは第31節で、自分が生活のために利用できる量までは労働によって所有できるが、それを超えて腐らせてしまうものは自分の取り分を超えており、他者に属すると述べています。自然は人間が「腐らせたり破壊したりする」ために与えられたのではない、というのがその理由です。

したがって、少なくとも貨幣が登場する前のロックの議論は、「労働を加えれば、好きなだけ取得してよい」という単純なものではありません。

「十分かつ同程度によい」とは、どういうことなのか

しかし、この条件を具体的にどう適用するのかは、簡単ではありません。

私が1ヘクタールの土地を取得したとき、あなたにも別の1ヘクタールが残っていればよいのでしょうか。

面積が同じでも、一方が肥沃な土地で、もう一方がほとんど作物の育たない荒地なら、それでも「同じくらい良い」と言えるのでしょうか。

さらに現代的に問い直せば、すべての利用可能な土地がすでに私有され、あとから生まれた人には取得できる未所有地が残っていない場合、この条件は満たされているのでしょうか。

ここから、後世の解釈が大きく分かれていきます。

貨幣が問題を変えた

ロック自身も、貨幣の登場によって財産所有の規模が大きく変わると論じました(第36節、第46〜50節)。

穀物や果物と違って、金や銀は腐りません。人々が金銀に価値を認め、貨幣として使用することに同意したことで、使い切れないほどの生産物を貨幣と交換し、その価値を長期間保存できるようになりました。

その結果、一人の人間が、自分自身では消費できないほど大きな土地や財産を持つことも可能になります。

第50節でロックは、人々が貨幣を受け入れたことによって、「暗黙かつ自発的な同意」により、地球の「不均衡で不平等な所有」に同意したと述べています。

ここは正確に読む必要があります。

貨幣によって明確に変わるのは、腐敗・浪費の制約です。食料を必要以上に取得して腐らせればロックの制約に反しますが、余剰を腐らない金銀と交換すれば、その価値を保存できます。ロック自身、第50節で金銀は「腐敗も減耗もしない」ため、余剰との交換によって、自分で産物を使い切れないほどの土地でも正当に所有できると説明しています。

では、もう一つの「他人にも十分な量と、同程度によいものを残す」という条件はどうなるのでしょうか。

ここについては、解釈が分かれます。

C・B・マクファーソンのように、貨幣と私有財産による生産性の上昇によって、この制約も事実上乗り越えられたと読む研究者がいます。一方で、この条件は貨幣の登場後も何らかの形で残ると読む研究者もいます。さらにジェレミー・ウォルドロンのように、そもそも「十分かつ同程度によいものを残す」という記述を、取得の必須条件とは読まない解釈もあります。

したがって、ロック自身について最も安全に言えるのは、次のことです。

貨幣が腐敗の制約を大きく変化させ、大規模で不平等な財産所有を可能にしたことは明確である。しかし、「十分かつ同程度によいもの」という条件が貨幣導入後にどうなるのかは、ロック研究でも決着していない。

「ロック的但し書き」は、ロック自身の言葉ではない

最後に、用語について確認しておきましょう。

現在よく使われる「ロック的但し書き(Lockean proviso)」は、ロック自身の用語ではありません。

『統治二論』第二論文の標準的な英語本文を確認しても、“proviso” という語は使われていません。第27節にあるのは、

“at least where there is enough, and as good, left in common for others”

という一節です。

この条件を現代の所有権論で “Lockean proviso” と呼んだことで大きな影響を与えたのが、ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)です。

しかもノージックは、自分が採用する条件について、「われわれがロックに帰した条件のうち、より弱い方(the weaker of the ones we have attributed to Locke)」と慎重に表現しています。続いて彼は、それを “this Lockean proviso” と呼んでいます。

したがって、「ロック的但し書き」は、ロック本人が名付けた一つの明確な原則というより、ロックの複数の記述を後世、とくにノージック以降の政治哲学が一つの条件として取り出して論じるようになったものと理解するほうが正確です。

同じ論点は、研究文献では「充足制限(sufficiency limitation)」などと呼ばれることもあります。マクファーソンやウォルドロンの議論でもこの呼称が使われています。

したがって、

「ロックは平等な土地分配を主張した」

とも、

「ロックは自然資源の無制限な私有化を明確に認めた」

とも、単純には言えません。

ロックの文章には、労働による強い私有財産権を導く要素がある一方で、他者への十分な資源の確保、浪費の禁止、万人に共有された自然という出発点もあります。後世の思想家たちは、そのどこを重視するかによって、ロスバード、ノージック、左派リバタリアニズムという異なる方向へ議論を発展させました。

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03

ロスバード ― 最初に使い、変形した人のもの

マレー・ロスバードは、ロックの労働による取得論を引き継ぎながら、より明確で強い私有財産論を展開しました。

基本的なルールはこうです。

まだ誰にも所有されていない自然資源を、最初に実際に使用し、利用できるように変形した人が、その所有権を得る。

ロスバードはこれをホームステディング(homesteading、原初取得)の原則として論じます。『人間・経済・国家』でも、自然の一部が一度も使われていなければ無所有であり、「最初の使用」または労働を加えることによって所有できると説明しています。

「最初に見つけた」だけでは足りない

重要なのは、発見したり、所有を宣言したりするだけでは足りないという点です。

ロスバードは『自由の倫理学』第10章で、大きな島に上陸したクルーソーが島全体について所有権を宣言する例を挙げています。

大きな島に上陸したクルーソーは、島全体の「所有」を風に向かって大々的に触れ回ってもよい。しかし自然の事実として、彼が所有するのは、自分が定住し、使用へと変形した部分だけである。

まだ使っていない土地についての宣言は、他人が現れるまでは空虚な言葉にすぎず、後から来た人がその土地を実際に利用し始めたなら、その人を力で排除することは権利侵害になる、とロスバードは論じています。

『人間・経済・国家』でも、同じ考えをコロンブスの例で説明しています。コロンブスが新大陸に上陸したからといって、大陸全体や「見渡せるかぎり」の土地を自分のものだと宣言することはできません。土地を実際に使用し、何らかの形で「耕作(cultivate)」してはじめて、その部分について所有権を得ることができるとします。

ここでいう「耕作」は、文字どおり畑を耕すことだけではありません。ロスバード自身、住宅のために土地を整える、牧草地として利用する、森林を管理するといった行為も例に挙げています。

したがってロスバードの議論では、単に「言った者勝ち」「先に見つけた者勝ち」なのではありません。

最初に実際の使用によって、未所有だった自然資源と客観的な関係を作った人が所有者になる。

これが中心的な考え方です。

なお、ロスバードは、所有権を維持するためにその土地を使い続ける必要があるとは考えません。一度正当に原初取得された土地は、その後使われなくなっても所有権は残るとしています。

「単なる口頭の宣言では所有できない」という考えはロスバード自身の議論にも明確に含まれていますが、これを「行為による原初取得か、単なる言葉による宣言か」という形で体系的に対比したのは、後のハンス=ヘルマン・ホッペです。ホッペは、所有権には客観的・第三者にも確認可能な結びつきが必要であり、単なる宣言だけではそれを作れないと論じました。

