空気は誰のものか ― 公害、財産権、ピグー税、環境規制
工場の煙が、隣の家まで流れてくる。これは「市場の失敗」なのでしょうか。それとも、隣人の財産権と身体への侵害なのでしょうか。どちらの言葉を使うかで、処方箋は正反対になります。前者なら政府への税、後者なら被害者への賠償です。そして問題は、加害者と被害者が一対一で特定できなくなったときに始まります。自動車が100万台なら。排出源が世界中にあるなら。被害が数十年後に出るなら。
内容は概ね固まっていますが、最終確認中です。
工場の煙が、隣の家まで流れてくる。これは「市場の失敗」なのでしょうか。それとも、隣人の財産権と身体への侵害なのでしょうか。どちらの言葉を使うかで、処方箋は正反対になります。前者なら政府への税、後者なら被害者への賠償です。そして問題は、加害者と被害者が一対一で特定できなくなったときに始まります。自動車が100万台なら。排出源が世界中にあるなら。被害が数十年後に出るなら。
内容は概ね固まっていますが、最終確認中です。
「環境問題」と一括りにすると、性質のまったく違う問題が混ざります。この論争では、その混同がそのまま結論の混乱になります。
少なくとも4つに分けて考えます。
工場Aの排水がBさんの池へ流れ込む。Aの煙で隣のCさんの作物が枯れる。
加害者・被害者・因果関係・被害が、いずれも比較的特定できます。リバタリアンの財産権論と最も相性のよいケースです。
何十万台の自動車。多くの家庭の暖房。ひとつひとつの排出は小さいのに、合計すると大気の質に影響する。
ここでは「誰が誰へ、いくらの損害を与えたのか」を個別の訴訟で証明する費用が、非常に大きくなります。
漁場、地下水、森林、牧草地。
自分が資源を少し多く利用すれば利益は自分のものですが、資源が減るコストは利用者全員に分散します。だから個人には獲りすぎる誘因が生まれる——いわゆる「共有地の悲劇」と呼ばれる構造です。
温室効果ガスが代表例です。排出源が世界中に分散し、今日の排出が数十年後に影響し、被害者も世界中にいます。
リバタリアンの環境論の難しさは、1から4へ進むにつれて増していくと考えると、この論争の地形が見えやすくなります。
この4分類が重要になる理由。「公害は財産権と賠償で処理できる」という主張も、「個別の賠償では無理だから政府が制度を作るしかない」という主張も、どの類型の話をしているかを言わないかぎり、噛み合いません。実際、リバタリアン内部の対立の多くは、片方が1を、もう片方が4を念頭に置いていることから来ています。
マレー・ロスバードは、公害を財産権論から扱いました。出発点は明快です。
工場の土地を所有しているからといって、そこから出た物質を隣人の土地や肺へ送り込む権利まで持っているわけではない。
この見方では、煙や排水は「市場が失敗した結果」ではありません。他人の身体と財産への侵害です。自分のゴミを隣人の庭へ投げ込む自由がないのと、同じ論理です。
この立場から出てくる処方箋は、役所が許容排出量を決めることではありません。被害者が差止めと損害賠償を求められること——つまり財産権と不法行為法が機能することです。
結果として、汚染を出す企業はその損害を事業のコストとして負担しなければならなくなります。
価格に環境コストを反映させるという意味では、これはピグー税と似た効果を持ちます。しかし決定的な違いがあります。
支払先が政府ではなく、権利を侵害された被害者である。
ここは誤解されやすいところです。財産権論を徹底すると、こういう疑問が出ます。
自動車を運転すれば排気が出ます。薪ストーブを焚けば煙が出ます。喫煙もそうです。それらがすべて違法なら、現代社会のほとんどの活動が禁止されてしまいます。
マット・ズウォリンスキーは、まさにこの形で不侵略原則を批判しています。原則を絶対的に適用すれば、あらゆる汚染を禁じることになってしまう——という帰謬法です。
ロスバード自身は、そこまでは主張していません。彼が引く線は、意外に精密です。
正しい区別は、財産の所持と使用を妨げる、目に見え・触れうる、すなわち「感知しうる」侵害と、それを妨げない、目に見えない「感知しえない」越境とのあいだにある。