なぜ土地そのものまで所有できるのか

ここで、ヘンリー・ジョージ派からの反論が出てきます。

作物は農民が作った。しかし、土地そのものを農民が作ったわけではない。それなら、なぜ農民は作物だけでなく、土地そのものまで所有できるのか。

ロスバードは、この区別そのものに反論します。

人間は、そもそも物質そのものを無から創造しているわけではない。

彫刻家も、大理石や粘土そのものを作ったわけではありません。鉄を作る人も、その原料となる鉄鉱石を作ったわけではありません。人間が「生産」するときに行っているのは、自然に存在する物質に、自分の労働・知識・技術を加え、人間にとってより役立つ形へ変形することです。

ロスバードによれば、土地の原初取得もこれと同じです。

未利用の土地を開墾し、囲い、耕し、建物を建てるなどして利用可能なものへ変形する人も、彫刻家や製造業者と同じ意味で「生産者」です。ロスバードは、土地の所有を正当化する自然権上の根拠は、他の財の原初的な所有を正当化する根拠と同じだと論じます。

さらに彼は、土地と労働の成果を完全に切り離すこと自体にも疑問を投げかけます。農民は土地なしに小麦を作れません。土地へ労働を加え、それを生産に使える状態へ変えたのに、「作物はあなたのものだが、その土地そのものはあなたのものではない」とするのは、一貫しないというわけです。

したがってロスバードにとって、「労働によって生み出した価値は所有できるが、自然資源そのものは所有できない」という境界を設ける理由はありません。

ロック的但し書きを採らない

ロスバードは、自然資源の原初取得に、「他の人にも公平な取り分を残さなければならない」という制約を置きません。

誰にも所有されていなかった土地を最初の人が正当に使用・変形して取得したとしても、それによって他人の既存の所有物を奪ったわけではない。したがって、後から来た人が「自分にも同じ土地を取得する機会が残されていない」と主張しても、それだけで既に正当に取得された土地への権利は生じない、と考えます。

ロスバードは、ノージックが採用した「ロック的但し書き」を批判するなかで、この点を非常にはっきり述べています。土地の取得によって後から来た人が以前より不利になるとしても、

それも、この自由で不確実な世界において彼らが引き受けるべきリスクである

というのが彼の答えです。さらに、アメリカにはもはや広大な未所有のフロンティアはないが、そのことを嘆いても仕方がない、とまで述べています。

現行の『スタンフォード哲学百科事典』「Libertarianism」(2023年8月改訂)も、ロスバードを、未所有・未使用の自然資源の原初取得について「量的制約を置かない、最も許容的な立場(maximally permissive view)」の代表者の一人に位置づけています。

ただし、取得の方法について何の条件もないという意味ではありません。ロスバードには、実際にその資源を使用するなどの取得手続きが必要です。その条件を満たすかぎり、「一人がどれだけ取得してよいか」という公平な取り分の上限を設けないという意味です。

なお、同項の2014年7月改訂版では、この立場を “radical right libertarianism” と呼び、ロスバードをその代表者の一人として明記していました。この呼称は2018年9月改訂の時点ですでに姿を消しており、現行版にもありません。

ジョージへの反論は、全面否定ではない

ロスバードは、1957年の論文「The Single Tax: Economic and Moral Implications」で、ヘンリー・ジョージの『進歩と貧困』に代表される単一土地税(single tax)論を、経済学と財産権の両面から厳しく批判しました。この論文はFEE(Foundation for Economic Education)から刊行されたものです。

しかし、ジョージの思想すべてを否定していたわけではありません。

この論文への批判に答えた「A Reply to Georgist Criticisms」の末尾で、ロスバードはこう述べています。

私はヘンリー・ジョージの多くの側面を大いに尊敬している。とりわけ、生産への課税が撤廃された場合にもたらされる利益についての彼の記述には、深い敬意を抱いている。私たちの違いは、土地価値への課税もまた生産を損ない、しかも正義にかなうどころか不正であると、私が考えている点にある。

原文は “I have great respect for many aspects of Henry George” と始まり、ジョージが生産への課税をなくすことの利益を説いた部分をとくに高く評価しています。そのうえで、土地価値税も生産を害し、道徳的にも不正だという点で決定的に袂を分かっています。

したがって、ロスバードのジョージ批判は全面的な思想否定ではありません。租税が生産を妨げるという問題意識ではジョージを高く評価しながら、「では土地への課税だけは例外にできるのか」という点で、ロスバードは明確に否定したのです。

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04

ノージック ― 他人を悪化させてはならない

ロバート・ノージックは、1974年の『アナーキー・国家・ユートピア』第7章「配分的正義(Distributive Justice)」で、ロック的な財産権論を現代政治哲学の中心的な論争へと引き戻しました。

ただし、ロスバードとは重要な違いがあります。

「労働を混ぜる」だけで、本当に所有できるのか

ノージックは、ロックの「労働を混ぜる」という説明に、有名な疑問を投げかけます。

しかし、自分が所有するものを自分が所有していないものと混ぜることが、なぜ所有していないものを得る方法であって、所有しているものを失う方法ではないのか。私がトマトジュースの缶を所有していて、それを海に注ぎ、その分子が海全体に均等に混ざったとしたら、私はそれによって海を所有するようになるのか。それとも、愚かにもトマトジュースを無駄にしてしまったのか。

原文の最後は “have I foolishly dissipated my tomato juice?” です。ノージックが問題にしているのは、「自分のものを未所有物と混ぜた」という事実だけから、なぜ所有権が自分の側から外部の物へ広がるのかという論理です。

ただし、ノージックはこの例によって私有財産や原初取得そのものを否定したわけではありません。

むしろ、「労働を混ぜたから」という説明だけでは不十分だと指摘したうえで、労働によって価値を加えた場合はどうか、取得によって他者を不利にしてはいけないのではないか、と議論を進めます。そしてロックの条件を独自に再解釈した「ロック的但し書き」を、取得の正義を考える際の重要な制約として採用します。

ただしノージック自身は、正当な原初取得の条件を完全には定式化していません。この点は、彼の権原理論に残された重要な問題の一つです。

権原理論 ― 現在の分配ではなく、歴史を見る

ノージックが重視したのは、財産がいま誰にどれだけ分配されているかだけではなく、その財産がどのような過程を経て現在の人のものになったのかです。

彼の権原理論(entitlement theory)は、主に三つの問題から成ります。

  • 取得の正義——まだ誰にも所有されていないものを、最初にどのように取得できるのか
  • 移転の正義——正当に所有されたものが、売買や贈与などによってどのように他者へ移るのか
  • 不正の是正——過去に窃盗、詐欺、強制などによる不正な取得・移転があった場合、それをどう是正するのか

ノージック自身、権原理論を歴史的(historical)な正義論だと位置づけています。ある財産状態が正しいかどうかは、現在の分布だけを見てもわからず、それがどのように生じたかを見なければならない、という考えです。

したがって、正義にかなった取得から始まり、その後の移転も正義にかなっているなら、結果として大きな格差が生じているという事実だけでは、その状態を不正とは言えません。

逆に、現在の分配が非常に平等に見えても、それが盗みや強制によって作られたのであれば、ノージックにとっては正義ではありません。

そして過去に不正があったなら、単に現在の状態をそのまま正当化することもできません。不正の是正まで含めて歴史を見る必要があります。実際ノージックも、現実の財産の歴史には殺人、略奪、奴隷化、詐欺、強制的移転などが大量に含まれてきたことを認識しています。

これが、ノージックの「歴史的」な正義論です。

弱い但し書き

ただしノージックも、最初の人が無制限に自然資源を取得してよいとは考えません。

彼は、ある人の取得によって他人が「悪化する」場合を、二つに分けます。

  • 一つは、自分自身もその資源を取得できたはずの機会を失うこと
  • もう一つは、それまで自由に使えていた資源を、もう自由に使えなくなること

前者まで禁止するのが厳しい条件です。しかしノージックは、そこまでは要求せず、後者の悪化を防ぐ「弱い但し書き」を採用します。彼の定式はこうです。

これまで未所有だった物について通常なら永続的で相続可能な所有権を生じさせる過程は、その物をもはや自由に使えなくなった他人の状況が、それによって悪化させられる場合には、所有権を生じさせない。

つまり、「自分もその土地を取得したかったのに、先に取られてしまった」というだけでは、ノージックの但し書きには反しません。一方、それまで利用できた資源を私有化されたことで、他に代替手段もなく、実際に以前より悪い状態に置かれるなら問題になります。

ただし、ここにはもう一つ重要な点があります。取得によって他人を悪化させる場合でも、ノージックは必ずしも取得そのものを不可能とはしません。他の人を以前より悪い状態にしないだけの補償を行えば、取得を認める余地があります。補償がなければ、その取得は但し書きに反し、不正な取得になります。

そして、ここは正確に読む必要があります。

では「悪化」とは、何と比べて悪化したことを意味するのでしょうか。

ノージック自身、この比較の基準となるベースライン(baseline)の確定について、「この基準線の確定には、ここで与えられる以上の詳細な検討が必要である」と述べ、完全な答えを出していません。したがって、ノージックの但し書きをどの程度厳しいものとして読むべきかは、現在でも重要な解釈上の争点です。

但し書きは、後の取引にも影を落とす

ノージックの但し書きは、最初の取得だけに適用される条件ではありません。

彼は、取得に対する但し書きが、その後の売買や財産の使用にも「影」を落とすと考えます。たとえば、

但し書きが、ある人が世界中の飲料水をすべて取得することを認めないなら、その人が一部を取得し、残りを他人からすべて買い集めることも認められない。

と論じます。ノージックはこれを「ロック的但し書きの歴史的な影(historical shadow)」と表現します。

つまり、最初は正当に取得された財産であっても、その後の移転や利用の結果として但し書きに反する状態を作れば、所有権の行使には制限がかかりうるということです。

有名なのが、砂漠の水飲み場の例です。

砂漠に唯一残された水飲み場を所有している人は、その状況を利用して好きなだけの価格を要求することはできないとノージックは述べます。

しかも重要なのは、最初から唯一の水源を不当に独占した場合だけではありません。もともとは複数の水源が存在し、自分の水源を正当に所有していたとしても、たまたま他の水源がすべて干上がり、自分の水源だけが残った場合にも、但し書きが発動して所有権を制約するとします。

つまりノージックにとって、所有権は一度正当に取得すれば、その後どのような状況になっても無条件に行使できる絶対的な権利ではありません。

⚠ ただし、ノージック自身は但し書きがほとんど発動しないと考えていた

ここは、ノージックを理解するうえで非常に重要です。

水飲み場の例だけを見ると、彼の但し書きは市場取引をかなり強く制約するように見えます。しかしノージック自身は、実際にはそうならないと考えていました。

世界中の飲料水を買い集める例を論じた直後、彼は「この但し書きは(ほとんど?)決して発動しないだろう」と述べています。原文は “This proviso (almost?) never will come into effect” で、“almost?” と疑問符まで付けています。理由は、ある希少資源を一人が買い集めようとすれば、残りの価格が上昇し、すべてを取得することがますます難しくなるからです。

さらに節の最後では、「自由な市場制度の作動が、実際にロック的但し書きに抵触することはないと私は考える」と明言しています。これはノージック自身が経験的・歴史的な主張だと認めている点にも注意が必要です。

新薬の例も、その考え方をよく示しています。

ある研究者が、容易に入手できる原料から、それまで存在しなかった新しい治療物質を合成したとします。研究者がその全供給を所有し、自分の条件でしか販売しなくても、それだけでは他人を以前より悪化させたことにはならない、とノージックは考えます。

なぜなら、その研究者がいなければその薬自体が存在しなかったからです。また、その研究者から第三者がその薬の全供給を買い取ったとしても、それだけで但し書き違反になるわけではないとしています。

したがってノージックの但し書きは、「誰かが必要としているものを独占したら、それだけで違反」という原理ではありません。

問題になるのは、その人の取得・移転・利用によって、他者が、本来なら利用できた資源を利用できなくなり、基準となる状態より実際に悪化したのかという点です。

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05

ヘンリー・ジョージ ― 労働の成果は私有、土地の価値は共同体へ

19世紀の思想家ヘンリー・ジョージ(1839–1897)は、現代のリバタリアニズムが確立する以前の人物です。したがって、彼自身をそのまま「現代の左派リバタリアン」と呼ぶのは正確ではありません。

ただし、現代の政治哲学では、ジョージは分析哲学系の左派リバタリアニズムにつながる思想的先駆者の一人として位置づけられています。ピーター・ヴァレンタインは、自己所有と自然資源についての平等主義的な考えを組み合わせた初期の論者として、グロティウス、ロック、トマス・ペイン、トマス・スペンス、初期のハーバート・スペンサーらとともに、ジョージを挙げています。

人が作ったものと、自然を区別する

ジョージの土地論を理解するうえで重要なのが、人間の労働によって作られたものと、自然から与えられたものを区別することです。

『進歩と貧困』(1879年)第1篇第2章で、ジョージは政治経済学上の「富(wealth)」を、人間の労働によって自然物を移動・結合・分離・加工するなどして、人間の欲求を満たすようにしたものとして定義します。自然が人間の労働なしに提供するものは、それ自体では「富」には含めません。

そして第7篇第1章では、この区別を所有権の正義にまで進めて、次のように述べます。

本当の、そして自然な区別は、労働の産物であるものと、自然が無償で差し出したものとのあいだにある。政治経済学の用語を使えば、富(wealth)土地(land)のあいだにある。

ジョージにとって、家や建物、農作物、土地に施した改良などは、人間の労働によって作られたものです。それらについて個人の所有権を認めることには、労働という根拠があります。

しかし、土地そのものを人間が作ったわけではありません。

この点からジョージは、むしろ労働の成果に対する私有財産権を強く認めるからこそ、労働によって作られていない土地そのものについて、同じ理屈で排他的な私有権を正当化することはできない、と論じます。第7篇第1章では、労働の成果への所有権を認めることは、逆に、労働の産物ではないものへの排他的所有権を否定することにつながる、とまで主張しています。

そのためジョージは、土地の私的所有を「一つの不正(a wrong)」と明確に表現します。そして、人間には自分自身と自らの労働成果への権利がある一方、自然がすべての人に提供した土地については、すべての人に等しい権利があると考えました。

ただし、ここで注意が必要です。

ジョージが実際の政策として提案したのは、すべての土地を政府が接収して直接管理することではありません。土地の占有・売買・相続という形式は残したまま、土地から生じる地代(rent)・土地価値を課税によって共同体に還元するという方法でした。『進歩と貧困』第8篇第2章で、彼は「土地を没収する必要はなく、地代を取ればよい」と説明し、最終的に他の税を廃して土地価値への課税に集中する案を提示しています。

地主を追い出すのではなく、地代を共同体へ

ここは誤解されやすいところです。

ジョージは実際の政策として、土地の法的所有権をすべて国家へ移し、政府が土地を直接貸し出す方式を提案したわけではありません。『進歩と貧困』第8篇第2章では、こう述べています。