基準は「見えるかどうか」ではありません。所持と使用を妨げるかどうかです。彼が例に挙げるのは電波や低線量の放射線で、電波は「目に見えず、人間の感覚では感知できず、害もない。ゆえに実際には財産の侵害ではない」とされます。感知できない気体や粒子も、有害だと証明されないかぎりそれ自体では侵略にあたらない、というのが彼の立場です。
騒音についても同じです。
誰も、防音室のなかにいるかのように暮らす権利をもつとは主張しないだろう。訴えうるのは過度な騒音だけである。……防音室が欲しい者は、その設置費用を自分で払わなければならない。
ここは見落とされやすく、しかも被害者に不利に働く部分です。ロスバードは、公害訴訟における立証の水準について、こう書いています。
「合理的な疑いを超える(beyond a reasonable doubt)」証明が、リバタリアンの原理に最も適合する基準であるように思われる。
これは刑事裁判の水準です。日本を含む多くの国の民事訴訟が用いる水準より、はるかに厳しい。彼自身も、これが大胆で衝撃的に見える提案だと認めています。
つまりロスバードの枠組みは、加害者に厳格責任を負わせる一方で、被害者には非常に重い立証責任を課します。「財産権論は被害者を守る」とだけ要約すると、この半分が落ちます。
先に騒音や排煙を出していた者が、その排出を続ける一種の地役権を原初取得していると論じる部分もあります。後から隣に越してきた人が、以前からあった排出を止めさせることはできない、という筋道です。
ただし限定があります。地役権として取得できるのはそれまで実際に出していた水準までであって、後から増やした分は含まれません。「先に来た者は何をしてもよい」という主張ではありません。
それでも、境界の問題は残ります。どの濃度からが害なのか。将来の健康リスクをどこまで現在の損害と数えるのか。科学的に確率でしか示せない場合はどうするのか。
不侵略原則そのものからは、この線は自動的には出てきません。不法行為法、慣習、因果関係の立証水準、許容できるリスクといった追加の制度設計が必要になります。
↑ 目次へ戻る主流派経済学は、公害を典型的な負の外部性として説明します。
工場は原材料にも労働にも電気にも代金を払います。しかし煙によって周囲の住民に健康被害が出ても、その費用は工場の帳簿に載りません。意思決定者が負担していない費用が、第三者に発生している状態です。
イギリスの経済学者アーサー・セシル・ピグーは、私人が受け取る限界的な利益と、社会全体に生じる限界的な利益・損害とが乖離する場合を分析しました。両者がずれているなら、税や補助金によって資源配分を改善できる可能性がある——これが、のちにピグー税と呼ばれる考え方の源流です。
ある企業が1トン追加で排出すると、社会に1万円の追加的な損害が生じるとします。企業はその1万円を払っていません。そこで1トンあたり1万円を課税する。
すると企業は自分で計算します。「削減費用が5,000円で済むなら減らしたほうが得だ。2万円かかるなら税を払って排出したほうが得だ」。
政府が「この技術を使え」「この工場を閉めろ」と直接命令するのではなく、価格を通じて各企業に削減方法を選ばせるのが特徴です。
ここは重要です。ピグー的な論理では、追加的な削減の費用と追加的な被害を釣り合わせます。削減費用のほうが大きくなる領域では、一定の排出が残るほうが効率的だと考えます。
公害を権利侵害として捉える立場とは、ここが本質的に違います。侵害は「効率的な量」まで許されるものではないからです。
1 ― 自然権型(ロスバード系): 原則として否定的。
理由は複数あります。税は強制であること。被害者へ直接の賠償が渡らないこと。そして——
隣人の家へ有毒ガスを投げ込む代わりに、政府へ1万円払う。
被害者本人は同意していない。
この構図では、ピグー税は権利を守る制度ではなく、一定量の侵害を有料で許可する制度に見えてしまいます。これが自然権型からの最も根本的な批判です。
2 ― 古典的自由主義・制度比較型: 条件付きで検討しうる。
排出源も被害者も多数いる類型(第1節の2と4)では、個別訴訟の費用が非常に高くなります。そこでは、詳細な命令型規制よりも、汚染税や取引可能な排出枠のほうが市場の情報と選択を残せるという議論が成り立ちます。
3 ― オーストリア学派的な批判: そもそも計算できるのか。