私は、土地の私的所有を買い上げることも、没収することも提案しない。前者は不正であり、後者は不要である。……核を取るのであれば、殻は安んじて彼らに残しておいてよい。土地を没収する必要はない。ただ地代を没収すれば足りる。

さらに、国家が土地を直接貸し出す制度についても、「えこひいき、共謀、腐敗」を招く可能性があるとして退けています。土地所有者には、従来どおり土地の占有・売買・相続を認め、建物など人間が作った改良物についても私有を認める。その一方で、土地そのものから生じる経済的な地代を、土地価値への課税によって共同体へ戻す。これがジョージの提案でした。

実際、彼が第8篇第2章で示した政策は、土地価値への課税以外のすべての税を廃止するという、いわゆる「単一税(single tax)」でした。

ただし、「ジョージは土地の共有化や国有化を否定した」と無限定に言うことも正確ではありません。

第6篇第2章で彼は、はっきりと「われわれは土地を共有財産にしなければならない」と結論しています。

そして第8篇第2章でも、地代を課税によって社会が回収すれば、国家は名目上そう呼ばれなくても「普遍的な地主(universal landlord)」となり、土地は「実質的に共有財産(really common property)」になると述べています。

したがって、最も正確に言えば、次のようになります。

土地の法的名義を国家へ移す「国有化」は提案しなかった。しかし、土地から生じる地代を共同体へ帰属させることによって、経済的な意味では土地を共有財産にしようとした。

土地の価値は、誰が作ったのか

ジョージの議論でとくに重要なのが、土地そのものの価値はどこから生まれるのかという問いです。

同じ面積の土地でも、人のほとんどいない原野と、大都市の駅前では価値がまるで違います。

では、駅前の土地が高価なのは、その地主本人が土地を改良したからでしょうか。

ジョージの答えは、基本的に「違う」です。『進歩と貧困』第8篇第3章で、土地価値についてこう論じています。

それはいかなる場合にも、その土地を所有する個人が創り出したものではない。それは共同体の成長によって創り出されたのである。

人口が増え、周囲に住宅や商店が建ち、道路や交通網が整い、経済活動が活発になれば、その場所を利用できることの価値が高まります。ジョージにとって、その土地価値の上昇は、地主本人の労働ではなく、人口増加や社会全体の発展によって生じる価値でした。

この考えを印象的に描いたのが、『進歩と貧困』第4篇第2章の開拓者の例です。

人のいない土地に最初の開拓者が住み始める。やがて人が集まり、村になり、町になり、大都市へ発展していく。そのあいだ、最初の開拓者の土地は莫大な価値を持つようになります。

ジョージは、その地主についてこう書きます。

もう一人のリップ・ヴァン・ウィンクルのように、彼は横になって眠っていたかもしれない。それでも彼は豊かになっている——彼が何かをしたからではなく、人口が増えたからである。

ジョージがここで区別しているのは、所有者自身が建物を建てたり土地を改良したりして生み出した価値と、土地の所在地そのものに、人口増加や社会の発展によって付け加わった価値です。

前者は労働の成果だから個人のもの。後者は共同体によって生じたものだから共同体へ戻すべきだ、というのが彼の論理です。

この発想は後に、労働や生産への課税をできるだけ避け、土地・自然資源の経済的地代を共同体へ還元するジオリバタリアニズム(Georgist libertarianism)へとつながっていきます。現代の左派リバタリアニズムの整理でも、ジョージとスタイナーの系統は、自然資源を私的に取得することを認めながら、その競争的価値に相当する支払いを求める立場として位置づけられています。

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06

左派リバタリアニズム ― 強い自己所有権と、自然資源の平等

まず、言葉の整理から

「左派リバタリアニズム(left-libertarianism)」という言葉には、複数の意味があります。

スタンフォード哲学百科事典「Libertarianism」の2023年8月改訂版は、現在の議論で「左派リバタリアニズム」と呼ばれるものを、大きく二つの系統に区別しています。

  • 左派市場アナーキズム(left market anarchism)——ベンジャミン・タッカー、トマス・ホジスキン、ライサンダー・スプーナーらのアメリカ個人主義的アナキズムを重要な源流とし、現代ではゲイリー・シャルティエやロデリック・ロングらに代表される系統。私有財産と市場を認めながら、国家と既存資本主義との結びつきを強く批判します。
  • 分配的正義論としての左派リバタリアニズム——ヒレル・スタイナー、ピーター・ヴァレンタイン、マイケル・オーツカらに代表される系統。強い自己所有権を認めながら、誰も作っていない自然資源の取得には平等主義的な制約が必要だと考えます。

このページで扱うのは後者です。

なお、この二つとは別に、日常的・政治的な用法では「文化的・社会的に進歩的なリバタリアン」を「左派リバタリアン」と呼ぶ場合もあります。当サイトの リバタリアン運動は、どこへ向かうのか では、こうした俗用も含めて三つに整理しています。

自己所有権は、放棄していない

ここが最も誤解されやすいところです。

スタイナー、ヴァレンタイン、オーツカらの左派リバタリアニズムは、平等を実現するために自己所有権を捨てた理論ではありません。むしろ彼ら自身は、右派リバタリアニズムと同様に、強い、ほぼ完全な自己所有権を認める立場だと明確に自己規定しています。

三人は2005年の共著論文「Why Left-Libertarianism Is Not Incoherent, Indeterminate, or Irrelevant」で、左派リバタリアニズムについてこう説明しています。

左派リバタリアニズムは、より馴染み深い右派リバタリアニズムと自己所有権については一致するが、自然資源の所有権を取得する権能については根本的に対立する

論文はさらに、所有権を単純な「ある/ない」の二択とは考えないと断ったうえで、行為者は「少なくともおおむね、完全に自分自身を所有している」のであって、「まったく自己所有していない」あるいは「著しく弱い形でしか自己所有していない」のではない、と述べています。

したがって、この系統の左派/右派リバタリアニズムを分ける中心的な問いは——

自分の身体を誰が所有するのか、ではありません。

誰も作っていない外部世界を、どのような条件で個人が所有できるのか。

右派リバタリアンは、正当な原初取得が成立すれば自然資源について強い私有権を認めます。一方、左派リバタリアンは、自己所有を認めながらも、自然資源は誰かが生産したものではない以上、その取得には他者の平等な立場を守る何らかの制約が必要だと考えます。スタンフォード哲学百科事典も、この意味で左派リバタリアニズムを「自己所有+外部世界についての平等主義的原理」と整理しています。

ただし、ここには重要な論争があります。

「彼らは強い自己所有権を維持している」というのは、まず彼ら自身の理論上の自己規定です。批判者の中には、その主張に異議を唱える者もいます。

リチャード・アーネソンは、オーツカらの自己所有権は、権利形式だけを見れば強いとしても、それを広い実質的自由まで保障する自己所有として理解すれば、自然資源についての強い平等主義との間に緊張が生じると批判しています。彼は、自己所有を単なる「薄い、形式的な」概念ではなく、個人に広い自由を保障する「厚い」原理として理解すべきだと論じます。

またバーバラ・フリードは、左派リバタリアンが自己所有という原理から導こうとしている結論について、そもそも「自己所有」という概念には、その仕事を果たすだけの規範的内容がないと批判しました。彼女は、自己所有という薄い前提から非常に厚い結論を引き出しており、その原理には解釈者が望む結論を読み込む余地が大きすぎると論じています。

したがって、最も公平な整理はこうなります。

  • 左派リバタリアン自身は、強い自己所有権を維持したまま自然資源について平等主義を導けると考える。
  • 批判者は、その二つが本当に両立しているのかを問題にする。

ここもまた、左派リバタリアニズムを理解するうえで重要な論争です。

「共有」は、必ずしも全員の許可が要るという意味ではない

左派リバタリアニズムにはいくつかの立場がありますが、ここで扱うスタイナーやオーツカの立場では、自然資源について全員に平等な権利があるからといって、「土地を使うたびに世界中の人から許可を得なければならない」とは考えません。

個人が自然資源を私的に使用・取得すること自体は認めます。ただし——

一人当たりの等しい取り分を超えて自然資源を取得・利用した場合、その超過分の価値について他の人への埋め合わせが必要になる。

つまり、私的な管理・利用自然資源価値の平等な分配を組み合わせます。

ヒレル・スタイナー

この立場を代表する哲学者の一人がヒレル・スタイナーです。1994年の主著『An Essay on Rights』(Blackwell)は、日本語では『権利論——レフト・リバタリアニズム宣言』(浅野幸治 訳、新教出版社、2016年)として刊行されています。

考え方を単純化すると、こうなります。ある土地をあなたが排他的に利用すれば、他の人はその土地を利用できなくなる。しかし、土地そのものはあなたが作ったものではありません。だから、その土地の未改良の自然資源としての価値については、他の人にも等しい取り分がある。一人当たりの等しい取り分を超えて自然資源を占有した人は、その超過分の価値を他の人へ埋め合わせることになります。

一方で、建物、作物、機械など、人間の労働によって加えられた改良の価値は、それを生み出した人の財産として保護されます。

後の議論でスタイナーは、この平等な権利を世界規模で実現する仕組みとして「Global Fund」を論じました(「The Global Fund: A Reply to Casal」、『Journal of Moral Philosophy』第8巻第3号、2011年)。その構想では、各国がその領域内にある自然資源の未改良価値——総市場価値から人的努力による改良分を差し引いたもの——について、その価値の100%に相当するGlobal Fund税を負うとされます。

ここで重要なのは、この給付を単に「金持ちから貧しい人へ所得を再分配する」ものとは考えていない点です。スタイナー型では、もともと全員に等しい権利がある自然資源の価値について、排他的に利用している側が他の人の取り分を埋め合わせるという、財産権上の調整として構成されます。

したがって、理論上の出発点は「貧しいから受け取る」「豊かだから支払う」というものではありません。

マイケル・オーツカ

マイケル・オーツカの『Libertarianism without Inequality』(オックスフォード大学出版局、2003年)は、この系譜のもう一つの代表的著作です。

ピーター・ヴァレンタインは、スタイナー型の「等しい取り分」の考え方では十分に平等主義的ではないとして、オーツカの立場を「機会の平等」型の左派リバタリアニズムとして区別しています。

オーツカは、単に自然資源の市場価値を一人ずつ等しく分ければよいとは考えません。本人が選んだわけではない生まれつきの資質などの違いも考慮し、それぞれが「福祉(well-being)を実現する機会」をより平等に持てるような自然資源の取得条件を論じます。

つまり、同じ価値の土地を全員に与えることが、必ずしも平等とは限りません。同じ資源から得られる利益や生活上の機会が、生まれつきの条件によって大きく異なる場合があるからです。

ただし、これは程度の違いでもあります。スタイナー自身も、生殖系列の遺伝情報を「自然資源」とみなす議論を展開しており、生まれつきの資質の不平等にまったく手を伸ばしていないわけではありません。

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07

現在の土地所有権は、正当な歴史を持つのか

ここまでは、「まだ誰も所有していない土地を、最初にどう取得するか」という話でした。

しかし現代社会では、ほとんどの土地にすでに所有者がいます。

それなら、「いま所有者がいるのだから、その所有権をそのまま守ればよい」と考えたくなります。

ところが、ロスバードもノージックも、そこまで単純ではありません。

現在の所有権が正当であるためには、それが正当な過程を経て現在の所有者まで到達したのかという問題が残るからです。

ノージック ― 「正しい歴史」が必要

ノージックの権原理論では、現在の財産状態が平等か不平等かという「結果」だけを見ても、それが正義にかなっているかどうかは判断できません。

必要なのは、その財産の歴史です。

最初の取得は正しかったのか。その後の売買、贈与、相続などは正義にかなったものだったのか。その途中に、盗み、詐欺、奴隷化、強制的な収奪などはなかったのか。

ノージックは、権原理論を三つの問題に分けました。

  • 取得の正義——最初にどのように所有権を得たのか
  • 移転の正義——正当な所有者から、どのように他者へ移ったのか
  • 不正の是正——過去に不正な取得や移転があった場合、それをどう修正するのか

したがって、過去の不正が現在の所有関係を形づくっているなら、現在の所有状態をそのまま正当なものとして扱うことはできません。何らかの「不正の是正(rectification)」が必要になります。

しかし、ここで非常に難しい問題が生じます。

何百年前の土地の強奪は、現在どう是正すべきなのか。加害者も被害者もすでに死亡し、その子孫が土地を売買してきた場合はどうするのか。不正がなければ、現在の社会はどのようになっていたと考えるべきなのか。

ノージック自身、この問題について「徹底した、あるいは理論的に洗練された取り扱いを、私は知らない」と率直に認めています。

さらに、取得・移転・是正という三つの原理を具体的な理論として完成させるには、それぞれの詳細を定める必要があるとしたうえで、「その課題をここで試みることはしない」と述べています。

ここは、ノージックを理解するうえで非常に重要です。

ノージックの理論は「現在の所有者が持っているものは、そのまま正当だ」という理論ではありません。むしろ、「現在の所有権を正当化するには、その背後に正当な歴史が必要だ」という理論です。

そして現実の歴史には、多くの不正が含まれています。

そのためノージックは、不正の是正について十分な理論がない状況では、彼自身の理論を使って現実のあらゆる再分配政策を一律に否定することもできないとまで認めています。『アナーキー・国家・ユートピア』の後半では、特定の社会について完全な是正原理がない以上、過去の不正の是正によって正当化される可能性がある移転政策を、彼の理論だけからただちに非難することはできないと述べています。

さらに彼は、過去の不正について十分な情報がない場合には、最も不遇な人々の状況を改善するというロールズの格差原理に似た方法を、是正のための「大まかな経験則」として利用できる可能性さえ示唆しています。また、過去の不正が非常に大きい社会では、その是正のために一時的に最小国家より大きな国家が必要になる可能性も認めています。

したがって、ノージックを「現在の私有財産を無条件に守る思想家」と理解するのは正確ではありません。

むしろ彼の問いは、「その財産は、本当に正当な取得と移転の歴史を経て、現在の所有者のもとにあるのか」という、かなり厳しいものです。

ロスバード ― 盗まれた土地は、時間がたてば自動的に正当になるのか

ロスバードも、現在の法律や登記が所有者と認めているというだけで、その権原が正当になるとは考えません。

ただし、過去に一度でも犯罪があれば、現在の土地所有をすべて無効にするという立場でもありません。

『自由の倫理学』第9章「Property and Criminality」で、彼は過去に盗まれた財産について、いくつかの場合を区別しています。

元の所有者、またはその相続人を特定できるなら、現在の占有者自身が盗人でなくても、その財産は元の所有者または相続人へ返されるべきだとします。現在の所有者が善意で取得していたとしても、盗人から正当な所有権を受け取ることはできない、という考えです。