理論上のピグー税は、限界的な外部損害の推計を必要とします。しかし健康被害、景観、将来のリスク、生態系の価値、地域ごとの差を、一つの金額へ足し上げることは容易ではありません。価値や機会費用は主観的であるという学派の主張からすれば、「社会的な損害」を政府が客観的な一つの数値として計算できるのかという疑問が残ります。
4 ― 公共選択論的な批判: 理論上の税と、現実の税は別物である。
環境税の税率や対象は、純粋な科学計算だけで決まりません。産業団体、環境団体、官庁、政治家、既得権者の利害が関わります。市場の失敗を指摘しただけでは、政府の失敗のほうが小さいことまでは証明されません。
ジェームズ・ブキャナンとウィリアム・クレイグ・スタブルバインは1962年の論文「Externality」で、是正の余地がある外部性と、均衡においてなお残る「パレート無関連」な外部性とを区別し、こう述べました。
外部性が存在すると観察されるすべての場合に、介入の一応の根拠があるわけではない。
ブキャナンはゴードン・タロックとの『合意の計算』(1962年)で、集団的な意思決定それ自体にも費用がかかることを定式化し、こう結論しています。
私的行動の外部効果の存在は、その活動を集合的選択の領域に置くための、必要条件でも十分条件でもない。
⚠ ただし、これを「政府は常に市場に劣る」と読むのは誤りです。同じ『合意の計算』第5章で、彼らは「外部性を除去するのに十分な自発的契約を組織する費用のほうが、同じ目的を達成するのに十分な集合的行動を組織する費用より高いことがありうる」とも明記しています。主張は両方向の非決定——外部性の存在だけでは、政府に任せるべきかどうかは決まらない——であって、政府の一律劣位ではありません。
自由市場環境論の側でも、汚染税を絶対に排除するとは限りません。ジョナサン・アドラーは『リバタリアニズム百科事典』の「Environment」の項で、こう書いています。
自由市場環境論の枠組みを、いくつかの環境資源へ適用することは難しい。たとえば地域的な大気汚染は、大気について個別化された財産権を定義し防御することができないために、扱いが難しい。地域の大気圏は、囲うことのできないコモンズかもしれない。この種の問題に対処するため、リバタリアンの環境論者は、市場が提供する制度的な仕組みを再現しようとするさまざまな政策を支持している。しばしば論じられる二つの準市場的なアプローチが、「汚染税」の賦課と、売買できる取引可能な排出許可のような、排出についての準財産権の創設である。もう一つのアプローチは、資源を管理する組合や協同的な事業体を作ることである——ちょうど、マンション管理組合が共用部分を管理するように。
本ページがこれをリバタリアン内部の論争として扱うのは、そのためです。
↑ 目次へ戻る1960年、ロナルド・コースは「The Problem of Social Cost(社会的費用の問題)」で、ピグー的な外部性論に大きな修正を加えました。
工場の騒音で住民に100万円の損害が出ているとします。防音設備の費用は50万円です。
住民に「静かな環境への権利」があるなら、工場は50万円を払って防音するでしょう。逆に工場に「騒音を出す権利」があるとしても、住民側には最大100万円まで払って防音してもらう価値があります。
交渉に費用がかからないなら、最初にどちらへ権利を配分しても、当事者どうしの交渉で同じ効率的な結果へ行き着く。これが、のちに「コースの定理」と呼ばれた論理です。
彼自身の言葉では、こうなります。
私がその論文で示したのは、私の考えでは、取引費用ゼロという体制のもとでは——これは標準的な経済理論の想定ですが——当事者間の交渉は富を最大化するような取り決めへ導き、しかもそれは当初の権利の配分にかかわらずそうなる、ということでした。
これは意外に知られていません。1991年のノーベル記念講演で、彼はこう続けています。
これが悪名高い(infamous)コースの定理であり、それを名づけ、定式化したのはスティグラーです。私の仕事にもとづいてはいますが。
そして、この定理を自分がどう位置づけているかを、はっきり書いています。
しかし私は、コースの定理を「正の取引費用をもつ経済の分析へ向かう途中の踏み石」とみなす傾向があります。
ここが最も誤解されている点です。同じ講演の、すぐ次の文です。