一方、財産が過去に盗まれたことはわかっていても、被害者やその相続人がもはや特定できず、現在の占有者自身もその犯罪を行った人物ではない場合、ロスバードは異なる結論を出します。

被害者が歴史のなかで特定できなくなれば、その財産はいったん「無所有」の状態になったと考えます。そして、現在の占有者がそれを実際に使用しているなら、ホームステディングの原則によって、現在の非犯罪的な占有者が正当な所有者になるとします。

土地についても同じです。ロスバードは第10章で、被害者が「古代のうちに失われている」場合、その土地は現在それを占有している非犯罪者のものになるという趣旨を明確に述べています。

したがって、ロスバードは「犯罪に由来する土地は、何世代たってもすべて元に戻さなければならない」とは考えていません。

重要なのは、元の被害者やその相続人を特定できるのか。現在の占有者自身が犯罪者なのか。そして、その侵害が過去に終わったものなのか、それとも現在も続いているのかです。

侵害が現在も続いている場合

これに対して、ロスバードがはるかに厳しい結論を出すのが、封建的な土地保有のように、過去の強奪によって作られた関係が現在も続いている場合です。

たとえば、かつて土地を耕していた農民から征服者が暴力で土地の権原を奪い、その子孫や権原を買った地主が、何世代にもわたって、その土地を耕す農民から地代を徴収し続けている場合です。

ロスバードは、この場合には次の事情がそろっていると考えます。

  • 元の土地権原が強制によって成立している
  • 現在も農民に対する侵害が続いている
  • 現在の被害者である農民を容易に特定できる

彼自身、封建的な土地保有については、犯罪性が「古くかつ現在も続いており」、被害者である農民は「容易に特定できる」ため、無効な権原のうち最も見分けやすいものの一つだと述べています。

ここで重要なのは、現在の農民が、何百年前に土地を奪われた農民の子孫である必要さえないという点です。

ロスバードによれば、侵害そのものが現在まで続いている以上、現に土地を耕している農民自身が現在の被害者であり、正当な所有者です。

そのため彼は、かなり踏み込んだ結論を出します。

現在の「小作人」、すなわち農民こそが、その財産の絶対的な所有者であるべきである。……土地の権原は、独占的地主への補償なしに農民へ移転されるべきである。

つまり、ここでは「地主に土地改革の補償金を払う」という政策さえ否定します。地主の権原が正当なら土地を取り上げるべきではない。しかし権原が不正なら、不正な権原を放棄させるために補償する理由もない、という論理です。

ロスバードは、このような封建的土地保有を、とくにアジア、中東、ラテンアメリカで重要な社会的・経済的問題だと論じています。

強い財産権論ほど、「正当な権原」が重要になる

これは見落とされやすい点です。

ロスバードやノージックのように財産権を強く認める理論では、「その財産は本当に正当な権原にもとづいているのか」という問いも重要になります。

私有財産を守るとは、現在の法律や登記が「所有者」と認定している人を無条件に守ることではありません。

守るべきなのは、正当に取得された財産権です。

そのため土地をめぐるリバタリアンの議論は、原初取得だけでは終わりません。征服や植民地化に伴う土地の強制的収奪、奴隷制、国家による土地の没収など、過去の権利侵害を現在どう扱うかという問題にもつながっていきます。

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08

結論が分かれる5つの難問

1 ― 無人島に最初に着いた人は、島全体を所有できるか

Aさんが無人島に最初に上陸し、海岸の一部を開墾して家を建てました。

Aさんが建てた家や、実際に利用・変形した土地について、どのような所有権が成立するでしょうか。そしてAさんがさらに、「島全体は自分のものだ」と宣言したらどうでしょうか。

ロスバード型——単なる発見や宣言では足りません。実際に使用し、利用できるように変形した範囲について所有権が生まれます。島の一部しか利用していないなら、島全体を取得したことにはなりません。

ノージック型——ノージック自身は、正当な原初取得の方法を完全には定式化していません。ただし、どのような取得理論であっても、取得によって、それまでその資源を自由に利用できた他者を悪化させないという「弱い但し書き」が必要だと考えます。単に他の人が「自分も取得できたのに」という機会を失っただけでは、但し書き違反にはなりません。

左派リバタリアン型——私的な取得や利用そのものを否定するわけではありません。しかし、自然資源の取得には、他の人々の平等な立場を守る何らかの制約が必要だと考えます。スタイナー型なら、自然資源の価値について自分の平等な取り分を超えて取得する場合、他者への補償が必要になります。

問題は「最初に着いた」という事実だけではありません。

何をすれば所有権が生まれるのか。どこまでの範囲を取得できるのか。そして、その取得によって他者に対して何らかの義務が生じるのか。ここで答えが分かれます。

2 ― 砂漠で唯一の水源を最初に見つけたら

Aさんが砂漠で、まだ誰にも所有されていない唯一の水源を最初に見つけ、それをすべて自分のものとして取得したとします。ほかの人々が生きるためには、その水を利用する必要があります。

Aさんは、「水一杯100万円。それを払えなければ渡さない」と言えるでしょうか。

ロスバード型——水源が正当に原初取得されたのであれば、後から来た人がそれを必要としているという理由だけで、所有権が自動的に消えるとは考えません。ここでは、生命維持に必要だという他者の必要が、正当に成立した財産権をどこまで制約できるのかが問われます。

ノージック型——唯一の水源を取得することで、他の人々がそれまで利用できた水を利用できなくなり、基準となる状態より悪化するなら、ロック的但し書きが働きます。ノージック自身が、砂漠で唯一の水飲み場を取得して好きなだけの価格を要求することはできない、という例を挙げています。

左派リバタリアン型——自然の水源を私的に利用すること自体は認めうるとしても、その自然資源について一人が排他的な利益をすべて取得することには、平等主義的な制約がかかります。ただし、その具体的な内容は、スタイナー、オーツカなどの理論によって異なります。

ここでとくに重要なのは、「必要なものだから私有できない」というだけではノージックの議論にならないことです。

ノージック自身、新薬を発明した人がその薬の全供給を持っていても、それだけでは但し書き違反にならないとします。その研究者がいなければ薬そのものが存在しなかったからです。問題なのは「必要性」そのものではなく、その人の取得によって、他者がそれまで利用できた資源を奪われ、基準状態より悪化したのかです。

3 ― 駅ができて地価が10倍になったら、その値上がりは誰のものか

Aさんは100年前から土地を正当に所有しています。本人は土地に何の改良もしていません。しかし周囲に鉄道、企業、商店、学校ができ、人口も増えた結果、土地の市場価値が10倍になりました。

この値上がり分は、誰のものでしょうか。

ロスバード型の強い私有財産論——土地が正当に取得され、正当にAさんまで移転してきたのであれば、その土地についての所有権には、市場価値の上昇も下落も含まれます。Aさん自身が地価上昇の原因を作ったかどうかによって、その所有権が変わるわけではありません。

ジョージ型——建物や土地改良の価値は、それを作った人のものです。しかし、人口増加、交通網、周囲の経済活動などによって上昇した未改良の土地そのものの価値は、地主本人が作ったものではありません。ジョージは、この土地価値・地代は共同体の発展によって生じたものなのだから、土地価値への課税によって共同体へ戻すべきだと考えます。