もちろんそれは、取引費用が正であるとき、政府の行動(政府による運営、規制、あるいは補助金を含む課税など)が、市場における個人間の交渉に依拠するよりも良い結果を生みえない、ということを含意するものではありません。それがそうであるかどうかは、想像上の政府を研究することによってではなく、現実の政府が実際に何をしているかによって発見されうるでしょう。私の結論は——正の取引費用の世界を研究しよう、ということです。
読み飛ばせない一文です。コースは「取引費用が正なら、課税や規制のほうが良い結果になることもありうる」と明示的に認めています。そのうえで、それを判断するには、抽象論ではなく現実の政府が実際に何をしているかを観察する必要があると言っています。
この一文は、二つの方向へ同時に効きます。「コースは市場万能を証明した」という読み方も、「外部性があるのだから当然に課税すべきだ」という読み方も、どちらもここで止まります。
取引費用が正の世界へ移ると何が起きるか。コースの答えは明快です。
すぐに明らかになるのは、この新しい世界における法制度の決定的な重要性です。私は『社会的費用の問題』で、市場で取引されているのは、経済学者がしばしば想定するような物理的な実体ではなく、一定の行為をなす権利であり、個人が持つ権利は法制度によって確定されるのだと説明しました。
だから彼が求めたのは、抽象的な「市場か政府か」ではありません。
現実の取引費用を含めたうえで、実際の制度どうしを比較せよ。
財産権の配置、裁判制度、契約、団体による管理、規制、課税——それぞれが実際にどれだけの費用を要し、どれだけ機能するのか。比較の対象は、理想化された市場と理想化された政府ではなく、現実に運用可能な制度です。
| 状況 | 取引費用 | 機能しやすい仕組み |
|---|---|---|
| 工場1社 × 隣人1人 | 低い | 財産権・交渉・不法行為法 |
| 工場10社 × 住民100人 | 中程度 | 集団訴訟、住民組合、企業間の協定 |
| 自動車100万台 × 都市住民 | 高い | 個別賠償は困難。制度的な仕組みが要る |
| 世界中の排出者 × 世界中・将来世代 | 非常に高い | 個別不法行為モデルはほぼ実装できない |
「あなたの排気ガスの0.0001%が私の健康被害の原因なので、42円請求します」という訴訟を100万件起こすことは、現実的ではありません。取引費用は、抽象論ではなく制度選択を左右する具体的な制約です。
↑ 目次へ戻る共有資源の議論は、長く二つの選択肢で語られてきました。
自由市場環境論——テリー・アンダーソンとドナルド・リールらの系譜——は、前者を重視します。環境問題の多くは市場があるから起きるのではなく、資源が財産権と交換の制度の外側に置かれているために起きる、という見方です。彼ら自身の言葉では、こうなります。
しかし、資源を利用する権利が万人に開かれているなら、「共有地の悲劇」は不可避である。……共有地の悲劇を解消するには、希少な自然資源を誰が使い、誰がそこから価値を得るのかを、限定し明確にすることが必要である。
三つ、落としやすい点があります。
第一に、法の支配と裁判所は前提に置かれています。彼らはこの枠組みの基本を「財産権と法の支配の重要性」と書き、財産権がときに国家の行為を通じて生まれてきたことも認めています。主張は「政府をなくす」ではなく、政府の役割を規制者から権利の画定・執行者へ移すことです。
第二に、診断の半分は「政府の失敗」に向けられています。補助金、官僚的な資源管理、政治的な配分——環境の悪化の少なくとも一部は、政治過程そのものが作り出した誘因の歪みだ、というのが彼らの議論のもう半分です。「権利がないから起きる」だけを取り出すと、この半分が落ちます。
第三に、権利の画定にも費用がかかります。だから彼らは「権利がなければ常に間違い」とは言いません。西部辺境の放牧地について、混雑の影響が現れ始めるまでは、財産権を画定し執行することは割に合わなかった——と書いています。希少性が高まって初めて、権利の設定が採算に合うという議論です。
大気。回遊魚。広大な地下水脈。海洋。
これらは境界を引き、他人を排除すること自体の費用が非常に高くなります。自由市場環境論の側でも、この難しさは認められています。
2009年にノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムの受賞理由は、「経済的ガバナンス、とりわけコモンズについての分析に対して」でした。
スウェーデン王立科学アカデミーのプレスリリースは、彼女の貢献をこう説明しています。
エリノア・オストロムは、共有財産はうまく管理されないものであり、中央の権威によって規制されるか、さもなければ私有化されるべきだ、という通念に異議を唱えた。利用者によって管理された漁場、牧草地、森林、湖沼、地下水盆についての数多くの研究にもとづき、オストロムは、その帰結が標準的な理論の予測よりも良好であることのほうが多い、と結論づけている。
ここで彼女が退けている二択の片方——中央政府が資源を所有して採取に課税する案——は、ノーベル委員会の解説でピグーに結びつけられています。第3節の議論と、ここでつながります。
彼女の受賞講演の題は、「市場と国家を超えて(Beyond Markets and States)」でした。
オストロムは『Governing the Commons』(1990年)で、長期に存続した自主管理の制度に共通する条件を、8つの「設計原理」として抽出しました。境界が明確であること。規則が地域の条件に見合っていること。影響を受ける人が規則の改定に参加できること。そして——
中央政府の管理でもなく、個人への私有化でもない自己統治が、長期に機能していた——これが実証的な発見です。
ここを落とすと、オストロムを片方の陣営の道具にしてしまいます。
彼女は成功例だけを並べたのではありません。同書の第5章は、まるごと制度の失敗と脆弱性の分析に充てられています。スリランカの漁業や灌漑事業、ノヴァスコシアの沿岸漁業といった、機能しなかった事例です。設計原理は、成功と失敗を対比して取り出されたものです。
したがって彼女の主張は「自治すれば必ずうまくいく」ではありません。
一定の条件が満たされたとき、自治は長期に機能しうる。
これは、中央政府による一律管理へ警戒するリバタリアンにとって重要な研究であると同時に、「共有資源は個人へ私有化すれば解決する」という単純な議論への修正でもあります。
↑ 目次へ戻るここまでの論争は抽象的に見えますが、日本法はこの論点のいくつかに、すでに立法的な答えを出しています。しかも、リバタリアンの議論と正面から重なる形で規定されています。
民法第709条(不法行為による損害賠償)
故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
日本の不法行為法の原則は、故意または過失を要件とします。落ち度がなければ責任を負わない、という考え方です。
大気汚染防止法第25条(無過失責任)
工場又は事業場における事業活動に伴う健康被害物質の大気中への排出により、人の生命又は身体を害したときは、当該排出に係る事業者は、これによつて生じた損害を賠償する責めに任ずる。
「故意又は過失によって」という文言がありません。水質汚濁防止法第19条にも、ほぼ同じ構造の無過失責任規定が置かれています。
ここは注目に値します。ロスバードが主張した厳格責任(strict liability)に近い構造を、日本の公害法制はすでに採用しているということだからです。行政的な排出基準を守っていたかどうかとは別に、賠償責任が生じます。
⚠ ただし、公害一般に無過失責任が及ぶわけではありません。対象は条文が定める健康被害物質・有害物質であり、被害も人の生命または身体に限られます。因果関係など、法律上の要件を満たす必要があることも変わりません。
第1節の類型2——多数の排出源——は、リバタリアンの議論では大きな難所でした。日本法はここにも規定を置いています。
民法第719条(共同不法行為者の責任)
数人が共同の不法行為によって他人に損害を加えたときは、各自が連帯してその損害を賠償する責任を負う。共同行為者のうちいずれの者がその損害を加えたかを知ることができないときも、同様とする。
後段が効きます。共同不法行為の適用要件を満たす場合には、誰の行為が損害を与えたかを個別に特定できなくても、連帯して責任を負うという規定です。個別の因果関係の証明という、財産権モデル最大の障壁に対する立法的な対応と読めます。
そのうえで、大気汚染防止法第25条の2と水質汚濁防止法第20条は、原因となった程度が著しく小さい事業者について、裁判所が賠償額を定める際にその事情を斟酌できるとしています。