スタイナー型——理由は少し違います。スタイナーは、地価が「社会によって作られた」から共有すべきだということを中心的な根拠にはしません。そもそも誰も作っていない自然資源の競争的な価値について、すべての人に平等な取り分があると考えます。したがって、一人が自分の平等な取り分を超える自然資源価値を占有するなら、その超過分について他者への補償が必要になります。これは取得時だけでなく、その後も継続して要求される制約です。

ここで問われているのは、「すでに自分が所有している物の値上がりなのだから、その利益も当然に自分のものだ」という考えと、「その値上がりのうち、自分が作っていない土地そのものの価値まで、なぜすべて自分のものになるのか」という考えのどちらを採るかです。

4 ― すべての土地が所有された後に生まれた人は、どうなるか

世界中の利用可能な土地がすべて私有化されたとします。その翌日に子どもが生まれました。

その子には、自分が新たに取得できる未所有地が一つもありません。土地を利用するには、すでに所有権を持つ誰かとの合意が必要になります。

このとき、先に生まれた世代による土地の取得は、後から生まれる人々に対してもそのまま有効なのでしょうか。

ロスバード型——土地が正当に原初取得され、その後も正当に移転されてきたのであれば、後から生まれたというだけで、その人に他人の土地への持分が新たに発生するわけではありません。未所有地がなくなったこと自体は、先行する正当な所有権を無効にする理由にはならないと考えます。

ノージック型——後から生まれた人についても、既存の所有制度によってロック的但し書きの意味で悪化させられているかが問題になります。ただし、比較すべき基準状態をノージック自身が完全には確定していないため、「未所有地が残っていない」という事実だけで但し書き違反になるとは言えません。重要なのは、その資源が未所有のままだった場合などと比べて、その人が実際に悪化しているかです。現代のノージック研究でも、このベースラインの曖昧さは重要な問題として残っています。

スタイナー/ジョージ型——自然資源についての平等な取り分は、最初の世代だけに与えられて終わるものではありません。新しく生まれた人々も自然資源の価値について平等な請求を持つと考えるなら、土地を一度売り切って永久に権利を固定するのではなく、土地・自然資源の経済的地代を継続的に徴収し、各世代に配分する仕組みのほうが理論に適合します。左派リバタリアンの研究でも、多世代社会では自然資源を一度きりで「売る」より、競争的地代で「貸す」と考えるほうが各世代の平等な取り分を保障しやすいと論じられています。

オーツカ型——単純に一人当たり同額の土地価値を配るというより、自然資源へのアクセスを含めて、各人がよい生を送る機会について平等な立場に置かれるかを問題にします。したがって、後発世代についても、その機会が不当に劣らないような取得条件が必要になります。

これは、先に生まれた人々は、自分たちの時代に未所有だった自然資源を取得することで、まだ生まれていない人々の自然への権利まで永久に決めることができるのかという世代間の問いです。

5 ― 200年前に奪われた土地は、誰に返すべきか

A家の土地が200年前に国家によって不当に没収され、B家へ与えられたとします。

その後、土地は売買や相続を何度も繰り返し、現在はCさんが事情を知らず、正当な対価を払って購入して住んでいます。そして、A家の正当な相続人も現在特定できるとします。

土地は誰のものでしょうか。

ノージック型——過去の取得や移転が不正であり、その影響が現在の所有関係まで続いているなら、不正の是正の問題が残ります。ただし、200年間のあいだに土地の価値や人口、相続関係が変わった場合に、具体的に誰へ何をどれだけ返すべきかについて、ノージック自身は完成した是正原理を示していません。現在の保有状態をそのまま正当化することもできませんが、単純な原状回復だけで解けるとも限らない、というのが彼の理論の難しいところです。

ロスバード型——この思考実験の条件なら、結論はかなり明確です。元の土地取得が犯罪的だったことが立証され、被害者A家の正当な相続人を特定できるのであれば、土地はA家側へ返還されるべきだと考えます。Cさんが盗みに関与せず、事情を知らずに購入した善意の所有者であっても、盗人は正当な権原を持っていなかった以上、正当な所有権をCさんへ移すこともできません。ロスバードは、被害者またはその相続人が特定できる場合には、現在の不正な権原は「直ちに」被害者側へ戻るとしています。

ただし、被害者やその相続人を特定できなくなっている場合は結論が変わります。その場合、現在の占有者自身が元の犯罪者でなければ、ロスバードは現在の占有者に権原を認めます。したがって、彼の理論では、「現在の占有者が善意かどうか」だけではなく、「本来の所有者またはその相続人を特定できるか」が決定的に重要です。

左派リバタリアン型——過去の強制的な土地収奪は、それ自体として是正すべき権利侵害になりえます。ただし、それとは別に、現在の土地所有にも自然資源の平等な取り分に関する制約が継続してかかると考えます。したがって、「200年前に誰が所有していたか」を確定して永久的な完全所有権を戻せば問題がすべて解決する、とは限りません。スタイナー型なら、現在の自然資源価値についても各人の平等な取り分を考慮する必要があります。

ここでは、原初取得についての抽象的な哲学が、征服、没収、植民地化、相続、善意の第三者、歴史的不正の是正といった現実の問題へ直接つながります。

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09

何が共通し、どこで分かれるのか

立場自己への権利自然資源の出発点私的取得はどう成立するか他者への条件・埋め合わせ
ロック自己の身体・労働への強い権利を認める人類に共有されたもの労働を加えることで私有化「十分な量と、同じくらい良いもの」を残すという条件/腐敗・浪費の制約。ただし解釈には論争がある
ロスバード強い自己所有権未所有最初の実際の使用・変形による原初取得他者に平等な取り分を残したり、補償したりする一般的義務は認めない
ノージック個人への非常に強い権利を認める未所有物の私的取得を認める完成した取得原理は提示していない取得によって他者を基準状態より悪化させない。悪化させる場合には補償が必要になりうる
ジョージ労働成果への強い私有権を認める土地は万人に等しい権利がある個人的な占有・利用は認める土地そのものから生じる地代を共同体へ戻す
スタイナー型の左派リバタリアニズム強い、ほぼ完全な自己所有権自然資源の価値について各人に平等な取り分私的取得・利用を認める一人当たりの平等な自然資源価値を超えて取得するなら、他者への補償が必要

この表から見えてくるのは、「私有財産を認めるか、認めないか」という単純な対立ではないことです。

ロスバード、ノージック、ジョージ、スタイナーはいずれも、人が自らの労働によって生み出したものについて強い権利を認めます。大きく分かれるのは、誰も作っていない自然資源について、最初に取得した人がどこまで排他的な権利を得られるのかという点です。

ロスバードに近づくほど、正当な原初取得によって強い私有権が成立します。スタイナー型に近づくほど、私的な利用・取得を認めながらも、自然資源の価値について他者の平等な取り分を継続的に考慮する必要があると考えます。ノージックはその単純な中間というより、取得によって他者を悪化させないという独自の条件を置きます。スタンフォード哲学百科事典も、右から左への違いを、自然資源の取得にどれだけ平等を維持する制約を課すかという連続的な違いとして整理しています。

この表から読み取れること

右派と左派の違いは——

財産権を重視するかどうか、ではありません。

少なくともここで扱った思想家たちは、人の身体や労働、そして人間が生み出したものについて、強い権利を認めます。

大きく分かれるのは、誰も作っていない自然世界について、どのような権利が最初から存在し、個人がどのような条件でそれを私有できるのかという点です。

  • ロック——自然はもともと人類に共有されている。しかし、人は労働を加えることで個人の財産を成立させることができる。ただし、その取得には「十分な量と、同じくらい良いもの」を他者に残すことや、浪費しないことなどの制約があると読まれてきた。
  • ロスバード——自然資源は原則として未所有である。最初に実際に使用・変形した人がその範囲を取得でき、他者に平等な取り分を残す一般的な義務はない。
  • ノージック——未所有の自然資源を私有化することはできる。しかし、その取得によって、それまで利用できた他者を基準状態より悪化させてはならない。
  • ジョージ——労働によって作られたものは個人のものだが、土地そのものは誰かが作ったものではなく、万人に等しい権利がある。私的な占有・利用は認めても、土地から生じる地代は共同体へ戻すべきだと考える。
  • スタイナー型の左派リバタリアニズム——自然資源を私的に取得・利用することは認める。しかし、その自然資源の価値については各人に平等な取り分があり、それを超えて取得するなら他者への補償が必要になる。

つまり争点は、「私有財産か、共有財産か」という単純な二択ではありません。

自然資源を私有するためには何が必要なのか。私有した後にも、他者に対して何らかの義務が残るのか。そこに大きな分岐があります。

このページでは結論を決めません

土地をめぐる論争は、リバタリアンの財産権論にとって周辺的な問題ではありません。むしろ、財産権を本気で考えれば避けて通れない問いです。

「土地への課税は財産権の侵害だ」と主張するなら——

では、その土地についての完全な所有権は、そもそも何によって正当化されるのか。

最初に使ったからでしょうか。労働を加えたからでしょうか。他者を悪化させなかったからでしょうか。それとも、現在まで正当な取得と移転の歴史が続いているからでしょうか。

逆に、「自然資源の価値には、すべての人に平等な請求権がある」と主張するなら——

なぜ、実際に土地を発見し、開墾し、利用した人だけでなく、そこに何の労働も加えていない人にも請求権があるのか。

「自然は誰も作っていない」というだけで、そこから全員の等しい権利が導かれるのでしょうか。

そしてもう一つ、現実の土地には歴史があります。

現在の土地所有が、征服、奴隷制、植民地化、国家による没収などの過去の暴力から生まれたものであるなら——

現在の所有権を守ることと、正当な財産権を守ることは、本当に同じなのか。

ロスバードとノージックのどちらにとっても、「現在その人が持っている」という事実だけでは、完全な答えにはなりません。正当な取得と移転の歴史が問題になります。

自己所有権を認めても、世界の所有権は自動的には決まりません。

自分は自分のものだ。では、世界は誰のものなのか。

土地と天然資源をめぐる論争は、リバタリアニズムの財産権論を、最も根本から試す問題の一つです。

リバタリアニズム内部の他の分岐については 応用編Ⅰ(リバタリアン内部の論争) を、財産権を何によって正当化するかという問い自体については 自然権論と帰結主義 を、アイデアという別種の対象については アイデアは所有できるのか をご覧ください。

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References

出典・参考リンク

  1. ジョン・ロック『統治二論』第二論文 第5章「所有権について」(第25〜51節)——本文中のロックからの引用は、第25節・第27節・第31節・第32節・第33節・第34節・第36節・第46〜50節によります。邦訳に、ジョン・ロック『改訂版 全訳 統治論』(伊藤宏之 訳、八朔社、2020年)があります
  2. マレー・ロスバード『自由の倫理学』(森村進・森村たまき・鳥澤円 訳、勁草書房、2003年)第9章「Property and Criminality」・第10章「The Problem of Land Theft」・第11章「Land Monopoly, Past and Present」・第29章 — 原初取得、土地の不正な権原、歴史的不正の是正、ノージック批判についての記述・引用は主としてこれらの章によります
  3. Murray N. Rothbard『Man, Economy, and State with Power and Market』第2章第12節 “Property: The Appropriation of Raw Land” — コロンブスの例、未使用の土地の原初取得、および「所有を維持するために土地を使い続ける必要はない」という記述はこの節によります
  4. Murray N. Rothbard「The Single Tax: Economic and Moral Implications」(Foundation for Economic Education、1957年)および「A Reply to Georgist Criticisms」 — ヘンリー・ジョージの土地単一税論への批判と、それに対する批判への応答。全面的な思想否定ではありません
  5. ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア——国家の正当性とその限界』(嶋津格 訳、木鐸社、1992年)第7章「配分的正義」— 権原理論、ロックの取得論、弱い但し書き、不正の是正についての引用はこの章によります
  6. Henry George『Progress and Poverty』(1879年)第1篇第2章・第4篇第2章・第6篇第2章・第7篇第1章・第8篇第2〜3章 — 「富」と「土地」の区別、土地私有への批判、地代の社会化、共同体による土地価値の形成、リップ・ヴァン・ウィンクルの例(第4篇第2章)、「共同体の成長によって創り出された」(第8篇第3章)はこれらによります
  7. Peter Vallentyne, Hillel Steiner & Michael Otsuka「Why Left-Libertarianism Is Not Incoherent, Indeterminate, or Irrelevant: A Reply to Fried」(『Philosophy & Public Affairs』第33巻第2号、2005年、pp.201–215)— 第6節の引用はこの論文によります
  8. Hillel Steiner『An Essay on Rights』(Blackwell、1994年)。邦訳『権利論——レフト・リバタリアニズム宣言』(浅野幸治 訳、新教出版社、2016年)
  9. Hillel Steiner「The Global Fund: A Reply to Casal」(『Journal of Moral Philosophy』第8巻第3号、2011年、pp.328–334)— 各人は自然資源価値の等しい取り分への権原を持ち、各国はその領域の未改良価値の100%に相当するGlobal Fund税を負う、という構想
  10. Michael Otsuka『Libertarianism without Inequality』(Oxford: Clarendon Press、2003年)— 自己所有権と平等主義的な自然資源取得条件について。日本語の研究文献では「マイケル・オーツカ」と表記するのが一般的です
  11. 左派リバタリアニズムへの批判として、Barbara H. Fried「Left-Libertarianism: A Review Essay」(『Philosophy & Public Affairs』第32巻第1号、2004年、pp.66–92)、Richard J. Arneson「Self-Ownership and World Ownership: Against Left-Libertarianism」(『Social Philosophy and Policy』第27巻第1号、2010年、pp.168–194)
  12. ロックの但し書きの解釈については、C. B. Macpherson『The Political Theory of Possessive Individualism: Hobbes to Locke』(Clarendon Press、1962年)の「The Limitations Transcended」(腐敗の制限・充足制限・労働の制限を扱う)、および Jeremy Waldron「Enough and as Good Left for Others」(『The Philosophical Quarterly』第29巻第117号、1979年、pp.319–328。「十分かつ同程度によいもの」を取得の必須条件とは読まない解釈)
  13. スタンフォード哲学百科事典「Libertarianism」(Bas van der Vossen & Billy Christmas、2023年8月7日改訂)— 第3節・第6節の分類はこの項目によります。“radical right libertarianism” という語は2014年7月改訂版にはロスバードらを指す分類として使われていましたが、2018年9月の改訂時点ですでに削除されており、現行版にもありません
  14. 同論点の概観は当サイトの 意見が分かれる10の論点(論点③)、思想家個人については マレー・ロスバード

※ 本ページは思想上の論争を紹介するもので、特定の税制や土地政策への賛否を述べるものではありません。「ロック的但し書き(Lockean proviso)」はロック自身が用いた名称ではなく、後世、とりわけノージックによる議論を通じて広く定着した呼称です。

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