環境基本法第2条第3項は「公害」を、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁、土壌の汚染、騒音、振動、地盤の沈下及び悪臭による、人の健康または生活環境に係る被害と定義しています。いわゆる典型七公害です。
同条第2項では「地球環境保全」の定義に「地球全体の温暖化」が明記されています。
これも見落とされがちです。租税特別措置法第90条の3の2「地球温暖化対策のための石油石炭税の税率の特例」により、2012年10月1日以後、石油石炭税の税率が本則より引き上げられています。
| 課税物件 | 本則税率 (石油石炭税法9条) | 特例税率 (租特法90条の3の2) | 上乗せ分 |
|---|---|---|---|
| 原油及び石油製品 | 1キロリットルにつき2,040円 | 2,800円 | 760円 |
| ガス状炭化水素 | 1トンにつき1,080円 | 1,860円 | 780円 |
| 石炭 | 1トンにつき700円 | 1,370円 | 670円 |
この上乗せ分が、一般に「地球温暖化対策のための税」と呼ばれているものです。
条文上、税率は「CO2の1トンあたり」ではなく、燃料の数量あたりで書かれています。それでも燃料ごとに上乗せ額が違うのには理由があります。環境省の説明によれば——
化石燃料ごとのCO2排出原単位を用いて、それぞれの税負担がCO2排出量1トン当たり289円に等しくなるよう、単位量(キロリットル又はトン)当たりの税率を設定しています。
つまりこれは、排出1単位あたりに同じ価格をつけ、どこでどう削減するかは各事業者に選ばせるという、ピグー税に近い炭素課税です。第3節で見た仕組みが、条文の数字として実装されています。
⚠ ただし「教科書どおりのピグー税」とまでは言えません。理論上のピグー税は、最適点における限界的な外部損害に税率を合わせます。289円という数字が気候変動の限界外部損害の推計と一致するように定められた、という根拠はありません。
つまり日本は、公害については無過失責任(ロスバード的な厳格責任に近い構造)を、地球規模の排出については燃料課税(ピグー的な仕組み)を、それぞれ採用していることになります。第1節の類型によって制度を使い分けている、と読むこともできます。
↑ 目次へ戻るこの節では、二つの問いを分けます。①人為的な排出が実際にどれだけ気候を変え、どれだけの損害を生むのか(科学的評価の問題)②仮に他者へ損害が生じるとして、リバタリアンはその権利侵害をどの制度で処理するのか(制度設計の問題)。本ページが扱うのは②です。①についてはリバタリアンの間でも見解が分かれますが、それは科学の論争であって、本ページの主題ではありません。
議論の出発点として、IPCC第6次評価報告書の統合報告書が政策決定者向け要約の冒頭(A.1)で示している評価を、そのまま引いておきます。政府による暫定訳です。
人間活動が主に温室効果ガスの排出を通して地球温暖化を引き起こしてきたことには疑う余地がなく、1850〜1900年を基準とした世界平均気温は2011〜2020年に1.1℃の温暖化に達した。世界全体の温室効果ガス排出量は増加し続けており、持続可能でないエネルギー利用、土地利用及び土地利用変化、生活様式及び消費と生産のパターンは、過去から現在において、地域間にわたって、国家間及び国内で、並びに個人の間で不均衡に寄与している(確信度が高い)。
本ページは、この評価の当否を論じません。ここから先は、②の問いです。
気候変動が難しいのは、財産権モデルの前提がほぼすべて崩れるからです。
工場Aの煤煙でBさんの洗濯物が汚れた。これは比較的わかりやすい。ではCO2はどうでしょうか。
純粋な個別損害賠償モデルでは、取引費用と因果関係の証明という壁が、極端に高くなります。
厳格な自然権型——実際の権利侵害と因果関係を証明し、加害者から被害者へ賠償させるという原則を、実装が難しいという理由で崩すべきではない。
制度比較型——個別訴訟が事実上機能しないなら、課税や排出枠のような制度を、詳細な命令型規制よりは自由を残す次善の策として比較すべきである。
オーストリア学派的な批判——「社会的な損害」を政府が客観的に計算できるという前提そのものを疑うべきである。市場過程、技術革新、適応、財産権制度を重視せよ。
公共選択論的な批判——理論上の理想的な炭素税と、現実の政治家・官庁・利害団体が設計する税とを区別すべきである。
ここでは、原則の純粋さと、巨大な取引費用を持つ現実問題への制度的対応が、正面から衝突します。
政府などが総排出量の上限を決め、その枠を企業間で売買できるようにする仕組みです。削減が安くできる企業は枠を売り、高くつく企業は枠を買う。
どこで削減するかを市場に決めさせる点はピグー税と似ています。しかし財産権論からは、別の問いが立ちます。
政府は、そもそも誰の権利を使って「汚染する権利」を売っているのか。
既存企業へ無償で枠を配れば、過去の排出者へ特権を与えることにもなりかねません。
↑ 目次へ戻る工場Aは合法的に操業し、行政の排出基準も守っています。しかし隣家Bには毎日煤が届き、清掃費がかかります。
財産権型——行政基準を守っているかどうかは本質ではない。Bの財産を侵害しているなら、Aには差止めと賠償の責任がある。
規制型——個々の裁判より、統一された排出基準のほうが安定して予測できる。
ここでは「政府の許可は、私人の権利を侵害する免罪符になりうるのか」が問われます。日本法では、無過失責任の規定があるため、基準の遵守と賠償責任は別の問題として扱われます(第6節)。
ある排出は健康へ小さな損害を与えています。90%削減する費用は安い。しかし残り10%をゼロにするには巨額の費用がかかります。
厳格な権利論——他人への侵害なら、経済的な便益が大きくても続ける権利はない。
ピグー・厚生経済型——損害より削減費用のほうが大きくなるなら、一定量を許容するほうが効率的である。
慣習・閾値型——すべての微小な越境を侵害とはせず、社会生活に通常伴う程度と実質的な妨害とを区別する。
権利は、費用便益計算を超えるのか。この問いが正面に出ます。
政府は工場へ年間100万円の環境税を課し、工場は全額納めています。しかし近隣住民には実際の健康被害があります。
ピグー型——税が正しく外部損害を反映しているなら、排出判断に社会的コストが内部化されている。
自然権型——被害者本人の同意も賠償もないなら、政府への納税は、他人を侵害する権利を買ったことにはならない。
この問題は、効率的であることと、権利の上で正当であることは同じではないという点を最も明確に示します。
湖を100の区画に分けても、魚は自由に泳いで境界を越えます。政府が漁獲量を中央で決める案もあります。湖全体を一社へ売却する案もあります。一方、漁師自身が漁期・漁具・漁獲量・監視・違反への制裁を、自分たちで決めている場合もあります。
単純私有化型——明確な所有者を置けば、資源価値を維持する誘因が生まれる。
中央規制型——全体の資源量を管理する主体が必要である。
オストロム型——利用者自身の長期的な共同統治が、地域の知識と監視を活かして最も機能する場合がある。
「私有か国有か」以外にも制度があることが、ここでわかります。
Aさんが今日、自動車で10キロ走りました。Aさん一人の排出による損害を、特定のBさんの被害へ直接結びつけることは、極めて困難です。しかし同じ排出が数十億人分積み重なると、全体としては影響します。
厳格な不法行為型——特定の加害と損害の因果関係を証明できないなら、強制的責任を負わせることには慎重であるべきである。
集団外部性型——まさに個別責任では処理できないからこそ、炭素価格のような集団的制度が必要になる。
制度比較型——どちらかが抽象的に正しいと決めず、課税、排出枠、技術革新、適応、法的責任などの現実の費用と効果を比較すべきである。
これが、個人の権利論だけで大規模な集合行為問題を処理できるのかという、リバタリアン環境論最大の難問です。
↑ 目次へ戻る| 立場 | 公害の基本的な理解 | 主な解決策 | 最大の問題意識 |
|---|---|---|---|
| ロスバード型 財産権論 | 身体・財産への侵害 | 差止め、損害賠償、厳格責任 | 政府が侵害を許可してはならない |
| 自由市場環境論 | 財産権・市場制度の不足 | 私有権、契約、責任、準市場的制度 | 所有者に資源価値と責任を結びつける |
| ピグー型 | 負の外部性 | 排出課税・補助金 | 私的費用と社会的費用を一致させる |
| コース型 制度分析 | 権利配置と取引費用の問題 | 交渉、裁判、法制度、各制度の比較 | 現実の取引費用を含めて比較する |
| オストロム型 | 共有資源の統治問題 | 利用者による自己統治 | 市場か国家かの二択を超える |
| オーストリア学派 からの批判 | 外部性概念・社会的費用の計算が疑わしい | 財産権、市場過程、法的責任 | 主観価値を政府が集計・最適化できるのか |
| 公共選択論 からの批判 | 政策にも外部性・利権がある | 政府制度自体を比較対象にする | 「市場失敗→政府介入」で終わらせない |
| 確定していること | 評価が分かれること |
|---|---|
| ロスバードが公害を財産権・身体への侵害として扱ったこと | その枠組みが多数当事者の問題まで扱えるかどうか |
| 彼の区別の基準が「見えるかどうか」ではなく所持と使用を妨げるかどうかであること | どこからが侵害かという線を誰がどう引くか |
| 彼が立証責任に刑事水準(合理的疑いを超える証明)を求めたこと | それが被害者救済として現実的かどうか |
| ブキャナンらが「外部性の存在は集合的処理の必要条件でも十分条件でもない」としたこと | 個々の事例でどちらが安く済むか |
| 自由市場環境論が法の支配と裁判所を前提に置き、診断の半分を政府の失敗に向けていること | その枠組みを大気や公海へどこまで広げられるか |
| ピグー税が政府への納税であって被害者への賠償ではないこと | それでも制度として採用に値するかどうか |
| 「コースの定理」を名づけたのがスティグラーであること | その定理をどこまで実際の政策論に使えるか |
| コースが「取引費用が正のとき、政府の行動が市場交渉より良い結果を生みえないとは含意しない」と明言していること | では現実の制度比較から実際に何が導かれるか |
| オストロムが「共有=必ず悲劇」も「私有化か中央規制かの二択」も実証的に修正したこと | 自己統治がどの範囲まで拡張できるか |
| 彼女が失敗事例も章を割いて分析し、条件つきの結論を出したこと | その条件を大規模・地球規模の問題へ適用できるか |
| 日本法が公害に無過失責任を、燃料に上乗せ課税を採用していること | その制度設計をリバタリアンとしてどう評価するか |
公害について、最も直感的なリバタリアンの答えは簡単です。
自分のゴミを、他人の土地へ捨ててはならない。
工場の煙でも排水でも、基本的な原則は同じだと考えられます。環境問題を理由に財産権を弱めるのではなく、公害を財産権侵害としてもっと厳格に扱う——これがロスバード型の主張でした。
しかし現代の環境問題は、隣の工場だけではありません。何百万台の自動車。都市全体の大気。共有する地下水。回遊する魚。国境を越える温室効果ガス。
当事者が増え、時間が長くなり、因果関係が分散するほど、「加害者が被害者へ賠償すればよい」だけでは制度として機能しにくくなります。
そこでピグーは「汚染の社会的コストに価格をつけよ」と考え、コースは「誰が悪いかだけでなく、権利と取引費用を見よ」と考え、自由市場環境論は「そもそも財産権が曖昧だからコストを他人へ押しつけられるのだ」と問い直し、オストロムは「私有化か政府管理かという二者択一そのものが狭い」と示しました。
本当の問いは、こうなります。
環境を守るために市場をどこまで制限するか、ではない。
他人へ環境コストを押しつけることを、どうすれば本当に本人のコストにできるのか。
損害賠償なのか。契約なのか。共有資源の自己統治なのか。排出枠なのか。ピグー税なのか。それとも、複数を問題ごとに使い分けるのか。
環境と公害をめぐる論争は、財産権、外部性、知識問題、国家の失敗、そして現実の取引費用を一度に試す、応用テーマです。
関連する論点として、天然資源を誰が最初に所有できるのかという問題は 土地は誰のものか、権利と結果のどちらから自由を正当化するかという問い自体は 自然権論と帰結主義、財産権の境界をどこに引くかという同型の問題は アイデアは所有できるのか をご覧ください。
↑ 目次へ戻る※ 第1節の4分類と第4節の取引費用の表は、論争の見取り図として本ページで用いた整理です。リンク先は各公開元のサイトです。所在は掲載時点のものです。